アイルランドのヴァラッカー前首相が今年3月に突然辞意を表明した時、「さまざまな憶測を呼ぶだろうが」と前置きしつつ、辞任の理由は個人的でも政治的でもあり、リーダーも人間であるからには、全力投球を続けられなくなる時が来る、と述べた。ヴァラッカー氏はブレグジット交渉やコロナ禍における功績が評価された一方、在任中に住宅問題は深刻化、家族の定義を時代に合わせて刷新することを目指した国民投票でも敗北していた。
首相の言う「さまざまな憶測」が何を指すのか分からないが、中東ではもっぱら、彼が直前に、訪問先のワシントンで、バイデン大統領を前にして、パレスチナへの共感を表明し、ガザ停戦を訴えていたというタイミングが取り沙汰された。ヴァラッカー氏はこう言った。
「なぜアイルランド人はパレスチナ人に共感するのか、よく聞かれます……我々は彼らの瞳に(かつてイギリスに支配された)自分たちの歴史を見るのです。住居と財産の喪失、民族的アイデンティティの否定、強制移住、差別、そして飢餓の歴史です」。
パレスチナへの連帯宣言という「禁句」を、最大のイスラエル支援国であるアメリカで、それも報道カメラの真ん前で堂々と口にしたがために、何らかの圧力を受けて辞任に追い込まれたのではないか、というわけだが、アラブの人々が勘ぐるのも無理はなかった。今回のガザ侵攻のずっと前から、イスラエルによる占領下で、何十年にもわたってパレスチナ人に対して犯されてきた暴力や不正を語ろうとする者が、表現の自由が保障されるはずの欧米で、著名な文化人も含め、次々と検閲されるのを見て、辟易していたのだから。
ところがアイルランドの地元メディアには、ワシントンでの発言と辞任の関係に言及する報道は、まったく見当たらなかった。私も、アイルランドや、心情的に近い(今も英国の一部である)北アイルランドのカトリック地域を訪れた際、いかに親パレスチナ感情が強いかを肌で感じた。つまり首相は国民の総意を代表して発言したにすぎず、辞任と結びつける憶測も、この時ばかりは「勘ぐりすぎ」だったと言ってよいのだろう。
実際、後任のハリス首相も就任早々、同様の立場を、しかもより強い言葉で、表明した。「(イスラエルの)ネタニヤフ首相、あなたの行ないをアイルランド国民は明確に拒絶する。今すぐ停戦し、無制限の援助物資搬入を認めよ」。その上で、イスラエルと共存する独立パレスチナ国家の樹立を含む「二カ国解決案」の必要性を強調し、アイルランドはパレスチナ国家を承認する用意があると宣言した。
もともとアイルランドびいきの私は、SNSでこの動画を見て無条件に感動したのだが、スクロールダウンすると下のコメント欄には、そんな私に冷や水を浴びせる投稿が、国民からたくさん寄せられていた。
「言葉はもうたくさんです。行動に移してください。イスラエル大使を今すぐ国外追放にしてください」。そういう主旨のコメントの連続だった。
「言葉は軽い。行動に移せ」。そう、アラブにも「言葉は安い」という慣用句がある。私としたことが(そして多くのアラブ人が)、なぜ新旧アイルランド首相の「たかが言葉」に、あれほど感激したのかといえば、そういう言葉に飢えていたからだ。普段はうんざりするほど、多くの欧米エリートから発せられる言葉の暴力にさらされているから。
暴力的な言葉、沈黙させられる言葉
「暴力的な言葉」というと、真っ先に浮かぶのはなんだろう。イスラエルの国防相がパレスチナ人を「人間の姿をした獣」(Human Animals)と呼んだことだろうか。それとも「無辜のパレスチナ民間人など世界のどこにもいない」というアメリカ連邦議会議員の発言だろうか(パレスチナ人であるかぎり無罪ではない、または攻撃の正当な標的だ、という意味合いの言葉は、他にもイスラエル大統領や議員などからたびたび聞かれた)。こうしてパレスチナ人の人間性を否定するような言葉は、確かに暴力を奨励・助長するが、究極的には対象であるパレスチナ人より、発言者自身を汚し、貶めるものだ。むしろ、公平を装った諸政府やメディアが繰り返し使う用語のほうが時に危険を孕んでいる。黒人解放運動指導者マルコムXが言ったように、注意しないと、抑圧者を愛し、犠牲者を憎むように仕向けられてしまう。
