【新連載】〈叛–地政学〉への旅――いくつものフォルモーサへ(1)軽やかな不変性

今福龍太(文化人類学者・批評家)
2026/06/01
Beige wave-pattern cover with two blue birds and pink flowers, a vertical Japanese title in the center, and '連載' on the right.

フォルモーサに見る「世界」

 「叛-地政学」というヴィジョンを探究するあらたな思索の旅。合言葉はここでも「フォルモーサ」である。狭義のフォルモーサ、すなわち原住民シラヤ族の「来訪者」(あるいは「牛皮の地」)を意味する「タイオワン」という音を響かせながら生まれた「台湾」という名と、16世紀のポルトガル人航海者が沖合から初めて見る緑濃き未知の島影に感嘆して叫んだ「美しい(フォルモーサ)!」というポルトガル語に起源を持つ名「フォルモーサ」のはざまで、近現代の錯綜する歴史を生きてきたこの国家ならざるテリトリー。その名前の固定化されない「揺らぎ」そのものをいまあらためて「フォルモーサ」という符牒に託し、自己と他者とが入り組んだまま同居し混淆する歴史と現在の深層で、忘却されたものの記憶と関係性を掘り起こそうとする。そのとき、一つの固有の島を超えていくつもの「フォルモーサ」という声の谺(こだま)が世界を群島状に結び合わせる。アフリカ、アジア、南北アメリカに点在する町や山岳や湖沼に散種されたフォルモーサの名。それこそが「叛-地政学」の思索に内実を与える関係性の群島であり、「歴史」や「国家」の専制に叛旗を翻す民衆的記憶が織りなす不可視の星座である。

 ここで問い直そうとする「地政学」とはなにか。学問的な定義を超えて、いまや「地政学」という言葉は私たちの日常語のなかに無自覚のまま取り込まれた感がある。さらにいえば、この概念を意識することさえなく、私たちの日々の想像力は世俗的な地政学的思考の枠組の内部に閉じられつつある。そのときの世俗的地政学とは、簡潔にいえば、「世界情勢」を判断するときに、政治と軍事と経済を軸とした「国家」間の力学と関係性のなかで、特定地域の現状と将来を説明し予測するような思考法のことである。

 地政学的思考はつねに「国家」を主語にした語りを自明のものとして発しつづける。それが「日本」であろうと「アメリカ」であろうと「中国」であろうと、あるいは「ロシア」「ウクライナ」「イスラエル」であろうと、そうした主語の内実が問い返されることはまずない。それらの「国家」には一貫した欲望と意思があり、それを裏付ける理念や思想(というより思惑)があることがそこでは現状分析と未来予測のための自明の前提とされる。結果として私たちの生活世界を成立させる条件のすべてが、この地政学的な構図と地続きのものとみなされてゆく。そして国家に帰属することを疑わない者にとっての無謬の概念こそ、権力者が使う「国益」という殺し文句である。

 ここで私が赴きたいのは、「国家」を主語とした語りの支配に屈することなく、国家の専横から離れて世界への想像力をつなぎ止めようとしてきた人々の生きる、ささやかな「偶景」の方である。権力や抽象的な理念の恣意的な作用から離れて、日々の偶発的とも見える些細な出来事のなかに、長い時間を貫く不変の道理と美を感じとり、それを守ろうとしてきた人々の日常的実践の風景である。こうした風景は、「フォルモーサ」の群島(私にとってそれはカリブ海や奄美・沖縄・台湾での経験と思索に裏打ちされている)において見え隠れする別様の、より自由で開かれた「世界」の可能性を私に示唆する。

 私たちの想像力と言説とが「国家」をめぐる地政学的思考に縛られている現実を相対化し、問い直すための手がかりは無数にある。そのなかでもっとも強度ある思索を展開した一人が、パレスチナ解放運動にかかわり、世界から見捨てられた人々の傍らで晩年の一時を過ごしつつその現実の内奥にある真実を証言した作家ジャン・ジュネかもしれない。彼は遺著となった『恋する虜』(1986)で、パレスチナ難民たちの日常から生まれる心の繊細な襞への深い思慮と愛情とともに、こう書いていた。

