雑誌と同志——青鞜・世界文化・近きより

神子島 健(東京工科大学教授)
2024/07/05

 雑誌の「雑」は、「純」と対をなして、「まじる、まじわる、あつまる、ともに、みな」といった意味を持っている。「誌」は書き記すといった意味なので、「雑誌」ということばは「様々なものを書き残したもの」といったあたりになる。そこには、交わること自体に意味を持つ、いわば「共通の場」(フォーラム)という面と、同じ目的をもって「集まる」同志的な(ということは、志が異なる人を寄せつけない)面とが緊張感を持ちつつ同居しているとも言える。

 現在、政府の設定した課題に対し、その前提を批判的に検討せず、最初から同じ土俵に乗って議論をしようとする「対案主義」や、そもそも政府の主張を垂れ流すような言論が支配的になっている。本稿では、敗戦前までの日本において、その時代状況の中で可能な限り批判的であろうとしたいくつかの雑誌のあり方を検討することで、今日の「あるべき言論」を考えるためのヒントを探ってみたい。

『青鞜』の衝撃

 日本初の女性弁護士となった三淵嘉子をモデルとしたNHKの朝ドラ『寅と翼』が話題となっている。大日本帝国憲法下で、女性は参政権がないことをはじめ公的領域での権限を担えず、民法上も家長の下に服従し法律上「無能力」とされ、家庭という私的領域においても低い地位におかれた。そして「天下国家を動かすのは男」「女性は家庭を守る」といった通俗的な価値観がその制度を支えた。

 大逆事件(1910年)の翌年9月、日本ではじめて女性のみによって作られた文芸誌『青鞜』が世に出された(1916年廃刊)。発起人は平塚明(らいてう)、保持研子、中野初子、物集和子、木内錠子の5名。第2号の巻末に掲載された青鞜社概則(社則)の第一条には、「本社は女流文学の発達を計り各自天賦の特性を発揮せしめ他日女流の天才を生まむ事を目的とす」とある。第六条には、雑誌の発刊のほかに研究会や大会の開催、旅行の実施が書かれている。単に発表の場としてだけでなく、交流し、学びあい成長する機会を作ることを目指す同志的結社と言えよう。

 文芸誌でありつつも、当初から評論・批評も積極的に掲載した。後世から見た時、『青鞜』は「女流文芸誌」と「女性解放運動の機関誌」の両面を持つ雑誌となった。らいてうを研究してきた米田佐代子は、らいてうに発刊を勧めた作家の生田長江に言及しつつ、「大逆事件」の死刑執行(1911年1月)から間もない「『冬の時代』に政治を語ることの危険性は誰の目にも明らかである。『政治的ではない』文学の世界で、しかも『女流』に限定することで『危険』を回避できるという判断が長江に働いたとしても不思議はないだろう」註1と書いている。

 『青鞜』以前から、女性が雑誌に書き手として小説や論考を発表する機会自体は存在していた。しかしそこでは、男性の作る雑誌や新聞の家父長制的な秩序内で許容できる範囲の表現しかできない。その世の中に一石を投じるには、まさに「同志」が集まって女性のみで雑誌を刊行し、既存の雑誌とは異なる言論を提示する必要があった。

 『青鞜』の「編輯室より」(編集後記)では、尾竹紅吉が参加した1912年半ば以後、メンバーの他愛のないやりとりなど、いわば「楽屋ネタ」的なものが出てきたことに注目する研究は多い。これは内部の濃密な人間関係を示すとともに、「メディアが彼女たちに貼るさまざまなレッテルを剥がし、一人の女性としての社員たちを照らし出す意図もあったのではないか」註2と、フェミニズム研究者の矢内琴江は分析している。ここからうかがえるように、誌上で婦人運動的な路線が前景化する中でメディアでのバッシングが増える。その中で去る人も多かったが、新たに青鞜社に加わる者もいた。同志的関係がバッシングからのバッファーにもなると同時に、類似の集団がほかにない状況下では、『青鞜』のような存在自体が発言する女性にとってのフォーラムとなる可能性を示しているとも言える。

 100年以上前、家父長制的なジェンダー秩序に対抗する声を上げた『青鞜』が、今日の日本社会に投げかけるものは決して小さくない。

京都、人民戦線の拠点

 近代日本において、最大の言論崩壊がアジア・太平洋戦争期にあったことは疑う余地がない。戦後、自由と民主主義を謳いつつGHQが言論統制を行なっていたことは問題であるが、戦時下の弾圧・統制とは比べるまでもない。

 日中全面戦争が始まる直前の1930年代半ばごろは、実のところ論壇ジャーナリズム華やかなりし頃であった。社会主義的な色の濃い『改造』、リベラル色の強い『中央公論』がツートップで、『文藝春秋』『日本評論』を加えた四誌が四大綜合雑誌と呼ばれた時代であった。そこではマルクス主義の影響を受けた戸坂潤や三木清なども常連の執筆者として名を連ねている。四誌がしのぎを削る商業ジャーナリズムの世界では、主張としてある程度過激なことを出したほうが売れる状況でもあった。ここでは商業ジャーナリズムがフォーラムを形成していたと言える。

