久米宏さんが亡くなったとの一報を受け取ったのは、ベズエラのマドゥーロ大統領がトランプ政権によって「拉致」された六日後、一月九日夜のことだ。古巣のTBSの信頼する人物からメールが来た。ひとつの時代が終わった、との感慨が心の中に深く広がってなかなか眠れなかった。ご遺族の意向で公表はまだ控えて欲しいとのことだった。元日死去とのことで、ご遺族もさぞ大変だったろうと推測した。訃報を真っ先に報じたいハイエナにはなるまい。
それから四日が経過し、正午をもって死去の報道が“解禁”された。誰一人としてご遺族の意向を破るような輩はいなかった。よかった。一月一三日のテレビ朝日『報道ステーション』は、なんと四〇分を費やして、久米さんの追悼特集を報じた。それに比してNHKは夜七時も夜九時もニュース番組で数十秒しか報じなかった。
NHKは民間放送ではない。「国民を戦争に向かってミスリードしたという過去が民間放送にはありません。これからもそういうことがないことを祈っています」——『報ステ』の追悼特集の中でも放送されたこの言葉。久米さんのこの最後のメッセージをどう引き継ぐのか、単なる追悼文にとどまらず書いて欲しいとの本誌編集部からの要請だった。お引き受けする責任を僕は感じた。テレビ報道の歴史のひとつの断面を残しておかねばならない、そう思ったからだ。
久米宏による報道を嫌ったTBS
僕がTBSに入社した一九七七年、久米さんはTBS局内でもすでに人気絶頂のアナウンサーで、二年前に始まった『ぴったしカン・カン』の司会をつとめていた。翌一九七八年から始まった『ザ・ベストテン』でも黒柳徹子さんと組んで視聴者を魅了し、テレビ・エンタメ番組司会の頂点にあった。その華やかな顔の一方で、久米さんはラジオを愛していた。同期のTBSアナウンサーは、『パック・イン・ミュージック』で活躍した林美雄さんや宮内鎮雄さんといった個性派揃い、幸運にも僕は報道の仕事で林さんや宮内さんとご一緒したことがあるのでわかるのだが、当時のTBSアナウンス室には途轍もなく自由な人たちが集っていた。一言で言えば六〇〜七〇年代のカウンター・カルチュアの申し子のような側面があり、杓子定規な「報道の人たち」を心から馬鹿にしていた。なんと素敵な人たちだったことか。久米さんはラジオの『土曜ワイド』でも暴れまくっていた。永六輔、小沢昭一といった、あくの強い人たちが全くのタブーなしに語りまくっていた。ラジオ民主主義とでも言ってもよい独立共和国の様相だった。
その久米さんが報道の世界にも興味を拡げて(そもそも久米さんは戦後民主主義の体現者と言ってもよい存在だった)、報道ニュースマガジンのような番組案を当時のTBS編成に提案したが、丸めて換言すると、バラエティのアナウンサーの分際で報道の世界に乗り込んでくるな、とあしらわれ(これは後年、TBS内の先輩から聞いた話)、久米さんは怒ってそれを日本テレビに持ち込み、企画が通って実現したのが『久米宏のTVスクランブル』という番組だった。なんと日曜夜八時から、NHK大河ドラマの裏番組という枠での放送だった。久米さんとは同志的な関係のスタッフがいたオフィス・トゥ・ワンが制作に関わった。『TVスクランブル』は横山やすしとの掛け合いが功を奏して大成功をおさめ(大河ドラマをも脅かした)、ここでの経験が一九八五年にスタートした『ニュースステーション』(以下『Nステ』)へのステップボードとなった。なぜこんな『Nステ』前史のことを書くのかというと、久米さんがこの時までに体験したテレビ報道とエンタメ部門との“壁”が、その後、放送業界で起きた出来事や、久米さん“らしさ”の原点になっていると思うからだ。
エンタメと報道を横断した「テレビ屋」
僕自身はTBSに入社して四十数年間、テレビ報道の現場のみに関わっていたので、その“壁”のことはあまり意識できずにいたのだ。けれども報道「聖域」論のような空気が当時も今もテレビ局の中には存在している。それは教育現場の教師聖職論に似ていなくもないのだが、報道の仕事はエンタメやバラエティよりも上等な仕事をしているのだというような共同幻想がある。バックにあるのは、報道は公益と直結する、国民の知る権利に資する、という大義名分だ。
