5月、遠く飯豊山(山形・新潟・福島県の県境)が見える会津の田んぼで、「水平」の意味を知った。
田んぼに水が張られ、水面に山や空が映し出される時期だ。夜には、月が反射してあたりが明るくなり、カエルの鳴き声が響きわたる。その何気なく見ていた長閑で美しい水面の下に、ただ水を張ってあるわけではない細やかな作業があることを聞いた。
数日前から用水路の栓を開け、圃場の水加減を調節してから行なわれる「荒代」。表面の土が8割、水は2割見える程度の水位で、高低差を確認する。ちょうど、そんな田んぼが目の前にあった。
「こっちの隅は土が見えない。向こうの田んぼはちょうどいい。(代掻きが)やりやすい」
指をさす方を見ると、確かに2割の水が仕事をしている。段々になった田んぼの片側が高かったり、四隅に高低差があったりするそうだ。それらを掻いて均し、必要ならば「土寄せ」をする。「荒代」が終わったら、さらに土を細かく砕いてとろとろにする「仕上げ」の代掻きもある。それを、苗植えの3日前を目安に行なうため、「苗植えに追いつかれないように必死」なのだそうだ。実は「水田の長閑な風景」などではないらしい。トラクターの上には、時速2〜3キロで這うように地を均しながら、次の作業のために焦る人がいる。
土を均すのには理由がある。高低差があると、苗の生育や水管理に影響が出るそうだ。水深が均一であれば苗が浮いたりすることなく植えられ、ムラなく育ち、土壌の養分も均一化される。水面の下にある土に勾配があると、米はうまく育たない。
その話を聞きながら、2割の水が示す「水平」が、単に「地球の重力の方向と直角」ということではなく、米のために為している意味の深さに、密かに感動していた。言葉の意味が、身体の血管をめぐるようだった。大げさに聞こえるかもしれないが、私は今、こういった言葉に飢えている。なぜなら、為政者・権力者側から発せられる、人を欺く言葉の歪みに、そろそろ耐えられそうもないのだ。
すげ替えられた言葉
放射線量が毎時70マイクロシーベルト(原発事故前の1842倍)の場所を「クリーンゾーン」だと説明されたのは、福島第一原子力発電所の構内を視察した4月のことだ。原発事故を起こした1号機から4号機を望む高台を「ブルーデッキ」と言う。「ブルーデッキは、(放射線防護の装備は要らず)このままの格好で行けます。汚染とかはなく、クリーンゾーンと言っています」と東京電力の社員は説明した。
「70マイクロシーベルト(毎時)もあって、『クリーン』とはどうしてか」と問うと、「汚染と被ばくは違う概念なんです」と説明された。つまり、ブルーデッキ自体は除染されているので、放射性物質が身体に付着することはない。しかし、爆発をした原発や周辺に残る放射性物質の放射線による被ばくがある、ということらしい。
この日は、海洋放出の5回目が行なわれる日だった。視察中の説明で、多核種除去設備(ALPS)等で浄化処理した水のうち、規制基準を満たしていない水(トリチウムを除く告示濃度比総和一以上)は「7割残る」と言った。それを東電は「処理途上水」と呼ぶ。
2021年4月13日、海洋放出を閣議決定した同日、経済産業省は、「トリチウム以外の核種について、環境放出の際の規制基準を満たす水」のみを「ALPS処理水」と呼称すると発表した。「規制基準値を超える放射性物質を含む水、あるいは汚染水を環境中に放出するとの誤解」「誤解に基づく風評被害を防止するため」だと。そうであれば、少なくとも「処理途上水」は規制基準値を超える放射性物質を含むのだから、前述の「クリーン」の考え方で言えば「汚染水」でいいはずだ。それでも、わざわざ舌を噛みそうな「処理途上水」がメディアにも跋扈する。舌を噛みそうと言えば、「汚染土」も「除去土壌」にされた。
過去に「汚染水」と発言した農水大臣は謝罪に、大手食品会社の会長は辞任に追い込まれた。「汚染土」すなわち「除去土壌」をめぐる環境省のシンポジウムでは「風評加害」という倒錯した言葉も誕生した。「汚染」を使えば、SNSでは数百、数千規模のスクリーンの向こうにいる顔の見えない誰かから集団リンチに遭う。科学的に安全か危険かという話ではなく、「汚染」とは絶対に言わせない強い意思が働くこの国の言論は正常なのか考えている。
誰も「汚染」という言葉に固執しているわけではない。積極的に使いたい人はいないだろう。原発事故後のあらゆる放射能汚染と真摯に対峙し、数値を測って事実を可視化してきた市井の人々、生産者がいることを知る人も多い。