たとえば、「人質」という単語自体は無害に見える。なお、いまさら断るまでもないのだが、昨年10月7日にハマスがイスラエルに仕掛けた攻撃は、残虐性という点でも、ガザのみならずヨルダン川西岸の住民も含めたパレスチナ人にもたらした結果という点でも、私は怒りと嫌悪感を覚える。イスラエル民間人の拉致も、正当化できるものではないと思う。
取引の道具として拉致され監禁される人々を「人質」と呼ぶのは、間違っていない。では、イスラエルの軍や当局に「拘束」されるパレスチナ人は、なんと呼ぶべきか。「イスラエルの刑務所に収監されているパレスチナ人」。しかしそれでは、裁判で正当に裁かれることもなく、無限に更新できる「行政勾留」の名の下に監禁され、しばしば虐待される人々の真実は伝わらない。
私の知り合いのパレスチナ人の従姉妹もそのひとりだ。彼女の名は、ラヤーン・ナセル。23歳。占領下のビールゼイト在住で、栄養学を学んだ地元の大学を最近卒業し、NGOに勤務する。大学では左派運動のメンバーだったキリスト教徒だ(当然、ハマスとは関係ない)。親族によると午前4時、彼女の実家に15人のイスラエル兵が押し入り、彼女の両親を、両手を上げた状態で壁に向かわせて後頭部に銃口を押し当て、「黙らないと撃つぞ」と脅したうえで、ラヤーンを連行した。ラヤーンは手錠をはめられ、目隠しされて、軍用車で連れ去られた。その後も容疑が明らかにされないまま、「行政勾留」下に置かれている。
日本でも公開された記録映画『壊された5つのカメラ』では、パレスチナの村や農地を分断する分離壁の建設に抗議する平和的デモが続いていた西岸のビリン村で、夜中に子どもが連行される様子が映されている。ビリンの抗議運動は、欧米諸国からも賛同者が駆けつけるなど内外で反響を呼んでいた(占領に反対するイスラエル人参加者もいた)。ここでの子どもの拘束は、抗議運動をやめるよう、大人に圧力をかける目的があったことは明らかだ。切り札として拉致される子どもも一種の「人質」であろう。
ラヤーンのようにイスラエルの「刑務所」で「行政勾留」されているパレスチナ人は、英国ガーディアン紙の報道では現在3500人超、そのうち40人は子ども、19人が女性だという。ガーディアンはまた、現在勾留されている唯一のキリスト教徒であるラヤーンについて、英国のカンタベリー大主教がX(旧ツイッター)で懸念を表明、彼女の安全のために祈るよう人々に呼びかけたと伝えた。
ハマスの武装メンバーが連れ去ったイスラエル人は明らかに人質だ。では、イスラエル兵が銃で脅して罪状もなく連行するパレスチナ人は、どう呼べば適切だというのか。なぜ、夜中に民家に押し入って連れ去られる人々や子どものことは黙認されるのか。なぜ、国際法違反である軍事占領のもと、兵士が民間人を銃で脅して連行し、裁判なしに長期拘束するという暴挙を日常的に行なう国が「民主国家」と認められるのか。これが民主主義の許容範囲内ならパレスチナ人を、人権を持つ「人」として見ていないということになる。これらを問題視せずに、パレスチナ人がイスラエル人を拉致した場合にのみ「人質の解放」が最優先事項として謳われる時、一見、無害な「人質」という言葉は、差別性を、そして結果的に一種の暴力性を帯びる。
「人質」は一例でしかないが、このような表現を片っ端から糾弾することが本稿の目的ではない。言えるのは、そのような用語や表現は共通して、パレスチナ問題の全体像を見ようとせず、歴史的文脈を無視しているということだ。特に10月7日のような事件があると、背景を語ろうとすること自体、「テロを正当化している」と非難される恐れがあるために、口を閉ざしてしまう人も少なくない。でも歴史は10月7日に始まったのではない。あの惨事に至るまでの約80年にわたる不条理―すなわち、イスラエル建国によって70万人以上が故郷を追われて難民となり、その子孫の多くが難民でありつづけ、あるいは占領下で兵士や入植者による暴力、住居や農地の略奪、移動の制限など数々の屈辱・理不尽に日々さらされているという事実。これらは日本でも多くの書籍や記録映画が伝えている―を指摘することは、ハマスの暴力を正当化することでは決してない。