 とはいえ、治安維持法違反の疑いがかけられるような書き手は特高警察から監視されており、ましてやそうした人々が集まる同志的・結社的会合となれば秘密裏に行なうしかなく、それでも監視の手から逃れ切れるとは限らない。

 1930年代半ば、京都で美学者の中井正一を中心に集まった二十代、三十代の知識人たちが、雑誌『世界文化』と、より大衆的な性格の新聞(隔週刊)『土曜日』を発行した。戦後における市民派の知識人の代表的存在となった若き久野収もそこに積極的に関わっていた。ほかに真下信一、新村猛、富岡益五郎などのメンバーがいた。

 共産党の非合法路線が次々に崩されていくのを見てきた中井たちは、明確な合法路線での反戦・反ファシズム方針を取った。とりわけ、学問的性格の強い『世界文化』で、海外の雑誌・新聞を取り寄せて翻訳した「世界文化情報」欄にて世界の動向を詳しく紹介した。彼らの関心上当然だが、ナチス・ドイツに対する批判的言論や、フランス人民戦線内閣やスペイン内戦の状況などが多く掲載された。

 『土曜日』の巻頭言の大半を中井が書いているが、創刊号の巻頭言にはこうある。「営みが巨大な機構の中に組み入れられて、それが何だか人間から離れてきたようである。明日への望みは失われ、本当の知恵が傷つけられまじめな夢が消えてしまった。しかし、人々はそれでよいとは誰も思っていないのである。何かが欠けていることは知っている。/しかし、何が欠けているかはさだかにはわかっていないのである」(/は改行。『中井正一全集4巻』より)。

 第2号では、人々が日々の生活に追われて時代の波に合わせて「イージーな道」を歩むようになっていくことについて、「そのことは換言すれば、自分の生まれて、今、ここに生きていること、その未来の正しさへの批判を放棄してくることである。その生活の中の歪みと、その虚しさに慄然とした関心を日々の忙しさに棄て込むことである」(同前)と書いている。

 2024年の現在、今の状況をおかしいと感じている人は、決して少なくないと思われる。「しかし、何が欠けているかはさだかにはわかっていない」、そのおかしさを明確に指摘し、脱却する方向を示す言論がなければ、「未来の正しさ」に向けた批判を、日々の忙しさの前に棄てていく人が増える。当然、何もしないままの時間がたてばたつほど、そうした批判的思考を共有する回路はやせ細っていく。今日でもアクチュアリティを感じる中井のことばは、当時と今の時代状況の類似を示していると言える。

 『世界文化』および『土曜日』は、明確な合法路線をとっていたこともあり、発禁処分を受けるようなことは終刊まで一度もなかった。しかし、コミンテルンが人民戦線戦術を採用した中で、非合法活動家の側から『世界文化』に接触してきたため、「「書かれた内容」でなく、「人間の繋がり」が引鉄」註3となって、1937年11月、中井や関係者が検挙されることとなった。これによって『世界文化』『土曜日』は、その誌(紙)面じたいには何ら問題がなかったにもかかわらず、発行に関わった人物たちが軒並み検挙されたことで強制的に幕を下ろされたのである。

個人雑誌での抵抗

 中井正一らが検挙されたのは1937年11月。同年の7月に盧溝橋事件で始まった日中戦争は、早期停戦の機会を失い、日本軍が次々と戦線を広げることによって総力戦の様相を呈していった。それに合わせて徐々に、しかし確実に言論の幅は狭まっていった(このあたりの事情については拙著『戦場へ征く、戦場から還る』の2章で詳しく書いている)。

 戦時下の日本社会を批判的な視点で内側から記述した『暗黒日記』の著者として知られる評論家の清沢冽は、1943年に「戦時下の論壇」と題して、前年の評論界をふり返って3点の特徴を挙げている。1.既成の書き手がほとんど姿を消したこと。2.文筆を職業とする人物への批判に見られる言論人の性格(位置づけ)の変化。3.言論そのものの意味変化としての「批判乃至は評論を忌避排斥する傾向」である。まとめとして清沢は、「こうして社会各方面における統制が浸透して行くと同じ歩調で、わが国の言論界の統制も完成した」と、あたかも客観的な説明のようで、皮肉とも取れる形で書いている(日本文学報国会『文藝年鑑 2603年版』桃蹊書房、1943年。2603年版というのは「皇紀」を指している)。批判や評論がなくなった状況とは、まさに言論の破壊が完成したことを意味し、そこでは批判的立場の「同志」の結集は許されない。