そうではなく、原発事故後の国や東電の「情報公開」に対する態度や、経済活動に比して人間に対する被ばくを瑣末なものとして扱ってきたことへの不信が本質である。その両方が言葉の操作に見えているのだ。加えて、また人為的な環境汚染(海洋放出)を行なうのか、という怒りもある。その不信や怒りを見ず「汚染」の言葉を十把一絡げに「無知」や「加害」に変換し、「風評」とする行為は、不信や怒りを増幅するだけだろう。為政者にはその構造が見えないのだろうか。あるいは、謝罪・辞任・集団リンチ等を、無関心な第三者に見せることが重要なのか。
「国が処理水と呼ぶと決めたんでしたね」「安全だって言うけど、もう信じるしかないっすよね」「汚染水、あ、処理水だ、怒られちゃうね」といった、諦めや揶揄のような言葉も、老若男女、複数人から聞いた。莫大な税金をかけて広報した効果は出ている。あるいは政治の言葉への信頼がもうないのかもしれない。
「なかったこと」「ないこと」にするために国や東電は言葉を改竄し、「風評被害対策」の名のもと血税は注ぎ込まれ、言葉と共に社会が歪み、麻痺していく。
葬り去られる被害者の言葉
5月1日、熊本県水俣市で行なわれた伊藤信太郎環境大臣と関係8団体との懇談で、環境省の職員が水俣病被害者側の発言中にマイクの音を切った。参加団体には3分ずつの持ち時間があり、過ぎた場合にマイクを切るという運用方針は事前に決まっていたと環境省はいう。問題になって1週間も経ってから、大臣は謝罪した。
この環境省の対応に、私は2015年7月のことを思い出していた。原発事故による区域外避難者(いわゆる自主避難者)への借上住宅の打ち切りを発表したあとの「子ども・被災者支援法」の説明会で「どうか、私たちのことを見てください、聞いてください」と懇願する男性に対し、復興庁の係官は無言で「お時間です」というフリップを掲げていたのだ。国は、というより、加害者は、被害者の切なる言葉を、はなから聞く気がない。
「それと同じなんです」
今野邦彦さんがそう語ったのは、原発事故により帰還困難区域に指定された、福島県浪江町赤宇木(津島地区)の自宅の解体の話だ。
邦彦さんは今野家の20代目にあたる。15代目から160年の歴史を持つ家(この土地に移ってからは230年の歴史を持つ家)を、家主の邦彦さんの願いであった「母屋に着手する時は立ち会わせてほしい」という言葉を欺く形で、2022年10月末頃に勝手に解体してしまった。このことは、赤宇木を含む津島地区を追いつづけてきたテレビユー福島の木田修作記者が2023年7月に報道し、9月には特別番組にもなった(その番組は、「ある家の記録 帰還困難区域 浪江町赤宇木」というタイトルで、ネット上に公開され、今も観ることができる)。
「(家は)ただのハコじゃないんですよ。それだけの歴史を背負ってきたのに……」
邦彦さんやその家族から、家を悼む大切な瞬間を国(環境省)が奪ったことは、被害者の発言を3分で遮り、マイクの音を切ったことと等しい、と邦彦さんは言ったのだ。家との別れの儀式、つまり「泣くタイミングを失った」という。それは 「あいまいな喪失」だったとも話す。
「あいまいな喪失」とは、解決することも決着を見ることも不可能な喪失体験のことで、南相馬市の精神科医、蟻塚亮二さんも原発事故の象徴的な被害として指摘している。嘆き悲しむことを、しきれない苦しみを抱えてしまう。
勝手に解体されたことが報道されたあと、環境省からお詫びをしたい旨の連絡があったそうだが、邦彦さんは断ったという。「報道されなければ、謝る気もなかっただろう」とも言う。「解体される瞬間」は、謝られたところで、取り戻せるものではない。原発事故そのものが、壮大な「取り返しのつかない出来事」だったが、だからこそ、二度と同じ思いをさせてはならなかったはずだった。
人と歴史、地域を結ぶ記録
現在は福島県桑折町に住む今野邦彦さんに会いに行ったのは、『百年後の子孫たちへ』と題した5センチ以上の束のある赤宇木の記録誌を送ってもらったからだった。今年3月に発行された記録誌の、その膨大な量の言葉と文章の編纂過程について、話を聞きたかった。
記録誌が手もとに届いた時、宅配便とは思わずに片手にパスタを握ったまま玄関のドアを開けてしまった。その『百年後の子孫たちへ』はとうてい片手で受け取れる重さではなく、そもそも、片手で受け取ることが許される中身ではなかったと、読んでからも反省した。
事故の年、国から「100年は帰れないだろう」と言われた赤宇木の人々は、翌年の総会で記録誌を作ることを決め、10年以上の月日をかけて737ページ(資料等がさらに110ページ以上ある)の大作を編んだ。その編集委員会の副委員長が邦彦さんだ。