報道の仕事にたずさわる人々がそのような矜持のもとに働くことを、僕は大切なことだと考えている。一方で、そのことが報道にたずさわる人間たちの特権や他領域への蔑視につながるようなことがあってはならないと自戒をもって取材にあたらねばならない。それは、ある時期までの新聞がテレビを見下し、出版社の文芸書部門が週刊誌部門を見下し、政治部が文化部を見下していたような構造とよく似ている。久米さんはおそらくそのことを心底から意識していたに違いない。
よくよく考えてみれば、のちのジャニーズ事件で、あのようなおぞましい行為が巨大プロダクションのなかで、テレビ制作現場を舞台に起きていたことを見過ごしていたのは、報道現場の「芸能の世界はウチとは関係ない世界ですから」という、“壁”を当然視するような慣習にどっぷりつかっていたからではないのか。
そのくせ、報道の世界の人間も、視聴率欲しさから、報道ニュースの世界に人気芸能人やタレントを次々に登用するようになっていく。久米さんはどんな思いでそのような流れをみていたのだろうか。まさかその先陣を切ったのが自分だとは思われたくなかったのではないか、と僕は思う。久米さんは大変な勉強家で、プロフェッショナルなジャーナリストを尊敬していたからだ。自らを「テレビ屋」と自称したのは、心の底にテレビでジャーナリズムを実践したいという夢があったためだ。
“夜ニュース”を牽引した『Nステ』と『23』
僕の古巣のTBSは、久米宏の『ニュースステーション』大成功に我慢がならなかったようだった。まさかTBS出身の元アナウンサーに、競争相手のテレ朝で看板ニュース番組をやられるとは。「報道のTBS」として座視してはいられないぞと。僕はそのために『Nステ』の裏番組に社命で打って出た番組チームに参加させられた苦い経験を持つ。一九八七年の『プライムタイム』と一九八八年の『ニュースデスク』だ。
『プライムタイム』は当初、筑紫哲也さん(当時は朝日新聞編集委員)がキャスターをつとめる“内諾”を得ていたのだが、ギリギリの段階で朝日新聞の一柳東一郎社長(当時)からストップがかかって、“内諾”はご破算となった。代わりに急遽キャスターに起用されたのが森本毅郎さんだった。
『ニュースデスク』はTBS記者出身の小川邦雄さんがキャスターをつとめたが、フィリピンのアキノ革命を機に視聴者からの盤石の支持を集めた『Nステ』に歯が立たず、撤退を余儀なくされた。その後に再び筑紫さんをキャスターに立て、時間を一時間ずらして放送を開始したのが『筑紫哲也NEWS23』(以下、『23』)だった。一九八九年一〇月のことだ。時代はベルリンの壁崩壊から始まる東欧社会主義圏の崩壊と冷戦の終結、天安門広場事件といった世界史の激動の時期にあたった。国内では昭和天皇が死去し、リクルート事件が起きていた。メディアも元気だった。そのあたりの経緯は拙著『筑紫哲也NEWS23とその時代』(講談社)に詳しく書いているので参照されたい。
強調しておきたいのは、久米さんの『Nステ』がなかったら筑紫さんの『23』はなかった、ということだ。逆に、『23』がなかったなら、久米さんの『Nステ』もあんなに長くは存続しなった。
TBSオウム事件と久米さん
一九八〇年代から二〇〇〇年代の初めまで繰り広げられたテレビ界の「夜ニュース戦争」の両雄のたたかいの現場に立ち会えたことは僕にとって本当に幸運なことだった。あれほど真剣に毎夜仕事に打ち込んだことはなかった。そのなかで、今でも記憶に残っているエピソードを敢えて三つだけ記しておこう。
忘れもしない一九九六年のTBSオウム事件発覚の時だ。久米さんはTBSの姿勢を最も激越に批判した一人だった。一九八九年にTBSのワイドショー・プロデューサーらがオウム真理教幹部らに放送前の坂本堤弁護士インタビュー・ビデオを見せていたことを、TBSは認めた。もしTBSがビデオテープを見せていなかったら、その後の一連の事件は起きていなかったのではないか。久米さんは『Nステ』内で激しくTBSを批判した。「赤坂の街をするかのようなTBSの建物」とまで感情を露わにしていた。今にして思えばTBS出身であるがゆえにTBSへの愛情(愛憎)はひとかたならぬものだったのだろうと思う。
