現在日本の言説空間では、世界システムの覇権国家である米国を中心とした「リベラルな国際秩序」の正当性はほぼ自明視されている。この場合、日本の役割はといえば、覇権に陰りが見える米国を支え、ロシアや中国などの「権威主義」体制に対して「自由民主主義」体制の主要な守護者となること、ということになる。このようなナラティヴはTV・新聞などのマスメディアならびに国際政治学者、加えて近年急増している自称「地政学者」たちに広く共有されていると言えるだろう。
こうした解読格子からすれば、戦争権を放棄している日本国憲法などは大いなる「障害物」でしかない。実際、安倍政権による安保法制強行の際、憲法学者の99%が「違憲」としたのに対し、ある国際政治学者は「集団的自衛権に賛成の政治学者はいくらでもいる!」と啖呵を切った。また、沖縄の基地負担もグローバルな国際秩序の守護者たらんとする国家にとっては、「やむを得ない」犠牲と位置づけられる。連合と直結する野党党首の一人が、「いついかなる時に日本国民は血を流す覚悟ができるか」などと突拍子もないことを言い出す状況まで事態は進行している。
ところで、肝心の米国を中心とした「リベラルな国際秩序」なるものの正当性は、世界システムの中核国家群(G7)以外では、元来あまり信用されていない。なんといっても米国政府は、沖縄を戦略拠点とした1965―75年の地獄のベトナム侵略戦争をもグローバルな「自由民主主義」体制の擁護のためだったといまだ強弁しているのだ。また、WWⅡ後のマレーシア、フィリピン、インドネシア、タイ、ラオス、カンボジアなど東南アジア全域での血塗られた内戦も――数百万人規模の犠牲者を出した――米国政府によれば「リベラルな国際秩序」のため、ということになる。当事者たちとしては、超大国アメリカの空疎な咆哮は聞き流して、なにはともあれ、まずは「グローバル内戦」の再発だけは避けるという合意がベトナムも含めたASEAN(東南アジア諸国連合)ということになるだろう。