その上で、最後にもうひとつだけ挙げるなら、「戦闘」「戦争」といった言葉にも批判はある。欧米メディアは、昨年10月7日以降のガザで起こっていることを War「戦争」や Fighting 「戦闘」と呼ぶ。確かに国家権力が兵器を用いる暴力行為だから、一種の戦争ではある。ソーシャルメディアでガザの人たちの証言を見ても、多くが「このハルブ(戦争)の破壊性は、これまでとは桁違いだ」といった表現を使っている。でも気をつけないと「戦争」には、「喧嘩両成敗」的なニュアンスがつきまとう。
今回のガザ侵攻は、ハマスの奇襲攻撃をきっかけに始まった。だから「喧嘩両成敗だろう」という意見は実際に聞かれる。ハマスの攻撃直後、欧米や日本など世界の「良識」を代表しているような顔をした「主要国」のリーダーは、次々に「イスラエルには自衛権がある」と支持を表明した(なお、自らの占領下にある地域の「被占領民」から受ける攻撃に対しては、国際法上の「自衛権」は適用されないという意見は複数の専門家から聞かれた)。今回の軍事作戦はハマスによる攻撃への反撃という体裁をとり、ハマス撲滅を目的に掲げている。だからこれはイスラエル対ハマスの戦争だ、という主張もあるだろう。
しかし、万単位の民間人死者とインフラ壊滅、さらに多くの負傷者(麻酔が使えない状況で手足を切断される子どもたちを含め)、支援物資が厳しく制限されるために広がる飢餓を、ガザにだけもたらしている状況を、あたかも対等な応酬であるかのように「イスラエル対ハマスの戦争」と呼べるだろうか。イスラエルメディアの報道によれば、ハマス幹部一人の殺害につき、イスラエル軍が許容できるとした民間人の巻き添え死は100人だというが、実際の死者はそれを優に超えるだろう。最強の軍事大国アメリカの支援を受けたイスラエル軍が仕掛けるほぼ一方的なこの軍事作戦を「戦争」と呼び、その結果、ホワイトハウスの報道官がしたように、民間人の死を「戦争というのはそういうものだから」やむを得ないとみなすのは、フェアではない。
そもそもハマスはどの程度、反撃しているのか。そういうニュースがあまり伝わってこない。それを伝える記者が現地にいないのだ。外国メディアのガザ渡航がイスラエルによって規制されているためで、地元ガザのジャーナリストや市民がソーシャルメディアなどを通じて情報発信しているが、彼らができることには限度がある。そして地元民であるがために、彼らの発信には、「真偽のほどはわからない」というバイアス疑惑がどうしてもつきまとう(ウクライナの人々が伝える戦況に、同様の嫌疑がかけられることはあまりないように思う)。外部の記者を締め出すことは、真実を沈黙させる行為にほかならず、「ただの言葉」のただならぬ重みを、いかに恐れているかを物語る。
抵抗する言葉の重み
なりふりかまわず「言葉」を沈黙させようとしているのは、イスラエルだけではない。本稿に取りかかる数日前、ギリシャの元財務大臣で著名な経済学者のヤニス・ヴァルファキスは、ドイツ内務省から渡航禁止通告を受けたと発信した。ドイツ政府の積極的なイスラエル支援を糾弾する会議に参加する予定だったヴァルファキスは、オンラインでの発言さえ「訴追の対象になる」と警告された。こういう国々の指導者が、「我こそは、世界で最も文明的で道徳的である」という顔をして、他を見下している。ドイツはアメリカに次ぐイスラエル支援国だ。国際司法裁判所では、南アフリカの告発によって裁かれようとしているイスラエルの弁護に加わる考えを示している。ナチ政権下におけるユダヤ人迫害の歴史を背負うドイツにとって、イスラエル批判は難しいというのは理解できるが、不正に沈黙するならまだしも、積極的な弁護と支援は殺戮への加担だ。長期的にはドイツに二重の汚点を負わせることになるだろう。