僕はその頃、TBSオウム事件検証番組を制作する中にいて苦しんでいた。僕の自宅によく脅迫電話がかかってきた。久米さんの『Nステ』での言葉は深く心に響いた。筑紫さんも『23』の番組冒頭で「TBSは今日、死んだに等しいと思います」と述べた。この筑紫発言にTBS局内の一部からは激しい反発の声も聞かれた。当時、検証番組の制作に関わった社員たちはそれこそ寝食を忘れて何が起きていたのかを徹底調査した。身内による検証などたかが知れていると訳知りに評論する輩もいたが、あの時はそういう次元をはるかに超えた厳しい調査が実際に行なわれていた。だから先般二〇二五年のフジテレビ中居氏事件の検証番組なるものをみた時、正直、僕は怒りの感情が沸いてきた。こんな甘い検証で世の中が納得するとでも思っているのかと。過ちを犯した時、組織がどのように対応するか。報道機関でもある放送局にとって死活的に運命を決するポイントだ。その点で、久米さんも筑紫さんも実にフェアな人物だった。今もつくづくそう思う。
“報道者”筑紫哲也と久米宏
もうひとつのエピソードは、オンエア前の筑紫さんが、珍しく声を荒げて激怒した、ある事件の報道についてである。一九九五年九月一一日の『23』放送直前、僕らは番組準備のために報道局のセンターテーブルに陣取って、いつものように『Nステ』を横目にみながら最終打ち合わせをしていた。その時の『Nステ』トップニュースをみて筑紫さんの表情がみるみる変わっていったのだという。それは沖縄本島で起きた三人のアメリカ兵による少女暴行事件(同年九月四日発生)だった。一〇分近くをさいて詳報されたこのトップニュースは、その後の沖縄米軍基地問題に絶大な影響を与える深刻なものだった。いつもは温厚な筑紫さんが声を荒げた。「おい、こんな大事なニュース、どうして僕らはやっていないんだ? いったいどうなっているんだ?」。
TBSは夕方のニュースでも全く扱っていないばかりか、JNNの地元系列局のRBC(琉球放送)からは申告もなかったのだという。僕自身はこの日、遅い夏休みを取って海外にいたと古い日記帳にあった。当日の相棒編集長にあとから聞いたところ、筑紫さんの怒りは尋常ではなかったという。以降、『23』はこの事件に徹底的にこだわって報道していくことになるが、大展開できたのは『Nステ』に遅れること一週間たってからのことだった。
なぜ『Nステ』はこんなことができたのか。『Nステ』のトップニュース報道の仕掛け人がいた。当時の『Nステ』の統括デスクのひとり川村晃司氏(二〇二三年三月に死去)である。生前、川村氏になぜあのようなニュースを出せたのかを直接聞いた。この当時、テレビ朝日は一九九五年一〇月から沖縄県に新しい系列局QAB(琉球朝日放送)を開局させるべく、那覇臨時支局をおいて最後の開局準備作業に拍車をかけていた。それでどんな小さなネタでもすべて東京の川村デスクに申告する作業がルーティーン化していたのだそうだ。そんななかで地元紙(たしか「琉球新報」の第一報)の小さな記事に引っかかりを覚えたのだという。「東京からみるとこれは大変なことだと思ったので、ただちに取材にかかるように沖縄に指示を出しました」(川村氏)。久米さんからの信頼の厚かった川村氏の勘は鋭かった。犯行に及んだ米兵らは日米地位協定にまもられて、身柄は米軍の管轄のもとにあって沖縄県警は手も足も出ない状況だったのだ。
沖縄県民の怒りは燃えあがり、県民集会には八万五〇〇〇人もの人々が集まった。もちろん筑紫さんも現場取材に直行した。事件への対応のため、当時の橋本龍太郎首相とモンデール駐日大使との緊急協議の結果、普天間基地全面返還をうたったSACO合意へとつながり、その後の紆余曲折で、むしろ日本政府側の要望によって名護市辺野古沖への基地移転(実質的には新たな大規模基地建設)が強行されて今に至っているのである。
この事件の報道をめぐっては、書き出したらきりがないほどだが、ここは久米さん追悼の場だ。一点だけ補っておけば、久米さんは報道によって火をつけることは上手だが、そのフォローアップとして「現場」に足を運ぶことは意外に少なかったように思う。米兵による少女暴行事件で、あれだけ沖縄の反基地感情が盛り上がった時も、筑紫さんは何度も現場に足を運んだが、久米さんはスタジオにどしんと陣取ってさまざまなニュースを裁いていた印象だ。
