2023年10月7日のガザ蜂起から数段ギアを上げてきたイスラエルのガザ攻撃は、ガザ地区内にあるパレスチナ人のあらゆる生命と生活と社会とを破壊する凄惨なものとなっている。狭隘で逃げ場所もない封鎖空間に対する攻撃の継続期間が7カ月を超えていること、死者数は4万人以上だがそこに子ども1万5000人以上が含まれていること、住宅密集地を面で破壊し、工場・商店・学校・病院・モスク・インフラを意図的に破壊していること、物流も電気・ガス・水道も止めて飢餓を戦略的に生み出していることなどは、常軌を逸するという言葉でも表現できないほどだ。ジェノサイドを超えて、生活空間を、社会丸ごとを抹消する民族浄化の様相を呈している。
このことについては、大きく3つの問いを投げかけることができる(また実際に講演会や学習会などでそうした質問を受けることがよくある)。1、ユダヤ人国家としてイスラエル人は第二次世界大戦下でのホロコーストでジェノサイドや民族浄化の不当さや悲惨さをもっとも身を以て知っているはずなのに、どうして同種のことをパレスチナ人に対して行なうことができるのか。2、紛争地帯とはいえ、イスラエルの攻撃にあるこの過剰な暴力性・非人道性はどこから来ているのか。3、人権と民主主義の先進国を自任しているはずの欧米諸国がなぜイスラエルのこの蛮行を容認し、軍事支援までしているのか。この3つに整理した問いは相互に連関しているので、一問一答のかたちにすることは難しいが、個々の論点を丁寧に掘り下げていくことで、最終的に3つの問いに対する回答は明晰に理解されるだろう。
1 ホロコーストとシオニズム・イスラエルとの関係
まずは、1つ目のホロコーストと関連する疑問を解消しておくことで、イスラエルというユダヤ人国家を支える思想としてのシオニズムそのものの暴力性について考察しやすくなるだろう。端的に、ユダヤ人国家を創設するというシオニズム運動は、19世紀を通したヨーロッパ各国の「国民国家」(nation-state)の展開にともなうユダヤ教徒の非国民化・他者化と、その表裏で流行のナショナリズムを自ら内面化していくことで進行したユダヤ・ナショナリズムとに起源を持つのであって、20世紀半ばのホロコースト生存者がイスラエル建国を担ったわけではない。
ユダヤ・ナショナリズムは、ヨーロッパのユダヤ教徒たちをキリスト教徒国民のなかに同化・埋没させるのではない民族アイデンティティを創出し強化していくという側面と、ヨーロッパの外部にそのユダヤ民族が「国民」になることができる国家を創設するという側面とを持つ。ヨーロッパ内部でユダヤ人意識やユダヤ文化あるいは民族自治を肯定するというユダヤ・ナショナリズムのあり方もあり得たが、東欧・ロシアで19世紀末にポグロムと呼ばれたユダヤ人に対する具体的な迫害を契機に、また同じく19世紀末に流行り始めた「実証主義」にもとづく科学的(科学を装った)人種主義によって「ユダヤ人種」が創出されていったことが相俟って、ユダヤ人国家建設に向けた政治運動が展開されるようになる。テオドール・ヘルツルによる『ユダヤ人国家』(1896年)と第1回シオニスト会議(1897年)とはその大きな画期を示す。
ここでさらに加えるべきは、「ヨーロッパの外に建国を」と言ったところで、そうした「国土」となることのできる規模の土地の確保はヨーロッパ諸国による外部の植民地主義や帝国主義に依存せざるをえないという点だ。集団入植と共同体づくりを経て建国することに適した空っぽの無主地など、地球上のどこにも存在しない。ヨーロッパ諸国の都合で、ヨーロッパ内部のユダヤ教徒マイノリティを移住させるのに、ヨーロッパの植民地から土地を用意する、ということになる。ヘルツルはイギリス植民地省のジョゼフ・チェンバレンから提示された英領東アフリカ(現在のケニア・ウガンダ)を受け入れて、1903年の第6回シオニスト会議でこの英領東アフリカ案でユダヤ人入植計画を進めることを議決した(翌1904年にヘルツルが急死すると、東アフリカ案は破棄されることになる)。
次に事態が大きく展開するのは、第一次世界大戦中の1917年に、イギリスが敵交戦国のオスマン帝国領パレスチナに「ユダヤ人の民族的郷土」建設をイギリスが支持するとアーサー・バルフォア外務大臣が表明したときだ。戦局打開のためにユダヤ人のシオニスト・ロビーを味方につけるべく、イギリスは「民族的郷土」支援の約束を結んだ。そして実際に翌18年にオスマン帝国が(ドイツ帝国とともに)敗北すると、フランスおよびロシアとの秘密協定「サイクス=ピコ協定」にもとづき、イギリスはオスマン帝国領のうちパレスチナを含む地域を占領統治し(1920年に植民地化、23年から国際連盟委任統治)、組織的なユダヤ人のパレスチナ入植に道を開いた。