政権の軛のもとのNHK――稲葉延雄会長の三年間とは何だったか

長井 暁(ジャーナリスト、元NHKチーフプロデューサー)
2026/01/14

 二〇二五年一二月八日、NHK経営委員会の古賀信行委員長は、次期NHK会長に井上樹彦副会長を選んだと発表した。

 元日本銀行理事の稲葉氏が会長に就任したのは二〇二三年の一月。それまで一五年間にわたって外部の財界出身者が会長を務めていたが、五人全員が一期三年で退任していた。稲葉氏も一期三年で退任することになったのである。稲葉会長の三年間とは何だったのかを振り返る。

政権による会長人事

 三年前に稲葉氏が選ばれた経緯については「読売新聞」(二〇二二年一二月六日付)が、「岸田文雄首相の意向が反映された」「政府高官によると、首相は水面下で稲葉氏に接触して口説き落とし、自民の麻生副総裁や菅前首相ら総務相経験者の根回しを行ったという」と報道していた。また、岸田首相に稲葉氏を推薦したのは宮沢洋一自民党税調会長だと「週刊現代」などが報じた。稲葉氏と東京教育大附属高(現・筑波大附属高)の同級生だった宮沢氏は、花道を作ってあげようと推薦したのだろう。二人ともNHK会長という職責の大変さをあまり理解していなかったと思う。二〇二三年一月二五日の就任会見で、記者から「岸田首相側から打診が何かあったか」と問われた稲葉会長は、「それはない」と断言した。最初の会見で嘘をつかなければならなかった稲葉会長は実に気の毒だった。

 稲葉会長は副会長に、政治部記者出身の元NHK職員の井上樹彦氏を指名した。井上氏は籾井勝人会長時代の二〇一四年四月に理事に就任した人物で、籾井会長と対立して一六年六月に理事を退任。その後NHK関連会社の社長などを務めた。稲葉会長は自ら面接して選んだと説明したが、NHKの人事的にはすでにキャリアを終えており、役員候補になるはずのない人物であった。この不可解な副会長人事について、二〇二五年一一月三〇日「朝日新聞」は、元政権幹部の証言をもとに、稲葉会長の人事は岸田文雄首相、麻生太郎副総裁、茂木敏充幹事長が「ナンバー2、ナンバー3も含めたパッケージで決めた」とする記事を掲載した。稲葉会長はあらかじめ井上副会長をあてがわれていたのである。前任の前田晃伸会長が、若手理事の中から正籬聡氏を自ら副会長に指名できたのとは対照的だった。

次々に襲いかかった不祥事

 会長就任当初、稲葉氏はNHKを良くしようと意欲に満ちていたことは間違いない。職員の期待も大きかった。三月一日に稲葉会長は職員に向けて「改革の検証と発展へ」と題するメッセージを発し、「志高く働く、専門家集団としてのみなさんを信頼しています。一緒にNHKと視聴者・国民のみなさんの未来を切りひらいていきましょう」と呼びかけた。さらに四月二五日には「新体制発足に向けて」と題するメーセージを発し、職員に不評だった前田前会長による人事制度改革を大幅に見直す方針も示した。

 しかし、不幸なことに、就任間もない新会長に次々と不祥事が襲いかかり、稲葉会長はそれらへの対応に追われることになる。五月一五日には、ニュースウオッチ9のエンディングに放送された一分ほどのVTRで、ワクチン接種後に亡くなった方のご遺族を、新型コロナに感染して亡くなった方のご遺族のように紹介して大問題となった。稲葉会長は会見で「全く適切ではなかった」と謝罪した。

 さらに五月三〇日には「朝日新聞」の報道をきっかけに、「BS番組配信予算不正計上問題」が表面化する。BS番組のインターネット配信が事業として認められていないのに、NHKが二〇二三年度予算に配信の関連支出約九億円を盛り込んでいたという不祥事だった。六月五日に「朝日新聞」は、稲葉会長の指示で実施された会長特命監査の内容を詳しく伝えた。この問題でNHKは新聞協会などから激しい批判にさらされることになる。

 不祥事の連続にたまりかねた稲葉会長は、七月三日に職員に向けて、「昨今、NHKで生じている事象を見ると、リスクへの意識が脆弱であると言わざるを得ません」「現場のマネジメント層においても、直面する各種のリスクをしっかり認識し、回避すべきリスクと、リスクテイクすべきものを峻別する真のプロフェッショナルになってほしいと願っています」とのメッセージを発した。

 しかし、不祥事は止まらなかった。九月には社会部記者の不正経費請求問題が表面化する。九月二五日の理事会で稲葉会長は、「最大限の透明性を持って対応」と述べ、第三者委員会を設置して調査・検証を行なうよう指示した。一二月一八日に公表された「調査報告書」によれば、A記者による不正な経費請求は四一〇件、約七八九万円にのぼっていた。NHKはこの問題で、現職と前任、前前任の三人の社会部長を停職一カ月・解職にする懲戒処分を発表した。

 一二月一七日、「文藝春秋」の電子版が、「稲葉会長が声を荒げた〝極秘役員会〟の議事録を公開」という記事を配信した。公開されたのは「BS番組配信予算不正計上問題」をめぐる臨時役員会(四月一九日)の非公表の議事録(「厳秘・臨時役員会文字起こし」)であった。そこには、井上副会長と板野裕爾専務理事が、前田会長に重用された伊藤浩専務理事らを厳しく批判する様子が詳細に記されていた。この文書は、稲葉執行部を取り仕切っているのが井上副会長であることを如実に表していた。

 井上副会長らは、前田会長時代に重用された幹部を一掃するために予算不正計上問題を持ち出したのだろうが、会長特命監査の内容が「朝日新聞」にリークされ、NHKのネット業務の必須業務化に反対する新聞協会などに絶好の批判材料を与えてしまった。その結果、翌年五月に国会で成立するNHKのネット業務の必須業務化を定めた改正放送法では、NHKは「政治マガジン」などのネットニュースからの撤退を余儀なくされ、NHKのネット業務が民業を圧迫していると判断した場合、総務大臣が業務規程の変更を命令できるという内容まで盛り込まれてしまう。

 文春の記事配信から四日後の一二月二一日、NHKは「内部監査の資料を持ち出すなどの行為をしていた」として、前内部監査室の基幹職(管理職)の三人(五〇代二人、六〇代一人)を停職一カ月の懲戒処分にしたと発表した。

ジャニーズ性加害事件への対応

長井暁

(ながい・さとる)ジャーナリスト、元NHKチーフプロデューサー。NHK文書開示等請求訴訟原告団事務局長。著書に『NHKは誰のものか』(地平社)がある。

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