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2001年12月27日の早朝にイラン東部の街マシュハドを出て、国境の村、タイバード(Taybad)までバスで移動。200キロの距離を4時間ほどかけて走る。そこから国境のドウクァラン(Dowqarun)までは10キロ、タクシーで460円ほどだった。そしてイランの出国、アフガニスタンの入国と手続きはスムーズに進み、あっけないほど簡単にアフガニスタンに入ることができた。
国境を越えると、アフガニスタン西部の街ヘラートまでは120キロ。タクシーがいて、50USドルでヘラートまで行くというので乗ることにした。車種は15年落ちぐらいのカローラのバン。アフガニスタンに入ると極度のデコボコ道になった。対向車が跳ね上げた小石が当たったのか、フロントガラスにヒビが入っていた。運転手はサリーフと名乗った。英語はほとんどできないようで会話らしい会話はなかったが誠実そうな人に見えた。
小さな村をいくつか通り過ぎ、タクシーが走り始めて3時間あまり経ったところで、マスラック国内避難民キャンプ(Maslakh internally displaced persons camp)の脇を通った。
そこは信じられないほど巨大な国内避難民キャンプだった。幅2キロ、長さ4キロの見渡すかぎりの場所に、日干し煉瓦を積んだ仮設の家が建ち並び、周辺部には、ここに辿り着いて間もない避難民が収容されていると思われる、UNICEF(国連児童基金)とかUNHCR(国連難民高等弁務官事務所)と書いてあるテントがたくさん建てられていて、食料の配給を待つ避難民の行列が見えた。
さらに10キロほど走り、だいぶ陽が傾いてきた頃、砂漠の蜃気楼のように大きな街が見えてきた。運転手のサリーフがひと言「ヘラート」と呟いた。街はずれに建つ遺跡のようなモスクの横を通り、中心部に入っていくと、そこはシルクロードの古い商都そのままといった風情で、人や馬車が賑やかに行き交っていた。
マシュハドからヘラートへの道は、1960年代末からソ連がアフガニスタンに軍事介入した1979年までの間、ロンドンやパリからインドやネパールまで陸路で旅するヒッピーのような人たちが〝マジック・バス〟に乗って走る定番のルートでもあった。
まずは露天の両替商で両替。50USドルが100万アフガニになった。最高額紙幣が1万アフガニなので札束である。ちなみに街でチャイを飲めばお菓子付きで2000アフガニほど。1万アフガニ札を出すとお釣りがないと言われることさえ多い。
そんななか、1泊40USドルもするヘラートでいちばん高級なホテルにチェックインした。夕食を食べにレストランへ降りて行くと、ジャーナリストらしき欧米人が10人ぐらいいた。最高に美味かった炊き込みご飯、パラウを食べて部屋に戻ると1時間ほどで停電になった。
翌朝、英語を喋るゴラマさんという運転手のタクシーをチャーターしてマスラック国内避難民キャンプに行った。ものすごい数の避難民がいた。パシュトゥーン人やタジク人より、ハザラ人など少数民族と思われる人の比率が高いようだ。ゴルバディンさんという男性は「こんな食べ物が1日に1回配給されるだけなんだ」と言ってポーリッジが入っている皿を見せてくれた。彼はバードギース州(Badghis Province)のボーカン(Bokan)という村から子どもを担いで15日かけて歩いてきたという。マスラック・キャンプで生活している人の大半は、干魃が酷かったバードギース州やゴール州(Ghor Province)から何日もかけて歩いてきた人たちが多いそうだ。