記録誌というよりは地域史、歴史書である。縄文前期(約6000〜7000年前)の土器の発見から、飢饉の凄惨な記録、戦没者記録から、満州引揚者の赤宇木への入植、町村合併、そして原発事故、2021年の各戸の入口の放射線量表まで収録されている。歴史だけではなく、産業、年間行事、方言と昔言葉、神社とお祭り、津島五山と動植物、行政区、大字会、組、部、農業・民生・教育委員、消防団、育成会、老人クラブ、農業組合、部分林組合、事業や企業、学校、わらべ歌、盆踊りなど、それぞれの詳細な記録が6章にわたる。そして、ようやく第7章からが東日本大震災からの歴史になる。
圧巻なのは、各組の家々の配置図とともに、「わが家と家族」と題してそれぞれの家の誰かが家族の歴史や原発事故後の暮らし、今の思いを投稿していることだ。誰も投稿しない家には、赤宇木の区長を長年務め、記録誌編集委員会の委員長も務めた今野義人さんが原発避難でバラバラになってしまった一軒一軒に出向き、話を聞いてまとめた。また、各家の写真も、春夏秋冬、4枚、収められている。全戸に4回以上、邦彦さんを含めた編集委員が撮影に行ったそうだ。そして、記録の最後に「※」がつけられ「○○さんは平成○○年○月に他界した」と書かれているページが少なくないことに胸が締め付けられる。
「人は数ではないと示したかった」と邦彦さんは言う。避難者数として示される数字には、一人ひとりの歴史、暮らし、地域の人々とのつながりがある。『百年後の子孫たちへ』は、確かにそのことを立体的に訴えている。
受け継がれてきた言葉
印象に残ったのは、おそらく赤宇木地域の人々だけが使う地名が記されていることだった。例えば、「でじまる(山道)」「うるしま(○○さんの家の後ろ土地)」「マセド(昔の休石道路と○○さん、○○さんに通ずる道路の接点辺り)」「美吉つぁん所の橋」「小沼の西(○○さんの家)」「小沼の東(○○さんの家)」「洗濯淵(昔、製材所の長屋があり、そこで働いていた人たちがこの場所で洗濯をしていたらしい)」「ドクミズ(○○のお墓の左側の細い沢)」「ダイコン坂」「カーブラキ沢」「ちょうじろう窪」など、地図にはない地名が、固有名詞入りの説明とともに紹介され、マップにピンがつけられている。
原発事故前、きっと、赤宇木の人々の会話の中で使われていたのだろうと想像する。そう邦彦さんに伝えると、「町村合併でもそうですが、上が勝手に区切り、名前をつけますから」と言った。勝手につけられた地名ではなく、地域の人の間で交わされた言葉を残してあるのだ。
かつて、赤宇木の交流文化圏は浪江町の町内(海側の浪江町役場付近)ではなく、南相馬市の小高区だった。
「赤宇木の真東は、南相馬市小高区でしょう。今の人は、みんな自動車が通れる道路で文化圏を考えるけれど、山の民は、〝ショートカット〟が得意なんですよ」
と、邦彦さんは笑った。徒歩か馬で移動した「山の民」が、幅1メートルもない山道を分け入る姿を思い浮かべる。
『百年後の子孫たちへ』の重要な参考文献となる『相藩雑記』は今野家17代目、邦彦さんの曽祖父にあたる美寿さんが相馬藩の都、中村(相馬市)に通い、30年かけて編纂したものだそうだ。美寿さんは小学校の教員を経て明治22年に津島葛尾組合村長となり、昭和4年までの41年間、津島村の村長を務めた。村長を辞めたのちも、山を〝ショートカット〟して中村(相馬市)に通い、『相藩雑記』として歴史を編纂した。その内容の7割が『相馬藩政史』として製本された姿で今も残る。7割とは、相馬藩の中央の歴史で、抜かれた3割の津島の歴史は、原本にしか残っていない。「(『相馬藩政史』で抜かれたのは)マイナーな津島だから」と邦彦さんは言いつつ、『百年後の子孫たちへ』に必要だったのは、抜かれた3割だった。
その『相藩雑記』の原本と、美寿さんが村長時代に残した『吏務餘録』を、邦彦さんは奥から持ってきて見せてくれた。和紙に筆で書かれた文字の美しさに驚いた。膨大な量の記録を、この丁寧な字で書き上げたのだと思うと、美寿さんの几帳面さと誠実さがうかがえる。
思えば、美寿さんが残した記録は約百年前のものだ。それを参考文献に、邦彦さんは百年後のための赤宇木の記録誌を編纂した。「美寿さんと同じことをしていますね」と言うと、邦彦さんは「そうですね」と笑い、「でも、赤宇木での新たな記録が発生していない。新たな思い出は、ここ(桑折町)でしか生まれていないんです」とつぶやいた。
記録誌が発行された1カ月後、今年の4月21日、赤宇木地区の総会が行なわれた。
「それは赤宇木地区のお葬式でした」と邦彦さんは言った。(つづく)



