【全文公開】「時はきた」と言わせない――戦争の記憶とメディアと平和主義

大森淳郎(元NHKディレクター。主にETV特集を制作)
2026/07/06
Soldiers in camouflage and helmets disembark from a landing craft onto a sandy beach during a military operation.
1945年4月1日、沖縄本島に上陸するアメリカ軍海兵隊
Grayscale magazine cover featuring vertical Japanese title on the right with a dark translucent overlay and plant silhouettes in the background (special feature).
2026年8月号特集「戦後でありつづける」

「時はきた」のか

 誰にでも、この人は裏切れないと思う人がいるだろう。私にもいる。とりわけ政治の右旋回が顕著な昨今、思い出すのは、その戦争体験をテレビカメラの前で話してくれた人々の顔だ。

 宮城千代さん(1997年取材当時76歳)は沖縄県浦添市で小さなよろず屋を営んでいた。彼女の生家は小湾(こわん)という海辺の集落にあったが、今、その集落はない。米軍基地の中にまるごと飲み込まれてしまったからだ。

 沖縄地上戦の最中、アメリカ軍が小湾に迫ると、村人たちは砲火の中を南へ南へと逃れていった。日中はガマや亀甲墓の中などに身を隠し、夜になるとひたすら歩いた。ある日、ガマの入り口で砲弾が炸裂し、外の様子をうかがっていた千代さんの父と伯父が死んだ。千代さんも臀部に重症を負ったがそのまま逃げつづけた。

 一方、新婚まもない千代さんの夫、幸徳さんは沖縄の住民を集めて組織された防衛隊員となっていたが、日本軍の戦線が崩壊する中で部隊を離脱し、千代さんを探し回っていた。奇跡的に再会を果たした二人は豚小屋に身を隠すが、幸徳さんが千代さんの傷に当てていた布を川で洗うために小屋を出たとき艦砲が襲う。幸徳さんは米粒のような鉄片をこめかみに受け即死した。再会して4日目のことだった。千代さんは、これ以上は逃げようのない喜屋武(きやん)岬の岩陰に身を隠すが、ついにアメリカ軍に収容される。小湾の村人519人のうち142人が犠牲になっていた。

 生き残った村人たちは故郷に帰ろうとするが、そこはまるごとすっぽり、アメリカ軍のフェンスの中となっていた。彼らは故郷から2キロほど離れた荒地に新しい集落を作る。その片隅にあったのが千代さんのよろず屋だった。一人、日用雑貨や食料品を売りながら戦後を生き抜いてきた。

 千代さんはなかなかカメラの前に立とうとはしなかった。何度も訪ね、手紙を書き、やっと取材に応じてくれた千代さんが語ったのが先述の体験である。幸徳さんが死んだときの気持ちを聞こうとする私の目をまっすぐ見返しながら、千代さんは黙り込んだ。そしてこう言った。「もう忘れた。うちなんかはもう、戦争の話はやりたくない」。涙を溜めた目は充血し、口もとが小さく震えていた。

 鳥取県智頭(ちづ)町に暮らす谷村文三郎さん(2006取材当時88歳)は、うだるような暑さの中で畑仕事に精を出していた。

 谷村さんは、日中戦争当時、憲兵隊員として共産ゲリラの摘発に従事していた。心の奥深くに秘めてきた体験を話すようになったのは、安倍晋三官房長官(当時)が「戦後レジームからの脱却」を掲げて総理大臣の座をうかがっていた頃だった。

 谷村さんは、木陰に置いた椅子に座り、語り始めた。中国人捕虜への拷問は苛烈を極め、大量の水を無理やり飲ませたり、逆さ吊りにして殴打したりしたという。眠らせずに神経を錯乱させる方法もあった。そして、惨殺。「田んぼの脇に穴を掘っておいてね。後ろ手に縛って座らせる。首をこう前に出してなんかわめいているから何だと聞くと、早く斬れと言っていると。それで軍刀でサッと。遠くから村人たちが見ていました」。

