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2024年12月8日、シリアでバッシャール・アル=アサド政権が崩壊した。ハーフィズ・アル=アサドの時代から親子二代、53年に及んだ独裁政権が終わった。
シリア北西部イドリブ県だけを支配していた反政府勢力HTS(タハリール・アル=シャーム)が、11月30日にシリア北部の要衝アレッポを制圧して、ハマ、ホムスと南下、12月8日に首都ダマスカスを掌握した。その間わずか8日。私は1989年12月のルーマニア革命を思い出した。西部の街ティミショアラで民衆が蜂起してからわずか7日後に首都ブカレストに波及して、独裁者チャウシェスクが共産党中央委員会ビルの屋上からヘリコプターで逃亡し、その3日後に処刑された。私はその7日後にブカレストに行ったので生々しく覚えている。ルーマニアとシリアに共通しているのは、秘密警察や情報機関に怯えながら市民は生活していて反独裁者感情が強かったこと、最終的には軍が市民を攻撃するのを止めたことだ。
SNHR(シリア人権ネットワーク)によれば、2011年3月から24年6月までの間に、アサド政権によって殺害された市民は少なくとも20万1290人、24年8月の時点で、アサド政権によって不当に拘束され獄中に捕らえられているか行方不明の人は、少なくとも13万6614人だとしている。
最近、イスラエルがパレスチナ人の殺害対象をAIで設定していると批判されたが、アサドは殺害する人を住所で設定していた。反政府側の人が住んでいると認定した地域は、ヘリコプターから樽爆弾を落として全滅させるという手法をとり、膨大な数の人間が殺された。ピノチェト時代のチリは、左派の反体制派など約3万8000人を拘束、拷問し、処刑による死者や行方不明者は3200人以上に及んだとされるが、アサド政権崩壊後にサイドナヤ刑務所などの実態が明らかになり、拘束、拷問のすえ処刑された人が10万人を越えていることが確実になった。
私は1997年に一度だけだがレバノンから陸路でシリアに入って旅行したことがあるので、アラブの春に触発されて2011年3月に市民による抵抗運動が始まったときからずっと関心を持って見てきた。