安保五条と憲法九条――未完の安保法制と改憲

古関彰一(獨協大学名誉教授)
2025/06/07

有事の時代の安保5条

 日米共同声明(宣言)といえば、この数年にわたって、必ずと言ってもいいほど毎回、日米安保条約の第五条が大きく報道されてきた。それは有事の際に、日本防衛のため尖閣諸島などに安保五条が適用されるとの趣旨だ。大きく報道されるのは、「有事の際は米軍が日本を守ってくれる」ことを確認したからだ。

 たしかに毎回のように、米軍が安保五条で尖閣諸島などを守ることを確認しているが、その間にあって、「安保五条」の位置づけについて、変わらぬことと、変わりつつあることをまず紹介しておきたい。

 変わらないことは、声明や会見で毎回のように新聞の一面トップの大見出しで「安保五条」とのみ掲げ、その条文の中身に言及されることは一度もないということである。安保五条はさして長い条文ではないにもかかわらず、メディアを含めて言及しない理由は何処にあるのか。見ることは誰でも可能なので、五条一項の全文を紹介しておこう。

 各締約国は、日本国の施政の下にある領域における、いずれか一方に対する武力攻撃が、自国の平和及び安全を危うくするものであることを認め、自国の憲法上の規定及び手続に従って共通の危険に対処するように行動することを宣言する。

 こう紹介されていれば、誰しも有事の際には、「憲法上の規定及び手続」に従うことになるということが容易に理解できる。もし、そう紹介されていれば、「2015年に安保法制がつくられた際に、安保条約五条に『憲法上の規定及び手続』とあるが、憲法九条をどう解釈しても『憲法上の規定』で有事法制は『対処』できないのに、なぜ議論にならなかったのか」とか、「安保法制ができて10年も経ち、憲法審査会もあるのに、なぜ『憲法上の規定及び手続』が議論になっていないのか」とか、話題になってもいいはずである。

 ちょっと、穿うがった見方かもしれないが、たぶんすべてのメディアが「米国側、安保五条を適用」とのみ大々的に報じる一方で、現在も条文内容はまったく報じていないことを考えると、「安保条約は現在も有効な条文だが、そんなことを知っている日本人はもはや稀にしかいない。寝ている子を起こすと安眠妨害になるから、ぐっすりお休みいただいたほうがいい」とどこかで誰かが囁いたのかもしれない。

 さらにもうひとつ気になることは、共同声明が出てくるたびに「安保五条」とだけ日米両国の首脳によって唱和がなされ、大見出しの活字が飛び込んでくると、毎回同じ内容だと思ってしまうということだ。たしかに安倍・オバマ(2014年)、安倍・トランプ(2017年)、岸田・バイデン(2024年)の声明で、「安保五条」は見出しに大書され、目立ってはいたが、内容はほぼ同様で、行数も少なかった。最も長かった岸田・バイデンの時でも関連条項はこんな具合だった。

 バイデン大統領は、核を含むあらゆる能力を用いた同(日米安全保障)条約第五条の下での日本の防衛に対する米国の揺るぎないコミットメントを改めて表明した。岸田総理は、日本の防衛力と役割を抜本的に強化し、同条約の下で米国との緊密な連携を強化することへの日本の揺るぎないコミットメントを改めて確認した。バイデン大統領はまた、日米安全保障条約第五条が尖閣諸島に適用されることを改めて確認した。

 内容的には、米国は安保五条の下で、尖閣はじめ日本の防衛に関与し、日本は防衛力強化と米国との連携を確認した、ということだ。ただ「それだけ」とも言えよう。

 ところが、石破・トランプの共同声明(2025年2月)になり、声明自体がさして注目されなかったこともあり、声明「全文」を載せたメディアは少なく、「要旨」が掲載され、安保五条の部分などは豆粒のごとくだった。ところが実際に声明を読んで見ると、内容は以前と一変していた。

 日本は日米安全保障条約及び日米防衛協力のための指針に、平時から緊急事態に至るあらゆる状況への切れ目のない対応により、インド太平洋地域の平和及び安全を維持していく上での自らの役割を再確認した。これは2015年の平和安全法制により一層可能となり、日米同盟の抑止力と対処力を強化している。

 こう述べて、安保五条を「日米防衛協力のための指針」(ガイドライン)に沿って、「平和安全法制」(有事法制)をつくったことを、言い換えれば日本の法制である有事法制と日米安保条約との関係を、日米安保条約六五年目にして、あるいは有事法制成立から10年目にして、声明文に盛り込んだということになる。