アメリカでは、南カリフォルニア大学で首席卒業が決まっていた南アジア系の学生アスナ・タバッスムが卒業演説を行なう予定だったが、彼女の親パレスチナ発言を問題視したユダヤ系団体の反対を受けた大学が、「安全上の理由で」これをキャンセルした。ガザに連帯を示す学生や教員の反戦運動を、強権国家さながらに弾圧する動きは、ハーバード大やコロンビア大などの名門を含め、多くの大学で起きている。
ソーシャルメディアでは、イスラエルに批判的な投稿が、フォロワーのフィードに現れなくなるというケースも報告されている。人々は、「ジェノサイド」「占領」「イスラエル」「シオニズム」「パレスチナ」といった、人工知能に弾かれそうな単語の綴りをわざと変えて投稿するなどして対抗している。
イスラエルに批判的な言論が統制される時、言い訳に使われるのが「反セム主義(ユダヤ人差別)とたたかう」という主張だ。イスラエルはユダヤ人のために作られた国だが、それを理由に、イスラエル批判=ユダヤ人差別と主張するのは、思考停止でしかない。イスラエルに批判的なユダヤ人も、多数派ではないとしても少なくもなく、イスラエルとユダヤ人を同一視することこそレイシズムだと言える。ユダヤ人迫害は西洋の汚点だ。その歴史の代償を、無関係のパレスチナ人に払わせること自体、巨大な不条理なのだ。
パレスチナを代表する詩人、マフムード・ダルウィーシュは、「この地上には、そのために生きる価値のあるものがある」と詠んだ。それはたとえば、戸惑いがちにやってくる春、夜明けのパンの匂い、ギリシャ悲劇を読む楽しみ、恋の始まり、石に生える草、牢に陽が差す瞬間。そして「侵略者たちが思い出に抱く恐れ」と「暴君たちが歌に抱く恐れ」。冷酷な侵略者も、血も涙もないように見える暴君も、記憶を、記録を、そしてそれらを歌にして時に刻む言葉を、恐れている。
アイルランドのヴァラッカー前首相が今年3月に突然辞意を表明した時、「さまざまな憶測を呼ぶだろうが」と前置きしつつ、辞任の理由は個人的でも政治的でもあり、リーダーも人間であるからには、全力投球を続けられなくなる時が来る、と述べた。ヴァラッカー氏はブレグジット交渉やコロナ禍における功績が評価された一方、在任中に住宅問題は深刻化、家族の定義を時代に合わせて刷新することを目指した国民投票でも敗北していた。
首相の言う「さまざまな憶測」が何を指すのか分からないが、中東ではもっぱら、彼が直前に、訪問先のワシントンで、バイデン大統領を前にして、パレスチナへの共感を表明し、ガザ停戦を訴えていたというタイミングが取り沙汰された。ヴァラッカー氏はこう言った。
「なぜアイルランド人はパレスチナ人に共感するのか、よく聞かれます……我々は彼らの瞳に(かつてイギリスに支配された)自分たちの歴史を見るのです。住居と財産の喪失、民族的アイデンティティの否定、強制移住、差別、そして飢餓の歴史です」。
パレスチナへの連帯宣言という「禁句」を、最大のイスラエル支援国であるアメリカで、それも報道カメラの真ん前で堂々と口にしたがために、何らかの圧力を受けて辞任に追い込まれたのではないか、というわけだが、アラブの人々が勘ぐるのも無理はなかった。今回のガザ侵攻のずっと前から、イスラエルによる占領下で、何十年にもわたってパレスチナ人に対して犯されてきた暴力や不正を語ろうとする者が、表現の自由が保障されるはずの欧米で、著名な文化人も含め、次々と検閲されるのを見て、辟易していたのだから。
ところがアイルランドの地元メディアには、ワシントンでの発言と辞任の関係に言及する報道は、まったく見当たらなかった。私も、アイルランドや、心情的に近い(今も英国の一部である)北アイルランドのカトリック地域を訪れた際、いかに親パレスチナ感情が強いかを肌で感じた。つまり首相は国民の総意を代表して発言したにすぎず、辞任と結びつける憶測も、この時ばかりは「勘ぐりすぎ」だったと言ってよいのだろう。
実際、後任のハリス首相も就任早々、同様の立場を、しかもより強い言葉で、表明した。「(イスラエルの)ネタニヤフ首相、あなたの行ないをアイルランド国民は明確に拒絶する。今すぐ停戦し、無制限の援助物資搬入を認めよ」。その上で、イスラエルと共存する独立パレスチナ国家の樹立を含む「二カ国解決案」の必要性を強調し、アイルランドはパレスチナ国家を承認する用意があると宣言した。