 谷村さんはこのような過去を、とりわけ孫娘に知られたくなかったのだと言う。「やっぱり、残虐な怖いおじいちゃんだと思われたくなかったから」だ。その孫娘は、一人、東京に暮らしているのだという。「でも、今のお話をテレビで放送したら、お孫さんが見る可能性もあります」。私が確かめると、谷村さんは絞り出すように言った。「もういいんです。私はじきに死にます。今の若い人は、戦争だから人が死んだくらいにしか思っとらんでしょ。戦争の実態というものは知らんでしょ。だからやっぱり、戦争の経験というものは残さんといけんと思う。将来のためにね」。

 ムンピルギさん(1996取材当時71歳)は、ソウル郊外のアパートでひっそりと暮らしていた。清掃の仕事をしながら、毎週水曜日には日本大使館前の抗議デモに参加していた。ムンさんには日本軍の「慰安婦」だった過去がある。18歳で中国東北部の戦線に送られ、そこで3年間、日本兵の相手をさせられた。戦後は「慰安婦」だった過去が発覚することに脅えながら、ソウル、マサン、チョンジュなどの大都市を転々とし、飲み屋や工事現場で働いてきた。「慰安婦」だったことを名乗り出たのは1992年のことだった。デモの時は、拳を突き上げて声を上げる支援者たちと少し離れた所で、うつむきがちに力なく手を動かしていた。

 アパートで話を聞いたのは、もう夕闇が迫る頃だった。私は、スケッチブックとマジックペンを用意して、慰安所の様子を描いてもらった。そして1日に何人の相手をさせられたのか、さらには壁や布団の色まで聞き出そうとした。「もう聞かないで、そんなこと」。ムンさんはそう言って台所のほうに行ってしまった。洗い物をする音が聞こえてきた。日常に戻って気持ちを落ち着かせようとしているのだろう。細部のリアリティーが証言に力をもたらすはずだ、そんな理由で私はひどいことをしてしまった。気まずい沈黙が部屋を包んでいた。そんなとき、ムンさんが台所から声をかけてくれた。「ここは夜景がとっても綺麗なのよ。カメラで撮るんだったら窓を開けてあげるよ」。とっくに日は暮れていた。遠くにソウル中心街のまばゆい光が見えた。

 誰だって戦争の体験など思い出したくないのだ。忘れることができるのなら忘れてしまいたい。テレビカメラの前で、ぶしつけな質問に答えなければならない謂れなどないのだ。それでも彼ら彼女らは話してくれた。二度と戦争を繰り返さないために自分の証言が役に立つのなら、という思いからだ。

 そういう人たちを裏切るようなことはできない。託されたバトンを落としてはならない。まして放り投げたりしてはならない。同時代を生きる人々、次世代を担う人々に渡していかなければならない。

 戦後の日本が、なんとか、まがりなりにも、平和主義を手放さずにこられたのは、戦時中の被害の記憶、加害の記憶を語ろうとする人々がいたからだ。彼ら彼女らの勇気によって、戦争の記憶が社会の中で広く深く共有されてきたからだ。でも、戦争体験者は年々少なくなり、遠からずいなくなることは必然だ。高市総理大臣から見れば、まさに「時はきた」のだ。

 戦争の記憶を掘り起こし、広く伝えることについてメディアは一定の役割を担ってきた。しかし今、メディアは新しい方法を模索しなければならない。

 戦争体験者、そして戦争による死者たちが置いていったバトンを、どう拾い上げて生き生きとしたものに更新してゆくのか、考えなければならない。「時はきた」などと誰にも言わせないために、だ。

戦時下、ラジオは何を伝えたのか

 もう一つ、メディアが今日、思い出さなければならないことがある。

 1931年の満州事変に始まり、日中戦争、太平洋戦争、そして1945年の敗戦に至るまでの長い戦争の時代に、300万人以上の日本人が死んだ。そして、それより一桁多いアジアの人々が犠牲になった。この国は、なぜそんな戦争を15年間も続けたのか、と言うよりも続けることができたのか。それもまた、メディアの力にあずかるところが大きかった。新聞もラジオも雑誌も、あの無謀でおろかな戦争を批判するどころか競い合うようにして軍・政府のお先棒を担いだのである。

