【長生炭鉱】犠牲者に会いにいく――暗い坑道の先へ

安田浩一(ノンフィクションライター)
2025/03/05
床波海岸の沖合、海面から突き出る2本のピーヤ(立坑)。この下に坑道が拡がる。写真はすべて山口県宇部市。 2025年2月2日

 低く垂れ込めた黒くて厚い雨雲は容赦なかった。時おり、何かに憤っているかのような激しい勢いで雨粒を落とす。水に沈んだ坑道の入り口が雨煙に包まれた。茶褐色の水面に、無数の波紋が浮かぶ。

 その先で――死者が待っている。音のない海の底で、汚泥にまみれた視界ゼロの坑道の奥底で、183名が待っている。83年前のあの日から、彼らの時間は止まったままなのだ。死者の時間に光を当てたい。それが、そこに集まった人々に共通する思いだった。

 だから、私たちも待った。冷たい雨に打たれ、寒さに震えながら、よどんだ水面を凝視し、暗闇の中に斃れた人々を思った。そして、重装備で坑道の奥へ進んだダイバーの帰還を願った。

 「ハラボジー!(おじいさん)」

 韓国から来た遺族の1人が叫んだ。

 時間が止まったまま、止められたまま、海底に沈んだままの係累がいる。

 声は届くか。時間は動き出すのか。誰もが同じ思いで坑口奥の暗闇に目をやる。雨は止まない。水面は動かない。見守る者たちの時間も止まる。

死者のいる坑道の奥へ

 2月1日。犠牲者の遺骨収容に向けた長生炭鉱(山口県宇部市)の海底坑道潜水調査(全3日間)の2日目。

 本誌(2024年11月号)でも報じたが、簡単に経緯を振り返ってみる。

 長生炭鉱は1914年、周防灘に面した宇部の床波海岸で開坑し、終戦時まで操業を続けた海底炭鉱だ。最盛期には1000人を超える労働者が働き、年間15万トンの石炭を産出した。

 この炭鉱で事故が起きたのは19 42年2月3日。日米開戦から2カ月後のことだ。沖合約1キロ付近の坑道で落盤が発生し、海水が1気に流れ込んだ。逃げ場所はない。炭鉱労働者は瞬時にして真冬の冷たい海に飲み込まれた。犠牲となったのは183名の労働者である。うち136名は日本が植民地支配した朝鮮半島出身の労働者だ。犠牲者全体の7割を占める。もともと朝鮮人労働者の比率が高い炭鉱だった。

 この大惨事は「人災」でもあった。当時の保安基準で禁止されていた深度でも採炭していた。それが原因で、海水の負荷に耐えられなかった坑道の天盤が崩れた(同炭鉱経営者がそれを認めている)。戦時増産体制のもと、安全よりも生産拡大が優先されていたのだろう。戦時中の石炭採掘は国策事業でもあった。国の責任も免れない。

 だが、企業も国も、大惨事の責任を果たそうとはしなかった。戦後、坑道に犠牲者が残っているにもかかわらず、坑口は閉じられ、そのまま放置された。現在、その場所に炭鉱が存在したことを知らせる遺構は、沖合に屹立した「ピーヤ」と呼ばれる、坑道の換気用に設けられた排気筒だ。

 地域でも惨事の記憶は薄れつつあった。雑草に埋もれた陸側の坑口と同様、国と企業の責任もまた覆い隠された。

 転機となったのは199 1年。地元で市民団体「長生炭鉱の水非常を歴史に刻む会」(以下、「刻む会」)が結成されたことによる。記憶を「刻む」人々により、長生炭鉱の歴史が掘り起こされていく。追悼碑の建立、遺族調査などが進む。韓国の遺族と交流を重ねるなかで、「刻む会」の目標は、「歴史の継承」から、「犠牲者の遺骨の収容」に変わった。昨年はクラウドファンディングで資金を調達し、かつて坑道の入り口があったと思しき場所に重機が入り、雑木林と雑草を踏み分けながら坑口発見のための掘削作業を進めた。

 「坑口を発見し、遺骨を遺族に返す」

 「刻む会」の井上洋子共同代表は、現地でそう何度も口にした。責任を果たそうとしない国に代わり、「刻む会」は文字通りの荒地を進んでいた。

 ここまでが本誌既報の通りだ。

あいた坑口を目の前に

 その後、事態は予想を超えたスピードで進行した。

 昨年9月25日、ついに坑口が発見された。雑林に埋もれた地中から丸太で遮断された〝仕切り〟が姿を現した。重機がそれを外すと、坑道内にたまった水が一気に噴き出した。82年ぶりに坑道と外界がつながったのである。

 地下5メートルに埋まっていた坑口は、横幅は約2.20メートル、高さは1.60メートル。木製の屋根や支えも残っており、労働者や石炭を運んだと思われるトロッコの線路も見つかった。地中にぽっかり口をあけたような様相を目にしたとき、私は全身が震えるような感覚に襲われた。労働者たちは、その狭い坑口に、背を丸めるようにして入っていったのだろう。沖合まで続く閉鎖空間。炭鉱現場の苛烈な労働環境を想像した。

 10月26日には坑口前に犠牲者遺族を招いて「坑口あけたぞ!82年の闇に光を入れる集会」が開催された。

安田浩一

(やすだ・こういち)ノンフィクションライター。1964年静岡県生まれ。事件、労働、差別問題を中心に取材・執筆活動を続ける。『地震と虐殺 1923-2024』(中央公論新社)で「第78回 毎日出版文化賞 特別賞」を受賞。『なぜ市民は〝座り込む〟のか――基地の島・沖縄の実像、戦争の記憶』(朝日新聞出版)、『「右翼」の戦後史』(講談社現代新書)、『沖縄の新聞は本当に「偏向」しているのか』(朝日新聞出版)など著書多数。

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