 有事法制が安保条約やガイドラインと結びつけられて論ぜられることは当然であったと思いたいが、それ以前はいかなる言論の分野からも正面からは論じられていなかったために、日本政府から見れば、「渡りに船」でしばらく声明文にも「安保五条」とだけ、つまり、「安保で米軍が尖閣を守ってくれる」という印象を国民に与えて、五条の内容も、安保法制(有事法制)との関係も伏せたままにしてきたのだ。というのも、後述の如く、そもそも安保五条は、その変遷過程からも、米国政府の日本政府への対日安保政策の根幹になければならない必須の条文として定礎されていたのだ。

 もちろん、日米両政府から見るとこれだけではなかった。これまで隠されてきた最大の問題は、安保五条に書かれている「憲法上の規定及び手続に従って」の部分である。なにしろ、有事法制の議論の際にも、憲法九条は大問題になったが、安保五条と憲法九条の関係が持つ重大性はいかなる政治分野からも論じられてきたとは言えない。

 しかし、日本政府から見れば、現行日米安保条約は、「70年安保」で反対運動はあったが、その後はさして問題にもならず、「安保は遠きにありて思うもの」になってきたのであり、なかでも安保五条と憲法九条の関係は問題になっていない。

つまり、石破・トランプ共同声明は、日米両政府によって安保五条とガイドライン、さらには安保法制の存在が首脳会議の声明で強調されたのである。そうであるから「残るは『憲法上の規定と手続』に手をつけるだけだ」というところにまで、ようやく歩みを進めることができたという感慨が、官僚などの政府筋には「戦後80年」のなかに詰まっている、と見ることができるのではないのか。

安保体制が映し出す安保五条

 ここに至る歴史的経緯を、私たちはあまりにも知らされていない。筆者は、最近『虚構の日米安保――憲法九条を棚にあげた共犯関係』(筑摩書房)という書物を上梓したが、日米安保と憲法九条との関係が、知られないままにここまで来てしまったことに改めて気づいたのであった。

 調べてみれば、安保五条は日米両政府にとって、なかでも米国政府にとって、日米安保体制の脊柱の位置に、しかも歴史を背負って存在してきたのである。それは日本では長年知られてこなかった有事の際に必要となる憲法改正のための条文であった。

 安保五条は、現行安保条約が1960年に改正される中でつくられた。ところがその出自を調べてみると、なんと1951年の旧安保条約の米国案のなかにあったことがわかる。それは、旧安保条約を作成する日米交渉の際に米国側から提案され、日本側から拒否された条文であった。

 「敵対行為又は敵対行為の緊迫した脅威が生じた」際、つまり「有事」の際は、「日本軍は、日本政府と協議のあと合衆国政府によって任命された最高司令官の統一指揮のもとに置かれる」。

 こうした表現も内容もまったく知らされてこなかった私たちには、驚くべきことであるが、朝鮮戦争下で安全保障条約を米国政府と結ぼうとすれば、こうした要求が米国側から出されていても驚くにはあたらない。

 しかし、日本政府は、それは吉田政権下のことであったが、即座に拒否していた。とはいえ、米国政府、それはトルーマン政権下であったが、日本の隣の朝鮮半島で戦闘が勃発し激化するなかで、一時期は北朝鮮軍が半島の最南端の釜山プサン近くまで攻めてきていたのだ。

 事態は深刻であった。九州北部の都市で灯火管制が敷かれていたほどであったのである。したがって、日本は再軍備を認めて安保条約を結んでいたのであるから、米国政府から見れば将来の「日本軍」が有事を想定しないことなど考えられなかったのも、当然だろう。

 そこで、米国側は旧安保条約で有事条項を挿入することをあきらめたが、そのままでは済まず、同条約に付属した日米行政協定に、先の米国側が作成した旧安保条約案にあって、日本政府が拒否した条項を盛り込むことにしたのであった。

 ところがここでも日本政府側から強く反対され、紆余曲折の末に、有事の際は「日本国政府及び合衆国政府は、日本区域の防衛のため必要な共同措置を執」る(日米行政協定24条)、と「必要な共同措置」という漠然かつ曖昧な条文で妥協することになったのであった。

 しかし、米国政府はこの妥協による条文に満足していなかった。そこで、米国側は吉田首相から、有事の際に「日本軍」は、米軍の最高司令官の指揮の下に入るという口頭密約を、自衛隊が発足する直前にあたる1952年と54年の2回にわたって得ることに成功したのであった。

