【関連】特集:「現代イデオロギー批判:極右と極中道」(2026年2月号)
1「右翼ポピュリズム」と「リベラル・パニック」
このかんの日本の状況、とりわけ二〇二四年、東京都知事選から兵庫県知事選をへて参議院選挙にかけての、ウェブや一部の奇異な現象とみなされていたものが地上に一挙におどりでて、投票結果を左右するような状況があらわれた。その現象は基本的にこの社会をどこまでも右傾化させるものとして「リベラル」の敗北とみなされる現象に直面して、ある特徴をもった言説があらわれてきた。「リベラル・パニック」と呼べるような、反応である。典型的なものは、以下のような主張、というか「反省」だ。そこでは、こういう問いが立てられる。「リベラル」はどうして「受け入れられないか」、なぜ「支持」されないのか。それは「押しつけがましい」からではないか、エリート主義的に「上から」正義を語ってきたからではないか、差別反対を声高に叫ぶことで「怖い」とみなされているのではないか、あるいはみずからの気に食わないものをなくなってほしいという点では排外主義とおなじではないか。こうして、処方箋が提起されることもある。「分断」を超えるためには「対話」が必要だ、などなど。
こうした言説は、たいてい、「リベラル」は、より「穏健」に、より主張をやわらかく、対決を避けて、といった結論をみちびく。しかし、こうした「反省」は、すこし考えてみれば、かなり危ういことがわかるはずだ。その理由について、これで尽きるわけではないのだが、とりあえず二つあげてみたい。
まず、なにかを主張するというふるまい、とりわけ強く抗議するというふるまい自体に、すでに「押しつけ」が不可分にある。なにかを聞いてほしい、共感してほしい、とねがって声を発することは、それでなければそれをなにも知ることもなかった人々の世界に侵入し、その世界をわずかにでも組み替えようとすることだ。これは、多かれ少なかれ「実力」をはらんでいる。だから、どんなに工夫しても(それは大事だが)、それがときに悪意をもって「押しつけ」とされることは絶対に避けられない。こうした「反省」は、人々がもっとも苦しいときにすらも、声をあげるのに躊躇する萎縮を招いてしまう可能性がある(1)。
1 筆者も、SNSによって独特の仕方で、しかし「素朴」に復活をみせているようにみえる「糾弾型モラリズム」について、しばしば憂鬱に感じている。しかし、その問題はここでのような「リベラル」言説における「反省」とは別次元に立てられるべきだ。
それと関連して、このような主張は、すでに現実によって論駁されているともいえる。端的に、こうした言説がその伸長に怯える勢力(「極右」勢力としておこう)は、むしろこうした「穏健」とは真逆な態度によって、支持をえているのだから。近年の選挙戦には、まずウェブ上ではふつう「ゴリ押し」として嫌われるような大量の動画が投入され、右翼的潮流への支持を確保していった。そして非ウェブ上では、むしろファシズムの台頭そのものを想起させるような粗暴さとその空気によって、自死者すらも続出させる中傷すらも「押しつけ」ていった。そして勝利するのは、そのような粗暴な空気をかもしだすサイドなのである。
こうしたパニック的反応が生じる原因のひとつは、こうした言説のパターンに表現されている。「リベラル」という自己規定である。反レイシズムであれ、「格差」であれ、労働であれば、反戦であれ、なんであれ、基本的にそうした争点にもっとも取り組んできた、かつ言説を積み上げてきたのは、主要には広範なスペクトラムをそのうちに包蔵する左派だった。だが、近年ことさらに、そうした文脈をしばしば無視する――ときに歪曲するような――かたちで「リベラル」という自己規定が用いられるようになってきた(2)。「リベラル」それ自体に意味がない、無前提に問題であるとはもちろんいえない。しかし、従来、リベラルと左派は重合する部分も有しながらも、基本的原則の部分で異なっていたはずだ。問題は、こうした重大な理念にかかわるはずの規定が、十分に検討されたり、理論的裏づけを与えたりすることなく、なんとなく変化していったことだ。そしてやはり、その精神的文脈には、オルタナティヴの放棄(もう「反資本主義」とか「反権力」なんていってられない、といった)の気分が漂っていたことはまちがいない(3)。
2 冷戦以降の「歴史修正主義」批判が、日本では一五年戦争の問題に集中する傾向があった。その傾向が、極中道レジームへの移行にともなう近代史全般に及ぶ「歴史修正」への抵抗という世界の知的言説が取り組んできた課題を見失わせる傾向をもたらした。フランス革命史家であるピエール・セルナの「極中道論」が、フランス革命をめぐる「歴史修正主義」批判の文脈にあることに注意してほしい。この点にかんしては、三宅芳夫「極中道とは何か」酒井隆史・山下雄大編『エキストリーム・センター』以文社、二〇二五年をみよ。