もともとアイルランドびいきの私は、SNSでこの動画を見て無条件に感動したのだが、スクロールダウンすると下のコメント欄には、そんな私に冷や水を浴びせる投稿が、国民からたくさん寄せられていた。
「言葉はもうたくさんです。行動に移してください。イスラエル大使を今すぐ国外追放にしてください」。そういう主旨のコメントの連続だった。
「言葉は軽い。行動に移せ」。そう、アラブにも「言葉は安い」という慣用句がある。私としたことが(そして多くのアラブ人が)、なぜ新旧アイルランド首相の「たかが言葉」に、あれほど感激したのかといえば、そういう言葉に飢えていたからだ。普段はうんざりするほど、多くの欧米エリートから発せられる言葉の暴力にさらされているから。
暴力的な言葉、沈黙させられる言葉
「暴力的な言葉」というと、真っ先に浮かぶのはなんだろう。イスラエルの国防相がパレスチナ人を「人間の姿をした獣」(Human Animals)と呼んだことだろうか。それとも「無辜のパレスチナ民間人など世界のどこにもいない」というアメリカ連邦議会議員の発言だろうか(パレスチナ人であるかぎり無罪ではない、または攻撃の正当な標的だ、という意味合いの言葉は、他にもイスラエル大統領や議員などからたびたび聞かれた)。こうしてパレスチナ人の人間性を否定するような言葉は、確かに暴力を奨励・助長するが、究極的には対象であるパレスチナ人より、発言者自身を汚し、貶めるものだ。むしろ、公平を装った諸政府やメディアが繰り返し使う用語のほうが時に危険を孕んでいる。黒人解放運動指導者マルコムXが言ったように、注意しないと、抑圧者を愛し、犠牲者を憎むように仕向けられてしまう。
たとえば、「人質」という単語自体は無害に見える。なお、いまさら断るまでもないのだが、昨年10月7日にハマスがイスラエルに仕掛けた攻撃は、残虐性という点でも、ガザのみならずヨルダン川西岸の住民も含めたパレスチナ人にもたらした結果という点でも、私は怒りと嫌悪感を覚える。イスラエル民間人の拉致も、正当化できるものではないと思う。
取引の道具として拉致され監禁される人々を「人質」と呼ぶのは、間違っていない。では、イスラエルの軍や当局に「拘束」されるパレスチナ人は、なんと呼ぶべきか。「イスラエルの刑務所に収監されているパレスチナ人」。しかしそれでは、裁判で正当に裁かれることもなく、無限に更新できる「行政勾留」の名の下に監禁され、しばしば虐待される人々の真実は伝わらない。
私の知り合いのパレスチナ人の従姉妹もそのひとりだ。彼女の名は、ラヤーン・ナセル。23歳。占領下のビールゼイト在住で、栄養学を学んだ地元の大学を最近卒業し、NGOに勤務する。大学では左派運動のメンバーだったキリスト教徒だ(当然、ハマスとは関係ない)。親族によると午前4時、彼女の実家に15人のイスラエル兵が押し入り、彼女の両親を、両手を上げた状態で壁に向かわせて後頭部に銃口を押し当て、「黙らないと撃つぞ」と脅したうえで、ラヤーンを連行した。ラヤーンは手錠をはめられ、目隠しされて、軍用車で連れ去られた。その後も容疑が明らかにされないまま、「行政勾留」下に置かれている。
日本でも公開された記録映画『壊された5つのカメラ』では、パレスチナの村や農地を分断する分離壁の建設に抗議する平和的デモが続いていた西岸のビリン村で、夜中に子どもが連行される様子が映されている。ビリンの抗議運動は、欧米諸国からも賛同者が駆けつけるなど内外で反響を呼んでいた(占領に反対するイスラエル人参加者もいた)。ここでの子どもの拘束は、抗議運動をやめるよう、大人に圧力をかける目的があったことは明らかだ。切り札として拉致される子どもも一種の「人質」であろう。
ラヤーンのようにイスラエルの「刑務所」で「行政勾留」されているパレスチナ人は、英国ガーディアン紙の報道では現在3500人超、そのうち40人は子ども、19人が女性だという。ガーディアンはまた、現在勾留されている唯一のキリスト教徒であるラヤーンについて、英国のカンタベリー大主教がX(旧ツイッター)で懸念を表明、彼女の安全のために祈るよう人々に呼びかけたと伝えた。