 中でもラジオは、すなわち日本放送協会(現在のNHK)はとりわけ大きな影響力を持っていた。1937年に日中戦争が勃発すると、近衛文麿内閣は「国民精神総動員運動」を展開したが、その実施要綱の中には「ラヂオノ利用ヲ図ルコト」という一項がある。ラジオは国民を戦争協力に導くための道具と位置付けられていた。

 ただ、ここで強調しておきたいのは、だから日本放送協会はしかたなく戦争に協力した、のではないということだ。1938年の『ラヂオ年鑑』を見ると、こう書かれている。「ラヂオは全機能を挙げて戦時体制下の国策に順応し、其の遂行に寄与する事に万全を期している」。それが日本放送協会の自己評価だった。建前として言っているのではない。ニュースやドキュメンタリー、教養番組、音楽芸能番組、あらゆるジャンルで放送現場の人々は、それこそ全身全霊をかけて、どうすればより効果的に国民を戦争協力に導くことができるのか、考え、実践していたのである。

 一例として、ここではラジオのニュース原稿がどのように作られていたのかを見ておこう。戦時中の日本放送協会には自主取材の機能はなく、国策通信社である同盟通信から配信される記事を、報道部員がリライトしたうえでアナウンサーが読んでいた。当時、報道部員の一人が放送研究誌にこんなことを書いている。

 「同盟通信を使っても同盟通信以上の国策的効果があがればよい。(中略)我々編集者は常に同盟通信以上の効果をあげるために工夫し努力しなければならぬ」

(『放送研究』1942年4月号)

 日本放送協会報道部の仕事は、もともと国策的な同盟通信の記事を、いっそう国策的に書き換えることだった。実際、どのような書き換えが行なわれていたのか。日本放送協会は敗戦時に局内文書やニュース原稿を焼却しているので全体像の検証は難しいのだが、1987年に東京の古物商の倉庫から、1943年9月の6日間分のニュース原稿が見つかっており、その一端を知ることができる。

 たとえば、南方の戦場を視察した参謀の談話記事では、アメリカ軍は砲弾で日本軍部隊を「ズタズタに斬りさいなんで全体を弱めておいてから攻めてくる」とか、「ここでは実に壮絶な鉄と血の戦いが繰り広げられている」などという部分が削除されていた。参謀は、あえて日本軍の苦戦を語ることで飛行機増産の必要を訴えようとしているのだが、遠い南の島で日本軍部隊がズタズタにされ膨大な血が流されている、そういう戦場の実相に触れるものは放送してはならないことだった。ほかにも、空襲の脅威を過小評価する書き換え、同盟国ドイツの強さを強調する書き換え、あるいは銃後の覚悟を求める加筆もあった。

 報道部員たちの当時の主張を拾ってみよう。

 「新体制の樹立と共に放送ニュースはどう進まなければならないか。(中略)この際、客観的編集方針はすべからく一擲して、国家意思を盛った主観的編集方針の確立を必要とすると考える」

(『放送』1940年8月号)

「国民の鉄石の団結と聖戦完遂の挙国的決意の昂揚、並びに国民士気の振作等が戦時下の放送目的である事は言を俟たない所であるが、報道の分野においてこの目的を果たすのに最も役立つものはニュースによる輿論の指導であろう」

(『放送研究』1942年7月号)