われわれが訪ねた直後にマスラック国内避難民キャンプを取材した英『The Guardian』誌は、2002年1月3日に「35万人以上の避難民アフガニスタン人がいて、毎日、そのうち100人が飢えと寒さで亡くなっていく」「ヘラート州での戦闘はほとんどなく、彼らは西側政府からの迅速な援助を期待していた。しかし援助は不十分で彼らは失望している」という記事を出していた。私は「子どもが3人亡くなった」という話を直接聞いたが、そこまで多くの死者がいるという記述に驚いた。爆弾や銃弾よりも、飢えと寒さが極度に酷い状態を作っていたのだ。干魃は戦争がなくても起こっていただろう。しかし戦争によって、物流が滞るとかさまざまな要因が絡み合い、飢えがもたらされたのかもしれない。
ヘラート州での戦闘はほとんどなかったというのは、私も出会った人からの話で知っていた。例外は、2001年11月上旬に米軍がヘラートの空港を空爆して戦闘機を破壊したことだと聞いたので見に行った。空港に駐機していたタリバンの戦闘機、かなり旧式のミグ17が7機と、アントノフの輸送機が1機、破壊されたまま放置されていた。
それからフランスのNGO、世界の医療団(Médecins du Monde)の診療所を訪ねた。「武器の持ち込み禁止」と、英語、ダリー語、パシュトー語で書いてあった。
ヘラートは、ソ連が軍事介入していた時代にムジャヒディンとして闘った軍閥、タジク人のイスマイル・ハーンが1992年に州知事に就任したが、96年にタリバンが支配するようになったときイランに亡命した。そして2001年11月12日に、亡命先のイランから帰国したイスマイル・ハーンがヘラートを奪還して再び州知事になった。ヘラートがタリバンから解放されたのは、首都カブールより1日早かった。
私はヘラートで、地雷で片足を失った人や、軍閥のひとつ、ヘクマティアル派の兵士に兄弟が殺されたという人にも会ったが、アフガニスタンでの戦争について現地で聞いた話で最も多かったのは「タリバンに髪の毛を切られた」というものだった。
チャイハナ(喫茶店)で、サモワールで沸かした湯で入れたチャイを飲んでいたとき、大学で言語を勉強しているというモハマッド・サディックさんに会った。彼は流暢な英語を話し、アフガニスタン情勢に詳しい。バザールで買ったアフガニスタンの地図を一緒に見ながら、避難民がやってきた中部山岳地帯にあったゴール州の州都、チャグチャラン(Chaghcharan)の位置を確かめたり、いろいろ教えてもらった。ところが「9・11」についての見解も聞こうとしたら、驚いたことに、彼はニューヨークの高層ビルにハイジャックされた旅客機が突入して倒壊したことを知らなかった。世界中の人が見たと思っていたあのときの映像を見たことがないという。タリバンがアフガニスタンを制圧した1996年にテレビは禁止され、見ることができなくなっていたのだ。
ヘラートで会った人は温厚な人が多く、反米感情や反タリバン感情を直接感じることはなかったが、タリバンが去ったことにより、隠し持っていたテレビを見られるようになったり、ラジカセで音楽を聴けるようになったことを多くの人が喜んでいた。テレビ放送はまだなかったが、街の食堂でテレビにVCDプレーヤーを繋いでインド映画を流していた。VCDはDVDが普及する前に存在したスカスカな規格の動画メディアだが、男たちは動いている女優の姿を食い入るように見ていた。路上には音楽カセットを売る屋台が何軒も出ていた。
金曜モスク(Masjid i Jami mosque)周辺のバザールに、土産物屋が並んでいる通りがあった。そのうちの一軒に入ってみると、名物のヘラート・グラスという青いガラス製品やラピスラズリ細工に混じって、アフガニスタンの民俗楽器、ルバーブ(Rubab)が売られていた。これはタリバン時代には隠しておいたもので、見つかってしまったいくつかの楽器は壊されたそうだ。そのルバーブを店のおじさんが演奏してくれた。
それから20年経ち、アフガニスタンは2021年に再び全土をタリバンが支配するようになり、イスマイル・ハーンは再びイランに亡命した。テレビは内容の規制を強化しつつも放映されているが、音楽は不道徳だとして楽器を燃やしたニュースが伝わってきた。