ハマスの武装メンバーが連れ去ったイスラエル人は明らかに人質だ。では、イスラエル兵が銃で脅して罪状もなく連行するパレスチナ人は、どう呼べば適切だというのか。なぜ、夜中に民家に押し入って連れ去られる人々や子どものことは黙認されるのか。なぜ、国際法違反である軍事占領のもと、兵士が民間人を銃で脅して連行し、裁判なしに長期拘束するという暴挙を日常的に行なう国が「民主国家」と認められるのか。これが民主主義の許容範囲内ならパレスチナ人を、人権を持つ「人」として見ていないということになる。これらを問題視せずに、パレスチナ人がイスラエル人を拉致した場合にのみ「人質の解放」が最優先事項として謳われる時、一見、無害な「人質」という言葉は、差別性を、そして結果的に一種の暴力性を帯びる。
「人質」は一例でしかないが、このような表現を片っ端から糾弾することが本稿の目的ではない。言えるのは、そのような用語や表現は共通して、パレスチナ問題の全体像を見ようとせず、歴史的文脈を無視しているということだ。特に10月7日のような事件があると、背景を語ろうとすること自体、「テロを正当化している」と非難される恐れがあるために、口を閉ざしてしまう人も少なくない。でも歴史は10月7日に始まったのではない。あの惨事に至るまでの約80年にわたる不条理―すなわち、イスラエル建国によって70万人以上が故郷を追われて難民となり、その子孫の多くが難民でありつづけ、あるいは占領下で兵士や入植者による暴力、住居や農地の略奪、移動の制限など数々の屈辱・理不尽に日々さらされているという事実。これらは日本でも多くの書籍や記録映画が伝えている―を指摘することは、ハマスの暴力を正当化することでは決してない。
その上で、最後にもうひとつだけ挙げるなら、「戦闘」「戦争」といった言葉にも批判はある。欧米メディアは、昨年10月7日以降のガザで起こっていることを War「戦争」や Fighting 「戦闘」と呼ぶ。確かに国家権力が兵器を用いる暴力行為だから、一種の戦争ではある。ソーシャルメディアでガザの人たちの証言を見ても、多くが「このハルブ(戦争)の破壊性は、これまでとは桁違いだ」といった表現を使っている。でも気をつけないと「戦争」には、「喧嘩両成敗」的なニュアンスがつきまとう。
今回のガザ侵攻は、ハマスの奇襲攻撃をきっかけに始まった。だから「喧嘩両成敗だろう」という意見は実際に聞かれる。ハマスの攻撃直後、欧米や日本など世界の「良識」を代表しているような顔をした「主要国」のリーダーは、次々に「イスラエルには自衛権がある」と支持を表明した(なお、自らの占領下にある地域の「被占領民」から受ける攻撃に対しては、国際法上の「自衛権」は適用されないという意見は複数の専門家から聞かれた)。今回の軍事作戦はハマスによる攻撃への反撃という体裁をとり、ハマス撲滅を目的に掲げている。だからこれはイスラエル対ハマスの戦争だ、という主張もあるだろう。
しかし、万単位の民間人死者とインフラ壊滅、さらに多くの負傷者(麻酔が使えない状況で手足を切断される子どもたちを含め)、支援物資が厳しく制限されるために広がる飢餓を、ガザにだけもたらしている状況を、あたかも対等な応酬であるかのように「イスラエル対ハマスの戦争」と呼べるだろうか。イスラエルメディアの報道によれば、ハマス幹部一人の殺害につき、イスラエル軍が許容できるとした民間人の巻き添え死は100人だというが、実際の死者はそれを優に超えるだろう。最強の軍事大国アメリカの支援を受けたイスラエル軍が仕掛けるほぼ一方的なこの軍事作戦を「戦争」と呼び、その結果、ホワイトハウスの報道官がしたように、民間人の死を「戦争というのはそういうものだから」やむを得ないとみなすのは、フェアではない。