3 そこから、「左右のイデオロギーを超えて」をはじめとする、筆者が「エキセン構文」と呼ぶ、公共で発言をするための通過儀礼としてはたらく、ある種の紋切り型の数々が生まれてくる。この点で、最近の典型的事例をひとつあげておきたい。保坂正康、白井聡「日本人の頭はこれからどんどん悪くなる……入試を「子供の学力」から「親の資金力」の競争に変えた日教組の罪」というウェブ上の記事である(『President Online』二〇二五年九月二五日)。詳細な検討は紙幅の都合でできないが、興味深いのは、ここで戦後歴史学が「ファクト無視」と断罪されている点である。ニュートラルに存在する「事実」を「戦後民主主義」勢力がイデオロギーで歪曲するという、耳慣れた「保守リベラル」の紋切り型それ自体に特筆すべきはなにもないのだが、現代の中道イデオロギー的気分が、カタカナで表記される「ファクト」でよく伝わってくるのが目を惹く。ここでは「真理」はわたしたちの有限性の自覚の延長上にしか存在しないという、二〇世紀のマルクス派(マックス・ヴェーバーを引き合いにだしてもよい)もふくめての洞察は、どこかに飛んでいる。さらにそのうえで、「つめこみ教育」批判が批判されるのだが、しかし近年の「ゆとり教育」を直接に主導していたのがネオリベラリズムの教育改革であること、それがさんざん批判されていたことが忘れられている(近年の話である)。さらにいえば、「つめこみ教育」批判に要約されるような戦後教育体制批判の文脈には、教育と階級的再生産、知とヒエラルキーをめぐる数々の根源的問いがあったことが忘れられている。それがネオリベラリズムにときに無防備であり、ときにそのことを批判されるべきであるとしても、このかんの教育改革(それこそ「ファクト」の分析を疎かにして)を「日教組」のせいにしてすむ問題ではないのはあきらかだ、というかそのような議論のどこが「ファクト」重視の姿勢なのだろうか。いずれにしても、この事例は「極中道」的言説の特徴を模範的に示唆してくれている。
ところが現在、日本語圏にのみ視野を閉じ込めることなく世界に目をむけてみれば、もっとも危機に瀕しているのが「中道リベラル」であって、左派ではないことがわかる(ここで左派を「資本主義のオルタナティヴ」をめざす勢力という意味でラフに用いている)。このような状況は、昨年、ニューヨーク市における「社会主義者」の市長就任が表現するようなレベルにいたってようやく日本でも可視化されてきたようだ。要するに、いまその存立条件をほとんど喪失しかけながら根本的危機におちいっているのは、ほかでもない「中道リベラル」なのだ。わたしたちが日本においてとりわけ分析的に重大な意義をもつとみなし、それを機能させようと努めてきた「エキストリーム・センター」(極中道)という概念は、二〇一〇年代より、そのような状況の分節の役割をはたしてきた。この概念は、「中道リベラル」をその一翼とする政治的レジームを括りだし、分節する役割をはたしてきたのである。いっぽう、日本において、この概念は、翻訳テキストにはしばしば登場するものの、さまざまな訳語が与えられながら、その意義は消極的には理解されないか、あるいは積極的には忌避されてきた。このような状況が、現在の世界の分節を困難にさせ、パニック的反応を惹き起こす背景にあるようにおもわれるのだ(4)。
4 「極中道」にかかわる議論が、新規な概念の「輸入」の最新版でないということは強調しておきたい。思想の「輸入」は、日本の近代思想史においてつねに問題にされてきた。そこには日本の急速な近代化、そしてそれが大学制度ともども国家による主導のもとになされてきた、その都度の機会主義的性格を強く帯びてきたものである。のちにそれは、商業主義とも絡んで、さらに厄介なものになった。その点で、この批判は、正当なものもある。しかしいっぽう、この批判は「精神の排外主義」とでも呼べるような悪しき傾向も促すものだった。丸山眞男がかつていったように、「輸入」は、思考を蓄積せず、新規なそれでつぎつぎと埋めていくことに寄与するかぎりで問題である。だが、重要なことは、「当たり前のようだが「考え」の国籍ではない。意義のある「考え」を通して世界の人たちと課題を共有し、対話しながら、各々の場で発展深化させることが大事だとおもうのだ。わたしたちが同一のシステムのもとで、気候危機や戦争、レイシズムといった同一の深刻な危機に直面していれば、なおさらいうまでもない。もちろん、「不均等」はある。加害と被害とまとめられるような関係性もある。しかし、それ以前に、根源から分裂、しかも敵対的に分裂した世界に共に生きているのである。
2 極中道――「メタ中道」あるいは「メタ政治」
ここで強調しておきたいのだが、極中道がそれまでの「中道」と異なる理由、つまり「エキストリーム」である理由は、それがいわば「メタ中道」ないし「メタ政治」である点である。










