この著者の本
『非核兵器地帯という選択――分断を超えて〈コモン〉へ』梅林宏道著、地平社
非核三原則の誕生――憲法に並ぶ原則
1967年に日本の非核三原則を打ち出したのは佐藤榮作首相であるが、それは同じ首相が数カ月後に打ち出した「核の四政策」の一つを構成する。四政策とは、今日の用語で言えば、①非核三原則、②究極的核兵器廃絶と段階的核軍縮、③アメリカの核抑止力(核の傘)への依存、④核エネルギー平和利用の推進、である。したがって、非核三原則は四政策全体の中で理解されなければならない。
それを前提に、まず非核三原則誕生の経過を見ておこう。
「もう一つ、この際私どもが忘れてはならないことは、わが国の平和憲法であります。また核に対する基本的な原則であります。核は保有しない、核は製造もしない、核を持ち込まないというこの核に対する三原則、その平和憲法のもと、この核に対する三原則のもと、そのもとにおいて日本の安全をどうしたらいいのか、これが私に課せられた責任でございます。」
(1967年12月11日、佐藤榮作)
これは、非核三原則を初めて打ち出したときの衆議院予算委員会における佐藤首相の答弁の抜粋である。このように、非核三原則は平和憲法とならぶ日本の安全保障における原則という、極めて重要な位置づけにおいて提起された。
この位置づけの論理をより正確に理解するためには、答弁に至る質疑の流れを説明する必要がある。
質問者であった松野頼三(自由民主党)のテーマは、日本の安全保障問題であった。具体的には、松野は「日本の脅威の一番現実的なものは中共の核爆発」と述べ、1964年10月以来、わずか3年余りで6回の核爆発実験を行なった中国の急速な核兵器開発がもたらしている脅威に対して、日本の防衛をどうするのか、「どうすれば日本の国民を核から守れるか、これが私の今日の一番念頭から去らない防衛の基本」であるとした。同時に、松野は日本を守るために自衛隊の強化をどう具体的に推進するか、と自衛隊強化の方法に関する問いも重ねた。
松野の質問に対して佐藤首相は、まず日本がそれまでに築いてきた防衛体制の基本を述べた。
「今日までの自衛隊、同時にまた日米安全保障体制、これがわが国の安全を確保しておるんだ、したがって、……この体制はくずさない、かように実は考えております。」
佐藤首相は端的に、自衛隊のもつ軍事力と日米安保体制による米軍の軍事力で日本を守るという基本的な前提を述べた。そのうえで「もう一つ……」と、首相は前記の引用文を続けたのである。すなわち、自衛隊と日米安保体制の二本柱の軍事力で国防を考えるが、ただしその運用に際にしては、平和憲法と非核三原則という二つの原則を逸脱してはならない、と主張したのである。
記憶すべきことであるが、この答弁において、佐藤は核兵器を忌避することにおいて極めて雄弁であった。
「私は中共の核だけを云々するのではないのです。核兵器をもっている国に対しましては同じように、アメリカであろうが、ソ連だろうが、フランスだろうが、イギリスだろうが、もう人類の存立を危うくするような核兵器、これはないようにしようじゃないか、絶対に使わないようにしようじゃないかという、そういう考え方で日本の平和憲法の精神を述べておるのが、現状であります」
「……われわれの理想としては、いわゆる平和利用ということは今後進められるだろうが、核兵器はとにかくこれから地上からなくなる、こういうことが望ましいことではないか、かように思いますので、それだけ補足説明しておきます。」
これらの言葉からうかがえるように、極めて強い反核兵器の感情が、少なくとも公の場面における訴えの基礎となっている。それは佐藤に限らず、思想の左右を問わず当時の多くの政治家に共通する傾向であった。
その背景には、言うまでもなく強い日本の世論があった。
反核兵器、国際的訴えが先行
よく知られているように、1954年3月1日の米国によるビキニ環礁における水爆実験のインパクトが、日本社会に変化を生む契機となった。水爆実験による放射性降下物=死の灰によって日本の漁船が被ばくし、9月には第五福竜丸の久保山愛吉・無線長が放射能症によって死亡した。放射能汚染された大量の「原爆マグロ」が築地市場で廃棄され深さ3メートルの穴に埋められた。市民の身近に降りかかったこれらの原爆被害が、米軍の占領政策のなかで封印されてきた広島、長崎の原爆被害に光を当てることになった。爆弾投下による大量死と阿鼻叫喚の地獄絵となる破壊の恐怖を知り始めただけではなく、生涯に続く放射能障害を含む原爆特有の恐ろしさが、被爆者の証言も加わって日本社会に広く共有されていった。
反核兵器の主張は、日本の政治においては、非核三原則のように国内の政策に向かう課題であるよりも、まず国際社会に向かう課題として登場した。
ビキニ核実験から1カ月後、佐藤榮作(当時、自由党)を代表とする10名が「原子力の国際管理に関する決議案」を衆議院に提出した。決議は全会一致で採択された。
決議案の趣旨説明をしたのは須磨彌吉郎(当時、改進党)であったが、広島、長崎、ビキニ核実験による被害を次のように述べ、日本が核兵器問題について強く国際的に発信する責任があると主張した。
「3月1日の実験はアメリカ国防当局の予想をはるかに超越いたしまして、……実験の恐ろしさを物語るものであります。
……さきに戦争の末期におきまして、広島、長崎に初めて原子爆弾が見舞われて二十数万の同胞が一瞬にしてその犠牲となったことは、わが民族史の痛ましくも忘れがたい一こまであります。……
わが日本は、人類多き中に、初めて原子兵器の犠牲となり、しかも二度ならず三度までも惨害を受けたのでございますから、ここに世界に対し、人類を代表して、かくのごとき惨禍の一日もすみやかに絶滅せられるよう、実効ある方法を立て、人類を破壊から救うことを提唱する上におきまして、最も崇高なる権利と、そしてまた最大の発言力とを有するものと信ずるのでございます。」
このように、被爆国としての自己認識が、まず核兵器禁止や核実験禁止の国際的訴えへと向かったのは自然なことであっただろう。その訴えが、やがて日本自身に向かうに至った契機は、いわゆる「原子力の平和利用」であった。