 ところがその後、岸信介が1957年に首相に就任すると安保条約の改正に着手した。米国側のダレス国務長官は、安保条約を改正して、強化するのであれば、安保条約が戦力を否定している憲法九条に反することになるので九条を改正する必要があると主張したのだ。

 そればかりか、国際法を専門にする弁護士でもあったダレスは、「憲法九条を改正せずに、安保条約を改正すると、日本国憲法九八条一項では「この憲法は国の最高法規」と定めているので、近代憲法の基本理念である立憲主義にも反することになる」、とまで日本側に対して指摘していたのであった。

 さらに、ダレスは岸に対して憲法九条を改正することが先決だと主張したが、岸は、憲法改正は10年以内にして、まず安保条約の改正を先に行なうよう提案したのであった。

 これに対してダレスは、憲法九条を安保改正より先に改正しないのであれば、その代わりに、旧安保条約で日本側が拒否し、行政協定で定めてある「必要な共同措置」というあいまいな有事条項を現行安保条約に移行させ、表現も「憲法上の規定と手続」と明確に定めることを要求したのであった。こうして誕生したのが、現行安保条約の第五条なのである。

 つまり、岸が憲法九条の改正よりも先に、安保五条の挿入を受け入れたことは、有事法制は、自衛隊が米軍の指揮下に入ることを吉田首相が密約で受け入れているのであるから、それに見合った「憲法上の規定と手続」を受け入れたことを意味したと考えられるのである。

 筆者が先ほど「ようやく歩みを進めることができた」と書いた石破・トランプの共同声明は、岸政権下で現行安保条約五条が登場してから65年ぶり、さらには最初に旧安保条約の米国案で提起されてから75年ぶりという、米国側から見れば、有事法制と憲法九条という日米安保体制が基本矛盾として抱えている宿年の歴史そのものを背負って出されたと解することができるのである。

 なかでも、米国政府から見れば、日本政府はワシントンで認めた「有事法制」を、東京に帰れば「日本は平和国家」と言い換えてきたのであるから、「ようやく」ワシントンでの言行を東京で一致したと実感しているに違いない。

 こうして、岸・ダレス会談から、岸首相は憲法九条を棚にあげ、九条を「国の最高法規」とすることを無視して、立憲主義を放棄し、後に述べる日米政府間の「協議」を「国の最高法規」としたのである。日本政府は、国会にも有権者にも内緒で、目を閉じさせたまま、憲法の基本理念と真逆な日米合意をつくり出してきたことになる。

 筆者は、先の拙書で、岸首相の行為は、いわば「静かな政変クーデター」であったと述べたが、その政変が結果的には六五年間という長期にわたり日本という国の歴史を改竄かいざんしたままに、今日に及んでいることを考えると、日本が戦後掲げてきた憲法理念ばかりか、政治の普遍的道義に悖もとる許しがたい行為に思える。

未完成の安保法制

 バイデンの大統領職辞任が間近に迫っていた2024年8月、一方で岸田首相は自民党の総裁選への不出馬がすでに決まっていたなかで、米国を訪問し会談を持った。米国からの強い要求があったことが窺うかがえる。

 会談の内容は報じられていないが、帰国した岸田は、9月2日に「自衛隊明記」を含む憲法改正を、自民党「憲法改正実現本部」に指示したという。岸田は米国政府、なかでも米軍から、安保五条に定める「憲法上の規定及び手続」を実現するためには、憲法九条の改正が必要であることを伝えられたのではないのか。

 それに応えるかのように小野寺自民党政務調査会長は、11月24日に東京都内の憲法改正を推進する団体の集会で、憲法九条二項を変えるために、「堂々とこの国を守るため、自衛隊明記はもちろん、九条二項を含め、しっかりと変えていく必要がある」と述べたという。

 そうした日米の政治状況を受けて、石破首相は、2025年5月3日の憲法記念日に、東京で行なわれた改憲団体の集会にビデオメッセージを寄せ、施行から78年を迎えた憲法について、こう述べたという。憲法を「果敢に見直しを行い、議論し、あくまで主権者である国民の判断に委ねることが必要だ」。石破首相はそう述べた上で、

 今、わが国を取り巻く安全保障環境はかつてないほど厳しい。人口の減少、地方の衰退も歯止めがかかっていない。首都直下型地震、南海トラフ地震など、いつ何が起きてもおかしくない状況だ。

