【連載】Sounds of the World(第20回)ジミー・クリフ

石田昌隆(フォトグラファー)
2026/01/07
ジミー・クリフ(1984年7月28日)©️石田昌隆

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 ジミー・クリフは、一九四四年、ジャマイカのセント・キャサリンで生まれた。首都キングストンに出てきたのは六一年で、スカのリズムにのった〈Miss Jamaica〉がヒットしたのは六三年、かなり早熟だった。

 一九六七年から七〇年にかけて〈Hard Road To Travel〉〈Wonderful World, Beautiful People〉〈Vietnam〉〈Wild World〉をリリース。これらの曲は『The Best Of Jimmy Cliff』(七五年)に収録された。私が初めて聴いたのは七八年だったが、明るい曲調の〈Vietnam〉が反戦歌だったことに驚いた覚えがある。

 ジミー・クリフの世界的人気を決定づけたのは、主演した映画『The Harder They Come』(一九七二年。日本公開は七八年)だ。『The Best Of Jimmy Cliff』にも収録されていた曲〈You Can Get It If You Really Want〉〈Many Rivers To Cross〉〈The Harder They Come〉がサウンドトラックに使われたこの映画は、スティーヴ・バロウとピーター・ドルトンの『The Rough Guide To Reggae』(二〇〇一年)によれば「多くの白人にとって初めて垣間見るジャマイカであった」とのこと。

 イギリスには多くのジャマイカ系の黒人移民が暮らしていたが、彼らがどういう国から来たのか、キングストンはどんな街なのか報道されていなかったのだ。

 ドン・レッツのDVD『The Punk Rock Movie』(一九七八年)には、ザ・スリッツが、後ろの壁に映画『The Harder They Come』のポスターを貼っている部屋で練習している風景が出てくる。

 映画『The Harder They Come』は、レゲエという音楽がキングストンのゲットーで生まれたことを強烈に伝えていた。冒頭で、ジミー・クリフが演じるアイヴァンが田舎からバスでキングストンのダウンタウン、パレードまで来たところで、いきなり荷物を持ち去られてしまう。

 アイヴァンはトレンチタウンらしきゲットーで生活を始め、ついにチャンスを摑んで〈The Harder They Come〉のレコーディングを行なう。日本公開されてすぐに観たとき、そのシーンが鮮烈な印象として残ったことを思い出す。えた臭いが漂っていそうな薄暗いスタジオで、腕と腰を回すように振りながら歌う姿は限りなくカッコ良かった。

 ジャマイカには、一九五〇年代にメントというフォーク・ミュージックがあり、六〇年代になってスカ、ロックステディ、レゲエが生まれた。サウンド・システムという現場やダブという手法が出現して、それらは世界の音楽に大きな影響を与えた。六〇年代にイギリスでモッズやスキンヘッズがスカやレゲエを聴いていたという歴史はあるが、ジャマイカの民衆の生活から生まれた音楽として、背景まで含めてレゲエが伝わったのは、映画『The Harder They Come』におけるジミー・クリフと、『Live!』(七五年)を出した頃やっと広く知られるようになったボブ・マーリーによってだった。

 初めてジミー・クリフを見たのは一九七八年の初来日公演のとき。『In Concert – The Best Of Jimmy Cliff』(七六年)のジャケット写真と同じく胸に大きな星が付いたTシャツを着て歌っていた姿を思い出す。

 私は一九八二年にジャマイカに行き、そのとき撮影した写真がきっかけとなり職業カメラマンの道を歩みはじめ、現在に至っている。映画『The Harder They Come』はジャマイカへと向かうきっかけとなり、ダウンタウンのパレード界隈や、トレンチタウンを含むゲットーで同じような風景を見て撮影した。

 次にジミー・クリフを見たのは一九八四年七月二八日、南ロンドン、ブロムリーにあるクリスタル・パレス・ボウルで「フリー・ネルソン・マンデラ・ベネフィット・コンサート」が開催されたときだった。ライヴは『Give Thankx』(七八年)の収録曲〈Bongo Man〉で始まり、〈Many Rivers To Cross〉〈The Harder They Come〉で盛り上がった。キャッチーな曲を、しなやかに動きながら歌い上げる姿が美しい。

