呉を再び「軍都」にさせないために――日鉄呉跡地問題と市民

西岡由紀夫(ピースリンク広島・呉・岩国世話人、日鉄呉跡地問題を考える会共同代表)
2025/03/04
閉鎖された日鉄工場跡地の様子(2021年9月)Photo by 共同

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繰り返される軍事演習

 2024年3月4日、日本製鉄瀬戸内製鉄所呉地区(以下、日鉄呉)の跡地について、防衛省が一括購入したいとの意向を呉市や広島県に申し入れた。

 2023年9月末に閉鎖したその跡地面積は約130ヘクタール。広島のマツダスタジアム36個分、現在の海上自衛隊呉基地84ヘクタールの約1.5倍にもなり、これは、沖合移設された岩国基地(213ヘクタール)や辺野古新基地(161ヘクタール)にも匹敵する。

 防衛省は「多機能な複合的防衛拠点」として次の3つの機能を整備する意向だ。

①民間誘致を含む備品などの維持整備・製造基盤
②防災拠点及び部隊の活動基盤(艦艇の配備、訓練場など)
③岸壁などを活用した港湾機能

 現在、防衛省は日鉄と跡地の早期の一括購入に向けた交渉を進めている。

黒日本海軍の一大拠点だった呉

 日鉄呉跡地問題については、歴史をさかのぼって考える必要がある。1889年の呉鎮守府創設以来、アジア太平洋戦争における侵略・加害の拠点であった呉基地・海軍工廠は、大戦末期の1945年3月19日、5月5日、6月22日、7月1日~2日、7月24日、28日と主なものだけでも6度にわたる空襲を受けた。特に、7月初旬の空襲では呉市街が焼け野原になり、約2000名の市民が犠牲となった。空襲の爆弾投下量では全国ワースト5位とされている。

 呉が空襲を繰り返し受けたのは、海軍基地・海軍工廠があるためである。当時、呉軍港周辺には日本海軍の残存艦隊の艦船が燃料もなく築山に偽装して停泊し、空襲に対して一定の反撃も行なわれたために、大空襲となった。呉市民、海軍工廠労働者・動員学徒、軍艦乗り組みの海軍軍人など、合わせて3000人を超える人たちが亡くなった。

 戦後、海軍は解体され、ピーク時には10万人が働いていた海軍工廠もなくなり、呉市には失業者があふれた。

 まだ米国占領下であった1950年、「旧軍港市転換法」(軍転法)が住民投票により成立した。特定の自治体に適用される法律では住民投票が必要とする憲法95条に基づくもので、投票率は82.2%、賛成は95.8%に達した。この法律は、旧軍港市を「平和産業港湾都市」に転換することにより平和日本実現の理想達成に寄与することを目的とする国の特別法(横須賀・佐世保・舞鶴・呉の四市のみに適用)で、今も生きている。

 翌51年、「日亜製鋼」が呉市に進出し、1958年に「日新製鋼」に社名変更した。市民の間では今も「日新」で認知されている。日新は2019年に日本製鉄の完全子会社となり、2020年に突然、高炉の停止が発表された。それ以来、呉市では人口減少や雇用確保が課題とされてきた。2023年9月、呉ですべての設備が停止されたが、これまで跡地利用について県・市は具体策を示していなかった。防衛省の意向には市や県にも「寝耳に水」との声があり、防衛省と日鉄が水面下で交渉を進めてきたようだ。

米軍と一体となった自衛隊への補給拠点に

 「防衛拠点」の機能の一つとして、弾薬庫が想定されている。だが、呉市の広(ひろ)地区には第11海軍航空廠の施設を利用したアメリカ陸軍の広弾薬庫があり、呉市議会はその返還を6回も決議している。これは弾薬庫という存在の危険性によるもので、その重みを確認したい。

 昨年3月11日に開かれた呉市議会協議会では、防衛省地方協力局の村井勝総務課長が出席して説明と質疑が行なわれた。村井課長は「呉は広島県海田(陸自第13旅団)に近く、長崎県佐世保(米軍・海自)、岩国(米軍航空基地)と連携しやすい重要な場所」と語った。日米が一体化して戦闘が行なわれる前線に、切れ目なく武器・弾薬・食糧を供給する兵站(ロジスティクス)の拠点にしていく意向が示されている。具体的に何をどこに配置するのかというゾーニングはこれからだとも語った。

 この質疑のあった1週間後の3月18日、筆者も参加する市民団体「ピースリンク」が呉市長へ「要請書」を申し入れた。要請書は、先述の軍転法の意義を訴えるとともに、「安保法制」以後の自衛隊の変容を指摘し、「自衛隊との共存共栄」という呉市の方針の見直しを憲法九条の観点から問うている。

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西岡由紀夫

(にしおか・ゆきお)ピースリンク広島・呉・岩国世話人、日鉄呉跡地問題を考える会共同代表

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