 改正すべき項目に関しては「緊急事態対応、自衛隊の明記」を最優先に取り組んでまいりたい。

 こう訴えて、自衛隊の明記を第1に、第2には緊急事態条項の創設、続いて参議院の合区問題の解消、教育環境の充実を挙げたという。

 一方、毎日新聞が行なった「憲法改正で関心のあるテーマ」で、「賛成」「反対」を問わず関心があるテーマを聞いたところ、「自衛隊の明記」が42%と最多で、「大学などの無償化」が22%、「同性による結婚」と「二院制のあり方など国会改革」が21%で続いた、ということだ(毎日新聞、2025年5月3日)。

 憲法改正をめぐって、本稿が注目してきた安保五条に関して日本の有事法制が米軍との間で法的根拠を持つために憲法九条の改正が必要か否かという設問そのものがない。石破首相の憲法改正の見直しのなかにも、安保と憲法九条との相互関連への言及はまったく見出せない。

 すなわち、有事法制は国内では国会で承認を得ているが、憲法改正がなされておらず、そのため、安保条約第五条が定める米国(米軍)との関係で自衛隊が米軍の下で行動できないので、安保法制は未完成であり、この状況を変えるためには憲法九条の改正が必要であるという「本音」がまったく触れられていないのである。

 「自衛隊の明記」が設問に入っているが、これは自衛隊員自身のためなどではなく、自衛隊の明記によって安保条約の米軍と自衛隊との一体化を可能にするためなのである。もちろん、結果として間接的に自衛隊員のため、あるいは日本のためにもなるが、根本的には「アメリカ第一」なのだ。なにもトランプに言われたからではなく、そもそも日米安保条約は元来、「アメリカ第一」なのだ。

 しかも、米国の現状は、トランプ大統領が「第一」と叫ぶことによってしか、世界支配を維持できない終末にいるのではないのか。多くの内外の識者が米国の「凋落」を伝えているが、それは「つぎは日本の問題だ」と、すべからく気づくべき時なのだ。

 ところが、日本の現実は、大統領が誰になろうが、わき目もふらず「君についていく」という体ていたらくぶりだ。今回の関税問題でも、日本だけ「特別扱いを」とか「例外扱いを」とか、常識では考えられないほどに、「甘え」と「身の程知らず」を露呈し、結果は米国政府側から断られたではないか。

 ことほど左様に、日本は、しょせん米国に従って、国民には内緒で、その後をついて行けば安泰だと信じてきたのである。そしてついに軍事においても、百戦錬磨の米軍に、戦闘に一度も加わったことがない自衛隊を差し出そうとしている。

 本稿のはじめに、「メディアは『安保五条』と条文名のみ報じて、条文内容は伝えていない」と書いた。いよいよ憲法九条改正が第1の問題になっても、メディアも含めて、憲法九条だけを論じ、「安保五条と憲法九条との相関関係」という「影の主役」を登場させないのであろうか。

 岸田も小野寺も石破も、安保五条との関係にはまったく触れず、憲法改正だけを主張している。安保条約改正の1960年に岸首相は、国内では憲法改正の旗振り役を担ってきたが、米国の公文書を見ると、米国政府の前では憲法改正よりも安保改正を先にするように提案していたことは、本稿のなかで述べたとおりだ。日本と米国での憲法改正に対する「使い分け」は、岸に始まり岸田も小野寺も、そして石破も、半世紀を超えても何も変わっていない。

 安保法制の審議が続いていた際の安倍首相の言葉が思い出される。「憲法を改正しても、自衛隊は何も変わらない」。確かに「名言」である。米国では憲法を隠し、日本では安保を隠すからだ。さすが、岸の衣鉢(いはつ)を継いで生まれてきただけのことはある。ところが、九条を安保との内的関係で見直せば、本稿で紹介したように、日本自身も、自衛隊も大きく変わることがわかる。

 再来年は憲法施行から80年になる。この80年間にわたる「知られざる憲法と安保の内的関連構造」を再検討することなく、従来通りの表面的・情緒的で歴史性のない、自国のみの歴史認識、政治体制認識を継続している限りは、日本の未来を切り拓くことは決してできないであろう。

古関彰一

(こせき・しょういち)獨協大学名誉教授。1943年東京生まれ。早稲田大学第一法学部卒、同大学院修士修了。専門は憲政史。89年吉野作造賞、2021年日本平和学会平和賞受賞。著書に『日本国憲法の誕生 増補改訂版』(岩波現代文庫)など多数。

2025年7月号(最新号)

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