 この数年前、日中戦争の開始直後には、戦争報道・記事を買い求める読者が増えることで、活字メディアは活況を示していた。同時に、会社組織を母体とする商業ジャーナリズムは、戦争に熱狂する大衆の意向に合わせると同時に、軍から情報をもらうためにも戦況報道の検閲を従順に守らざるを得ない。発売禁止処分は雑誌の売上がゼロになるので避けなければならないし、当局のおぼえが悪ければ、肝心の紙の配給を締め上げられてしまう。こうして法律に規定がなくても内々で規制当局の指導を受け、1940年ごろになると、編集への介入が日常的なものになった。その行きつく先が、清沢の言う言論界の統制の完成であった。

 と言いつつも、そこにはわずかな抜け穴が存在した。個人で出す雑誌の中に、権力への批判が書き込まれたものがあったのである。反骨のジャーナリスト、桐生悠々の出した『他山の石』、植民地政策学者で、反戦的な主張から東大の職を追われた矢内原忠雄の『嘉信』も有名であるが、ここでは正木ひろし『近きより』を紹介しておこう。

 正木は元ジャーナリストで、弁護士であった。『近きより』は、1937年4月から敗戦をまたいで1949年10月まで、全98巻が刊行された。同誌を復刻的に出版した際、「まえがき」で本人が説明を書いている。

 『近きより』誌は、その悲劇時代に、少数の同志と、数千の読者とによって支持された個人経営の小雑誌であった。少しでも政府、軍部の方針を批判することは、刑罰によっておどされていた状況下にあって、私は、この小雑誌の中で、日に日に衰亡して行った日本国民の生態を記録し、言論なき死の社会に対する批判と考察とを、いわゆる「奴隷の言葉」によって、合法線のぎりぎりで述べ、逆説で表現し、毎号数千部を発行、配布しつづけた。(正木ひろし『近きより 戦争政策へのたたかいの記録』弘文堂、1964年)

 1964年に復刻が出たのは、歴史学者の家永三郎の研究がきっかけとなっている。家永が1961年に論文を書き、それをベースに『権力悪とのたたかい 正木ひろしの思想活動』(弘文堂、1964年)を出版したことで、『近きより』が注目されることになった。家永は、もともと、清沢『暗黒日記』の中で『近きより』に言及されているのを読んで正木に同誌を読ませてもらったとのことである。

 清沢が言及した『近きより』の1943年2月号では、東条英機首相が議会でした答弁に対して「先ず第一に、論理的矛盾が多過ぎる。第二に敵の宣伝道具に使われる。第三に、国体観念が足りない。第四に、責任観念に乏しい。第五に、空想力が皆無だ」と批判を浴びせている(引用は1963年版より)。「奴隷の言葉」で「合法線のぎりぎり」と本人もふり返っているように、「敵の宣伝道具に使われる」とか、「国体観念が足りない」という形で、戦争への協力を打ち出すという論理を取っているが、戦時下の首相に対して容赦のない批判である。

 家永三郎も注目しているが、『暗黒日記』には、『近きより』を一つのきっかけに、清沢のほか芦田均(のち首相)、馬場恒吾(ジャーナリスト)、島中雄作(中央公論社長)などの自由主義者が正木を囲んで集まったことが書かれており(1933年7月8日)、家永は「かれらが、周辺の情勢如何では、戦争終結のための実践的活動を展開する可能性をはらんでいなかったと断言できるだろうか」と書いている。個人の言論が同志的つながりの種となったのである。

 こうした形で、雑誌の意義を理解する読者に支えられ、一部読者とのつながりを実際に形成した『近きより』ではあるが、あくまで個人雑誌であり続けた。それは家永の表現を用いれば「官憲側が、個人雑誌としての社会的影響力をみくびっていたことも、『近きより』がつぶされないですんだ有力な原因であったろう」(同前)。

 『青鞜』の経験は、類似の意見がほとんどないような言論空間において同志的つながりが緩衝材となるだけでなく、それ自体が一つのフォーラムとなる可能性を示している。今の私たちはまだ、個人で戦った正木ひろしのところまで追いつめられたわけではない。だからこそ、中井正一たちの時に間に合わなかった「引き返せない点」(point of no return)を越える前に、動かなければならないのだ。

 今日のような状況の中では、同志的つながりによって批判的言論をまとまりとして出す必要がある。他方、その言論を広げるためには当然、「同志」の外へとつながるネットワークを活性化させ、フォーラム的な性格を持つことも必要であろう。具体的には批判的言論を支える市民運動の開放性と世代間交流が必要であり、この両面が豊かになることが求められる。『地平』がそのための拠点となるよう、一市民として期待する。

註1…米田「『青鞜』とその時代」米田佐代子・池田恵美子編『『青鞜』を学ぶ人のために』(世界思想社、1999)
註2…矢内「青鞜における「共同」」『早稲田大学大学院文学研究科紀要.第1分冊』(2013)
註3…綿貫ゆり「反ファシズムの烽火:『世界文化』と『土曜日』」『千葉大学人文公共学研究論』(2019)

神子島 健

かごしま・たけし 1978年生まれ。東京工科大学教授。近代日本の歴史認識に関わる思想や文学を研究。著書に『戦場へ征く、戦場から還る』(新曜社)など。

2026年9月号(最新号)

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