 ネルソン・マンデラは、当時まだ獄中に囚われの身だった。このコンサートには、〈Johannesburg〉(一九七五年)というネルソン・マンデラについて歌った曲があるギル・スコット・ヘロンや、南アフリカ共和国出身で一九六一年にアパルトヘイト下での弾圧から逃れてアメリカに亡命したヒュー・マセケラも出演した。ヒュー・マセケラはこの日のライヴの翌年、一九八五年に獄中のネルソン・マンデラから突然手紙が届けられ、それを元にして〈Bring Him Back Home(Nelson Mandela)〉を作った。それでもこの日、代表してステートメントを読み上げたのはジミー・クリフだった。

 ジミー・クリフは、一九八〇年五月一五日、南アフリカ共和国、ジョハネスバーグ郊外に位置するタウンシップ(黒人居住区)、ソウェトにあるオーランド・スタジアムでコンサートを行なった。観客は五万五〇〇〇人。それは南ア史上初めて白人と黒人がひとつの会場に集まるコンサートとなった。アパルトヘイトの時代のソウェトに白人の観客がたくさん来たことに驚く。このときの映像は、映画『Bongo Man』(一九八二年。二〇二四年にデジタル・リマスター版が公開された)に記録されている。レゲエはアフリカでも広く聴かれるようになったが、その意味でもジミー・クリフの功績は大きい。

 クリスタル・パレス・ボウルのバックステージは芝生になっていて、出演ミュージシャンごとに楽屋がわりのキャンピングトレーラーが置かれていた。そこでライヴを終えたジミー・クリフに会って話をすることができた。写真はそのときに撮影したものだ。

 ジミー・クリフはそのとき「発足したばかりのブルキナファソ(西アフリカの小国、旧オートヴォルタ)の革命政権、トーマス・サンカラに招待されて、明日アフリカに旅立つ」と言っていた。私はオートヴォルタという国の存在は知っていたが、ブルキナファソというのは初耳だった。トーマス・サンカラは一九八四年八月四日、首都ワガドゥグにできたばかりの八月四日スタジアム(Stade du 4 Août)で、国名を「ブルキナファソ」に変更し、新しい国旗を採用する公式な発表をする式典を開催した。それに先立つ八月一日に、八月四日スタジアムでジミー・クリフがライヴを行ない、四万人の観客が集まった。

 次にジミー・クリフに会ったのは一九九三年八月九日、渋谷オンエアの楽屋でバックドロップをセットして撮影した。九三年は、ジャマイカのボブスレー・チームを描いた映画『Cool Runnings』が公開され、そのテーマ曲、ジミー・クリフが歌う〈I Can See Clearly Now〉がヒットして、再び注目された年だった。

 私が最後にジミー・クリフを見たのは一九九九年一二月四日。ジャマイカの北海岸に位置するリゾート地、オチョリオスからほど近いオラカベッサ・ベイに特設された野外ステージで、ローリン・ヒル、エリカ・バドゥ、トレイシー・チャップマン、バスタ・ライムス、クイーン・ラティファ、トゥーツ・ヒバート、ジギー・マーリー、スティーヴン・マーリー、ダミアン・マーリーらがそれぞれボブ・マーリーの曲を歌う「ワン・ラヴ〜ザ・ボブ・マーリー・オール・スター・トリビュート」と題されたコンサートが開催されたとき。このときジミー・クリフは、クリッシー・ハインドと〈Jammin〉を歌い、エリカ・バドゥと〈No Woman No Cry〉を歌った。

 二〇二五年一一月二四日に、ジミー・クリフは亡くなった。享年八一歳だった。卓越したソングライターであり、澄んだ声としなやかな動きが唯一無二のライヴ・パフォーマンスを見せてくれたミュージシャンであった。さらに、一九六〇年代の段階でブラジルでライヴを行なったり、ボブ・マーリーよりも一年早い段階で来日公演を行なったり、アフリカでも人気を博したりと、レゲエを、その存在理由を含めて世界に伝える大きな功績を残した。ありがとう。ギヴ・サンクス(Give Thankx)。

石田昌隆

1958年生まれ。フォトグラファー。新刊『ストラグル Reggae meets Punk in the UK』が出ました。1982年にニューヨークでザ・クラッシュを撮影した写真に始まり、2023年にひとりでカメラ機材やテントや寝袋を持って飛行機に乗り、ロンドンと音楽フェスが行なわれたイースト・サセックス州を訪ねたときまで41年間の記録です。

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