 ニュースは客観的な事実をそのまま伝えてはならない。「国家意思を盛った主観的編集」によって、世論を戦争協力に導かなければならない。それが報道部員の信念だった。

私たちはどこにいるのか

 でも、ラジオはどうしてそんなふうになってしまったのだろう。いつからそんなふうになってしまったのだろう。

 戦時下の放送人の言動を追ってゆくと、これではいけないと考える人もいたことがわかる。1つだけ例を挙げておくと、1935年に池島重信という一人のディレクターが、いわゆる自由主義者と呼ばれる人たちをラジオに引っ張り出そうと奮闘している。満州事変から4年、自由主義者がラジオに出ることはすでになくなっていたのだが、そういう中でなんとかもう一度、言論の多様性を取り戻すために、谷川徹三、長谷川如是閑、清沢洌といった人たちを出演させたのである。

 しかし、そういう抵抗も日中戦争がはじまるとすっかり影を潜めてしまう。池島は、放送現場の仕事のやり方が「事務的になり始めた」と回想している。事務的になる、それは考えることをやめてしまう、と言ってもいいだろう。放送は誰のためにあるのか、何を伝えるためにあるのか、それを放送局の人間が考えることをやめてしまった。あとは軍や政府の意向に沿って国民を戦争に導くだけだ。それだけを懸命にやっていれば放送局も自分の身分も安泰なのだ。ここに至って、放送局は完全に死んでしまった。

 戦争の時代にも、微々たるものだったにしろ、内部的抵抗はあった。しかし、それもいつのまにかなくなってしまう。ある朝、目が覚めたら何も言えない世の中になっていた、というわけではない。だんだん、だんだん、そうなっていったのである。

 そういう歴史を知ると、では私たちは今どこにいるのだろうと考えざるを得ない。戦時中の放送人、メディアの人間が愚かで弱く、私たちは賢く強い、とは言えない以上、何も言えなくなってしまう前に言いつづけなければならない。考えつづけなくてはならない。

〝お花畑〟を踏みつぶすな

 昨今、平和主義を保持しようとする論考に必ず返ってくるのが“頭がお花畑〟とか“現実を直視せよ〟という言説だ。でも、過去にはこんな事例もある。

 1937年7月、日中両軍の偶発的衝突、盧溝橋事件が起きた際、日本放送協会は、現地での両軍の停戦努力を無視するかのような報道を続けた。例えば、事件勃発2日後、7月9日、同盟通信の配信記事は日中両軍がそれぞれ永定河の左岸、右岸に撤退する準備を開始したことを報じ、「ここに事態重大化の危機は全く去り盧溝橋事件は日支双方の諒解に依って和平解決の曙光を見るに至った」と結論している。日本放送協会は、この配信記事を放送するのだが、その際、大きな書き換えを行なっていた。結論部分はこうだ。「支那側も永定河右岸に向けて、撤退の準備を開始したそうであります」。同盟記事は「危機は全く去」ったとして「和平解決」の見通しを報じているのだが、放送原稿はその部分を削除していた。結語の「撤退の準備を開始したそうであります」にも、同盟記事からあえて距離を置こうとするニュアンスが感じられる。このニュースだけではなく、盧溝橋事件を報じる他のニュースでも同様な書き換えが行なわれていた。中国に関する報道については「軍部、外務の意向をもたしかめ」て報じるという報道部の方針によるものだった。そして、盧溝橋事件に際しての「軍部、外務の意向」とは、あたかも現地で両軍の緊張が続いているかのように世論を誘導しながら、日中全面戦争に突き進むことだった。

 本来、ラジオが報じるべきだったのは「危機は全く去」り「和平解決の曙光を見るに至った」という現地の状況であり、その延長にあるはずの外交努力の必要性だったはずなのだ。そうなのに、ラジオは芽が出始めた“お花畑〟を踏みつぶし、軍・政府の主張する“現実〟を伝えることに専念したのである。

 翻って今、メディアは現実を冷静に分析しているだろうか。隣国の脅威を強調し、戦後の平和主義と決別しようとする政権に引きずられている面はないだろうか。目指すべき理想を語っているだろうか。

 〝お花畑〟は踏みつぶしてはならない。育てなければならない。

大森淳郎

1957年生まれ。元NHKディレクター。主にETV特集を制作。共著書に『ラジオと戦争 放送人たちの「報国」』(NHK出版、2023年)など。

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