【関連】「特集:加害と和解ーー東アジアの不再戦のために2」(2025年12月号)
高橋哲哉(たかはし・てつや)
東京大学名誉教授。哲学者。1956年生まれ。著書に、『記憶のエチカ――戦争・哲学・アウシュビッツ』『歴史/修正主義』(以上、岩波書店)、『戦後責任論』(講談社)、『靖国問題』(ちくま新書)、『犠牲のシステム 福島・沖縄』『沖縄の米軍基地――「県外移設」を考える』(以上、集英社)、『日米安保と沖縄基地論争――〈犠牲のシステム〉を問う』(朝日新聞出版)ほか。
石破所感をめぐって
(聞き手 本誌編集長・熊谷伸一郎)――10月10日、退陣間近の石破茂首相により「石破所感」が公表されました。歴史認識については歴代内閣の立場を引き継ぐとして踏み込まず、主に問題にしたのは、なぜ無謀な戦争に突き進んだのか、という点でした。
高橋 そうですね。戦後50年から10年ごとに首相談話が発表されてきたので、戦後80年にあたって石破首相が何を語るかが注目されたのですが、まず談話を出すこと自体に自民党内の右派から反発がありました。高市早苗氏も反対を公言していましたね。右派からすれば、安倍首相が70年談話で決着をつけたとして終わりにしたい、比較的リベラルと目されている石破氏に新たな「お詫び」や「反省」を語られてはたまらない、ということだったのでしょう。敗戦記念日の8月15日に閣議決定して出したかったのでしょうが、降伏条約調印日(9月2日)にもできず、ようやく新総裁が決まった後に個人的な所感として出すのが精一杯だった。この経過自体、今の自民党を中心とした右派勢力の勢いを表していると思います。
内容を見ると、「無謀な戦争」を始めるに至った日本国内の事情について、なるほど反省的な歴史観を披歴していると言えるでしょう。大日本帝国憲法、政府、議会、メディアと、分野ごとに問題点を語り、文民統制の欠如に焦点を当て、歴史から学ぶ重要性について語っています。「戦争の記憶を持っている人々の数が年々少なくなり、記憶の風化が危ぶまれている今だからこそ、若い世代も含め、国民一人一人が先の大戦や平和のありようについて能動的に考え、将来に生かしていくことで、平和国家としての礎が一層強化されていく」。こうした言葉を首相が国民に向かってきちんと語ることにはもちろん意義があります。日本ではそういう機会がむしろ少なすぎるのです。
ただ、問題設定そのものが物足りない。「敗戦は必然」とされていたにもかかわらず、なぜ突入したのかという問題意識ですが、ここで「無謀な戦争」と言われているのは事実上対米戦争、「開戦」といってもそれは当時の言葉で言えば「大東亜戦争」の開戦なのです。それ以前の満州事変、日中戦争を通して、なぜ隣国中国に、最大時には100万を超える日本の軍人が出兵することになったのか、そこを問う部分がない。植民地支配もまったくテーマになっていないのです。右派勢力は胸をなでおろしたことでしょう。
戦後50年の村山談話には、「植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました」という文言があり、歴代政権はこれを引き継ぐとしてきました。石破首相も「歴代内閣の立場を引き継ぐ」としています。しかし私は、戦後70年の安倍談話以後、あらためて何を引き継ぐのかが問われなければならないと考えます。安倍氏には村山談話を上書きする企図があったはずですが、さすがにそれを完全に否定することはできず、その代わりに「私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」というひと言を入れた。これで終わりにしたいという本音が透けました。村山談話と安倍談話の主旨にはズレがあります。「歴代内閣の立場を引き継ぐ」というだけでは、石破首相の認識が見えてきません。
文民統制の重要性
――石破所感はとりわけ文民統制や言論統制の強化によって批判が封じられたことの問題を指摘しています。
高橋 ウクライナ戦争以降、メディアに元幹部など自衛隊関係者が出てきて戦況を解説する場面が多くなったことに象徴的ですが、自衛隊の存在感が増していますね。
陸上自衛隊でも海上自衛隊でも、靖国神社に集団参拝したことが報じられました。幹部が部下を集団で引き連れて本殿に昇殿参拝までしています。元海将が靖国神社の宮司に就任したり、元幕僚長クラスの幹部が「自衛隊に戦死者が出た時のために靖国神社を国営化すべきだ」と盛んに訴えたりしています。
現役の自衛官を答弁に立たせるか否かについて国会でも問題になりました(2025年2月、衆院予算委員会)。こうした状況を考えると、首相が文民統制を強調することには意味があります。文民統制を実効的なものにするには、政治の側が自衛隊をコントロールできるだけの力を持っていなければなりません。たとえば仮に日米安保体制をやめようという政治的な流れができた時に、「日米同盟軍」はどう動くのか。はたして文民統制は効くのか。
歴史を知らなければ始まらない
――その上で今日への教訓として、「偏狭なナショナリズム、差別や排外主義を許してはなりません」とし、歴史に学ぶ重要性を主張して締めくくっています。
高橋 歴史に学ぶことはきわめて重要ですが、そのためにはまず歴史を学ぶ必要があるでしょう。現代史の基本的な知識を身につけること、それがなければ、歴史に正面から向き合い、そこから学ぶということもできないからです。公教育で近現代史を教え、学ぶことが決定的に重要なゆえんです。日本は第2次世界大戦でナチス・ドイツなどと同盟を結び、連合国相手に戦って敗戦をした。それは遡れば、明治維新以来のアジアへの侵出に始まっている。こうした帝国の歴史を丁寧に教え、学んでいく必要があります。
付け加えると、だからといって、すべてが恥ずべき歴史だということではありません。侵略や植民地支配をした歴史の一方で、それに抵抗した歴史もあります。文化や学術の歴史もあります。「普通の人びと」が生きた歴史にも、当然ながら、さまざまな光と影があったわけです。そういうことも含めて、帝国の時代に周辺諸国との間で何が起きたのかを丁寧に学び、その意味と教訓をそれぞれが考えなければなりません。
石破首相が「偏狭なナショナリズム、差別や排外主義」を戒めたことは、日本の現状に鑑みてきわめて重要です。ただ、それらはいずれも他者との関係、他国や他民族との関係で起きたこと、起きることです。そうであればなおのこと、石破所感では、アジアに対する日本の侵略と植民地支配の歴史にも及んでほしかったと思うのです。
「反省なんかしておりません」
――高市氏は1年生議員時代、国会質問で、戦争体験を持つ河野洋平外務大臣に向かって、「少なくとも私自身は、当事者とは言えない世代ですから、反省なんかしておりませんし、反省を求められるいわれもないと思っております」(1995年3月16日、衆院外務委員会)と述べました。