 占領下の土地とは、占領者と被占領者とによって刻々生きられているドラマそのものだった(……)。彼らの現実とは、日常生活の中での憎悪と愛とがたっぷり重なりあった層であって、それはまた半透明に、言葉と文字とによって切り刻まれた沈黙に似ているのである。

(ジャン・ジュネ『恋する虜』鵜飼哲・海老坂武訳、人文書院、1994、8頁)

 究極的には知りえない現実の沈黙する淵を畏れとともにのぞき込みつつ、そこから時間をかけて真実の言葉を聞きだしてゆくこと。「国を手に入れたとき、パレスチナ人はどうなるのか?」というある友人の問いかけにたいし、ジュネはこう答えたという。「そうなったとき、彼らもその国を捨てる権利を持つ」と。歴史の錯綜のなかで生まれた「国家なき民」の究極の存在理由は、もはや国家への帰還でもその再創造でもなく、その放擲であり、その滅却である。国家にたいする人間の固執を、自己意識の根源において解放しようとする極限の思考がここにある。『恋する虜』の訳者・鵜飼哲も言うように、「『領土』とは各人がその内部のもっとも秘密の場所に、極限的な孤独のなかで創造すべきものであり、さらにその『領土』までも『解体』する自由が獲得されねばならない」(同書解説)のである。

記憶の「復元」と想いの「復権」

 マルティニックの思想家・詩人エドゥアール・グリッサンは、詩集『黒い塩』(1960)に収められた詩「アフリカ」の序詞で、郷土から切り離されて苦難に充ちた離散を生きる者たちの悲哀と憧憬について洞察を込めて述べる。そこで彼は、カリブ海黒人にとっての遠い故郷アフリカのいまだ光輝く姿をまぶしく眺めつつも、それを肥沃にする使命を負った人々のなかにもはや自分がいないことを認め、こう書きつけている。「その土地は私のなかにあるが、その土地のなかに私はいない」(Édouard Glissant, “Afrique,” Le sel noir. Paris: Gallimard, 1983[orig.1960], p.107) と。土地なき者たち、起源の「くに」を失った者たちの真実とは、このような繊細な自己意識のなかで守られるものなのであろう。

 大文字の「歴史」の支配、そして自らの歴史の不在に翻弄されてきたカリブ海の一人の造形作家が、作品に託してやわらかに主張する「叛-歴史」「叛-地政学」の試みについて語りたい。それが今年88歳になるマルティニックの画家・彫刻家ヴィクトール・アニセによる作品《復元》Restitution である。それは、歴史から奪い去られたモノに託された記憶を新たに「復元」し、それらの事物と事物に投影された人々の想いを「復権」させることを企図した、過去の救済・解放の行為である。

 その立体作品は、青い陶片でできた小さな仮面や装飾で埋め尽くされた、平たい木製の「盆(トレー)」である。クレオール語でも“Tray(トレー)”と呼ばれる、マルティニックの島人が長く使いつづけてきた日常の、何ということもない道具。大文字の「歴史」の言説からは除外された「とるにたらない」ものだけが、このトレーの上に置かれる権利を持っていた。昔の黒人農夫たちは週給を受け取るとすぐにこの盆の上にコインを置いて賭け事を楽しんだ。女たちはこのトレーの上に洗濯物を乗せて水場へと運び、洗いたての衣服は几帳面に畳んで重ねられた。映画館の前ではキャンディーやピスタチオがこの盆の上で山盛りになって売られた。生まれたばかりの赤ん坊が貿易風に吹かれながら昼寝をするときの揺り籠にもなった。子守の代わりに2匹の犬が目を細めて、赤子の眠るトレーの両脇に護衛のように静かに座っていた。先住民アラワク族がかつて神像を置いた盆の残影も、ここに見えない記憶として保存されていた。そして島にたどり着いたインド系の住民がシヴァ神やカーリー女神への供物を捧げたとき、この盆は儀式の中央に重々しく鎮座していた。この盆に投影されたすべての記憶は、「国家」によって遂行された植民地的なプロジェクトが侵しえない、日常の生のかけがえなき細部に由来するものだった。