そもそもハマスはどの程度、反撃しているのか。そういうニュースがあまり伝わってこない。それを伝える記者が現地にいないのだ。外国メディアのガザ渡航がイスラエルによって規制されているためで、地元ガザのジャーナリストや市民がソーシャルメディアなどを通じて情報発信しているが、彼らができることには限度がある。そして地元民であるがために、彼らの発信には、「真偽のほどはわからない」というバイアス疑惑がどうしてもつきまとう(ウクライナの人々が伝える戦況に、同様の嫌疑がかけられることはあまりないように思う)。外部の記者を締め出すことは、真実を沈黙させる行為にほかならず、「ただの言葉」のただならぬ重みを、いかに恐れているかを物語る。
抵抗する言葉の重み
なりふりかまわず「言葉」を沈黙させようとしているのは、イスラエルだけではない。本稿に取りかかる数日前、ギリシャの元財務大臣で著名な経済学者のヤニス・ヴァルファキスは、ドイツ内務省から渡航禁止通告を受けたと発信した。ドイツ政府の積極的なイスラエル支援を糾弾する会議に参加する予定だったヴァルファキスは、オンラインでの発言さえ「訴追の対象になる」と警告された。こういう国々の指導者が、「我こそは、世界で最も文明的で道徳的である」という顔をして、他を見下している。ドイツはアメリカに次ぐイスラエル支援国だ。国際司法裁判所では、南アフリカの告発によって裁かれようとしているイスラエルの弁護に加わる考えを示している。ナチ政権下におけるユダヤ人迫害の歴史を背負うドイツにとって、イスラエル批判は難しいというのは理解できるが、不正に沈黙するならまだしも、積極的な弁護と支援は殺戮への加担だ。長期的にはドイツに二重の汚点を負わせることになるだろう。
アメリカでは、南カリフォルニア大学で首席卒業が決まっていた南アジア系の学生アスナ・タバッスムが卒業演説を行なう予定だったが、彼女の親パレスチナ発言を問題視したユダヤ系団体の反対を受けた大学が、「安全上の理由で」これをキャンセルした。ガザに連帯を示す学生や教員の反戦運動を、強権国家さながらに弾圧する動きは、ハーバード大やコロンビア大などの名門を含め、多くの大学で起きている。
ソーシャルメディアでは、イスラエルに批判的な投稿が、フォロワーのフィードに現れなくなるというケースも報告されている。人々は、「ジェノサイド」「占領」「イスラエル」「シオニズム」「パレスチナ」といった、人工知能に弾かれそうな単語の綴りをわざと変えて投稿するなどして対抗している。
イスラエルに批判的な言論が統制される時、言い訳に使われるのが「反セム主義(ユダヤ人差別)とたたかう」という主張だ。イスラエルはユダヤ人のために作られた国だが、それを理由に、イスラエル批判=ユダヤ人差別と主張するのは、思考停止でしかない。イスラエルに批判的なユダヤ人も、多数派ではないとしても少なくもなく、イスラエルとユダヤ人を同一視することこそレイシズムだと言える。ユダヤ人迫害は西洋の汚点だ。その歴史の代償を、無関係のパレスチナ人に払わせること自体、巨大な不条理なのだ。
パレスチナを代表する詩人、マフムード・ダルウィーシュは、「この地上には、そのために生きる価値のあるものがある」と詠んだ。それはたとえば、戸惑いがちにやってくる春、夜明けのパンの匂い、ギリシャ悲劇を読む楽しみ、恋の始まり、石に生える草、牢に陽が差す瞬間。そして「侵略者たちが思い出に抱く恐れ」と「暴君たちが歌に抱く恐れ」。冷酷な侵略者も、血も涙もないように見える暴君も、記憶を、記録を、そしてそれらを歌にして時に刻む言葉を、恐れている。
言葉は安い。されど重い。ガザの悲劇を前にして自分の無力に落ち込むことのほうが多いが、それでも「侵略者たち」と「暴君たち」が最も恐れるのは言葉なのだ。そう信じて、私たちも声をあげ続けるしかない。ガザの蹂躙が許される世界は、誰にとっても安全ではない世界なのだから。ガザの悲劇を前にして自分の無力に落ち込むことのほうが多いが、それでも「侵略者たち」と「暴君たち」が最も恐れるのは言葉なのだ。そう信じて、私たちも声をあげ続けるしかない。ガザの蹂躙が許される世界は、誰にとっても安全ではない世界なのだから。