それから随分の歳月が流れた二〇二〇年、僕はTBS『報道特集』のキャスターとして、米大統領選挙の取材で米ミネソタ州のソマリア系民主党議員候補の取材をしていた。たまたま、事件当時の駐日大使ウォルター・モンデール氏が、ミネソタ州の施設に入所していることを知り、インタビューを申し込んだ。当時はコロナ禍のただなかで、直接の面談は叶わなかったが、オンライン越しでのインタビューで、モンデール氏は健康状態が許せば「沖縄を訪ねてみたい」と述べたことが印象に残っている。モンデール氏は当時九二歳、沖縄のことをしっかりと記憶に刻んでいた。氏がこの世を去ったのは翌年の春のことだった。氏は沖縄地元紙のインタビューに答えて、辺野古移転をアメリカ側から申し出た事実はないと答えていた。辺野古を選んだのは日本政府だったのだ。
選挙特番での共演
三つめのエピソード。国政選挙があるたびに投開票日の夜に「選挙特番」が編成されて、NHKや民放各局がいわば局の威信をかけてしのぎを削る習わしのような状態が今も続いている。その割に選挙運動期間中の報道がどんどん委縮していったことに、僕は恥辱を覚えている。
二〇〇五年、小泉純一郎内閣は、国会で郵政民営化法案が否決されたことを受け、いわゆる「郵政解散」選挙を実施した。自民党内の反対派を公認せず、対立候補(刺客)を立てるなどし、結果として自民・公明両党で三分の二以上の議席を獲得して圧勝した。その際、僕はTBSの報道局長をやらされていたが、選挙特番に筑紫・久米両氏がそろってMCをつとめてくれた。「史上最強の選挙特番」という触れ込みで放送された特番はゴールデン帯の視聴率でNHKを上回り、圧倒的支持を得た。なかでも久米さんの政治家に対する歯に衣着せぬ質問のありようが市民感覚そのものなのだった。訳知りの政治記者とは異なる。久米さんの横で筑紫さんが嬉しそうにしていたのを覚えている。
久米宏を追悼するということ
久米さんの死後、多くの人々がその死を悼んだ。テレビニュース番組やワイドショー、スポーツ紙、新聞、ラジオも然り。その多くが称賛の声だった。週刊文春の見出しは「追悼 久米宏 報道をバラエティにした男」とあった。それはそれでいいのだろう。だが報道番組の現役の人々に問いたい。あなたは久米さんが果敢にたたかっていた時、何をしていたか? 例えば、安倍晋三政権時代の二〇一四年一二月に行なわれた衆議院選挙の際、自民党の萩生田光一副幹事長(当時)らが在京各テレビ局に、「選挙時期における報道の公平中立ならびに公正の確保についてのお願い」と称する文書を出して「街頭インタビュー、資料映像等で一方的な意見に偏る……ことのないよう」などと具体的に指示し、番組の構成に介入してきた時、あなたたちは何をしていたか。例えば、二〇一六年二月、国会で高市早苗総務大臣(当時)が、テレビ局が「政治的に公平であること」を定めた放送法四条に違反し行政指導にも改善しない場合、「電波停止(停波)」を命じる可能性があると言明した際、あなたたちは何をしていたか。例えば、二〇二六年一月一九日、高市首相が衆議院解散・総選挙実施を表明した記者会見で、スパイ防止法の制定が急がれますと明言した際、あなたたちは何をしていたか。例えば、この文章が掲載された時点でもう結果が判明している選挙報道にたずさわっていたあなたたちは、その選挙報道で何をしていたか。現実に生起している理不尽に立ち向かわずして、どのような「久米さん追悼」をしたというのか。テレ朝ホールディングスの早河洋会長は、一三日夜の『報ステ』久米さん特集のなかで、自らの追悼コメントを放送させていた。『Nステ』立ち上げ時のプロデューサーであり、その想いは想像に余りある。けれども久米さんが『Nステ』を去った後の早河氏の「テレビと政治の距離」における振る舞いは、テレビ報道にたずさわって来た一人の人間として、疑問を抱く点があまりにも多い。放送番組審議会での見城徹氏との癒着。首相との会食。久米さんはどう思っていたのだろう。もはやご本人に訊くことは叶わない。
「戦友」などという言葉を久米さんは嫌うだろう。徹底した反戦平和の考えの持ち主だったから。ただ久米さんは、一九八五〜二〇〇〇年代のテレビ報道・夜ニュース戦争の時代のまぎれもない「戦友」だった。中島みゆきさんの歌詞がよく似合う。——たたかうきみの歌を たたかわない奴らが笑うだろう ファイト!