 そんな豊かで混淆した記憶に染まったトレーを象った木枠に、ヴィクトール・アニセはアフリカの神々や怪獣(キメラ)を想像させる小さな青い陶片の仮面を並べていった。こうしてこの作品は、民にとってのトレーの日用的な記憶をすべて内蔵しつつ、国家の歴史によって見捨てられたものを復権させ、固定化された地図の世界を超えて、些細なものに宿る美と叡知、自己のなかに潜む無数の他者の存在を受けとめるための心の容器となる。

「盆」という結晶体

 グリッサンは、小説『サルトリウス』(1999)のなかの断章「飾り」においてヴィクトール・アニセの造形する「盆(トレー)」に触れながらこう印象的に書いている。

 バトゥート族が目に見えないものと向き合ってきた理由は、おそらく、多くの人間社会を互いに敵対させてきたあの傲慢さという抗しがたい衝動を抑え込むため、あるいは少なくとも抑え込もうと努力するためだった。盆(トレー)はその意味で、二重にバトゥート的である。その軽やかな不変性と、その用途の多様性によって。

(Édouard Glissant, Sartorius. Paris: Gallimard, 1999, p.324)

 グリッサンはこの小説で、アフリカに奴隷制の魔手が忍び寄るはるか前の時代に、所有するためにではなく人々とともに生きるために大陸を離れて世界へと旅立った、離散黒人の原形ともいうべき集団をバトゥート族という名とともに創造した。彼らは西欧的な大文字の「歴史」のなかで不可視の存在とされた者たちである。そして近代植民地主義によってカリブ海の島々に連行された黒人のなかにも、このバトゥートの末裔がいた。私たちが出来事を「植民地主義」とか「奴隷制」とか「帝国主義」とかいった概念によって包括的(グローバル)に理解しようとするとき、バトゥートたちはたちまち姿を消してしまう、とグリッサンは書く。そのとき私たちの目からも、理解の構造からも、バトゥートの文化に保持された繊細で不変の習慣、日用品の素朴で優美なデザイン、言葉づかいのなかの繊細な感情表現といったものは、すべて消え去ってゆくのである。現代社会が見ることができなくなった「軽やかな不変性」fixité aérienne。文字通り、空を飛翔するような軽やかさを持って人から人へ、場所から場所へと移動しつつ、その不変の姿を守ろうとするモノ、意味、価値。「国家」の属する傲慢で限りある時間をしなやかに超えて継承される、尊厳ある人間性のたゆみない持続。

 私は、アニセが創造的に「復元」しようとした「バトゥート」たち、この国家なき民が保持してきた心の絆と日常の繊細な所作とモノの造形感覚を載せた「盆(トレー)」こそが、叛-地政学の可能性をあらわす一つのささやかで豊かな結晶体であると確信する。

 国家を持たぬ民の存在を、国家に帰属することを自明とする者たちは見ることもできず、理解することもできない。たしかにその通りである。だがこうした言い方には、いまだに国家への無意識の帰属と依存を、人間が世界に存在することの基準とする傲慢さが隠れているかもしれない。むしろ、さらにこう言うべきだろう。国家を持たぬ民、あるいは帰属する土地を失くした民の心情、その経験に由来する叡知から、国家の存在を自明視する者たちは何一つ学ぶことができないだろう、と。土地なき民に同情するのではなく、彼らによって自らの存在の傲慢さに目覚めること。放擲すべきは、私たちの内部にぬくぬくと住まう「国家」の影にほかならない。無自覚の国民たちと、国家なき民バトゥートたちと、どちらにより多くの自由があるのか、どちらにより深い倫理と尊厳があるのか。いまこそ私たちが自己の内部に向けて突きつけねばならない、重く根源的な問いである。

今福龍太

(いまふく・りゅうた)文化人類学者・批評家。1955年東京生まれ。東京外国語大学名誉教授。奄美自由大学主宰。現在、淡水の淡江大学客座教授として台湾に在住。著書に『クレオール主義』『群島―世界論』(以上水声社)、『霧のコミューン』『ヘンリー・ソロー 野生の学舎』(以上みすず書房)、『宮沢賢治 デクノボーの叡知』(新潮選書)、『原写真論』(赤々舎)など多数。

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