【連載】Sounds of the World(第18回)イランのマシュハドで民俗楽器ゲイチャクを演奏する男性

石田昌隆(フォトグラファー)
2025/11/06
イランのマシュハドで民俗楽器ゲイチャクを 演奏する男性(2001年12月26日)

これまでの記事はこちら


 成田からアエロフロート機に乗り、モスクワを経由して2001年12月23日の未明3時過ぎに、イランのテヘランに到着した。そんな時間なのに、われわれ(私と妻)以外の乗客は、誰かが迎えに来たり、タクシーに乗ったりして、みんなどこかへ行ってしまった。朝になるまで空港のベンチに座って待ち、とりあえず200USドルをイラン・リアルに両替してテヘランの街に向かった。イマーム・ホメイニー広場の近くで1泊1800円ほどの安ホテルを見つけて泊まることにした。ランチはテヘラン駅のなかのレストランで食べた。ジュース、ケバブ、スープ、チキンライス、チャイ。ふたり分で400円弱だった。

 1979年1月、イランを統治していた皇帝、モハンマド・レザー・シャー・パフラヴィー(日本では「パーレビ国王」と呼ばれていた)が、皇帝専用のボーイング727を自ら操縦してイランを脱出。同年2月、ルーホッラー・ホメイニーが亡命先のフランスから帰国して、同年4月1日にイラン・イスラム共和国の樹立を宣言。最高指導者の職に就き、イラン革命(イスラム革命)が成就した。

 ホメイニーは1989年に死去し、イラン最高指導者の職はアリー・ハーメネイーが継承した。われわれがイランに行った2001年12月は、最高指導者が現在もなおその地位にいるハーメネイー、大統領は改革派と言われていたモハンマド・ハータミーという時代だった。

 街を歩いている女性は、ほとんど黒いチャードルを纏っていた。それはイラン革命以前とはがらりと変わった風景だ。強硬派だった大統領、マフムード・アフマディーネジャードの時代(2005年から13年)、ヒジャブの着け方を理由に道徳警察に拘束された3日後に死亡した女性、マフサ・アミニの事件(22年)が起こったりと、締めつけは厳しくなってきたが、実際には黒いチャードルを纏っている女性は減りつつあるので現在とも違う風景だ。

 テヘランの市バスに乗ると、前半分が男性専用、後ろ半分が女性専用になっていた。われわれは境界に設けられていた柵に近いところに乗って、降りるバス停を間違ってはぐれないように注意していた。

 かつてアメリカ大使館だった場所に行ってみた。1979年11月4日から81年1月20日まで444日間、イスラム革命防衛隊が率いるイスラム法学校の学生らがテヘランのアメリカ大使館を占拠した事件、イランアメリカ大使館人質事件の現場である。外の壁を見ただけだが、いかにもプロパガンダっぽい絵が描かれていた。この事件の最中にアメリカとイランは国交を断絶した。

 良い雰囲気の床屋があったので写真を撮らせてもらった。すると、アハマドさんという理容師が「日本人ですか。私、日本で働いていた。これ日本で買ったんですよ」と言って雑誌を見せてくれた。『ヘアマガジン MEN’S』1992年秋冬号だった。1980年代末から92年まで、日本にたくさんイラン人が来ていた時代があり、毎週末、代々木公園に大勢のイラン人が集まっていた。イラン人はヴィザの問題で潮が引くようにいなくなったが、アハマドさんは幸い、日本に良い印象を抱いているようだった。では、ということで、私も髪の毛を切ってもらった。

 イラン音楽は二種類に分けられる。イランのイラン人による音楽と、1979年のイラン革命以後、アメリカなどに亡命したイラン人による音楽だ。

 イランのCDやカセットを売る店にある音楽は、すべて前者、イラン国内のミュージシャンによるもので、ポップ、ソンナティ(Sonati 伝統音楽)、地方ごとに特色がある民謡などだった。一方ハータミーの改革路線で欧米の音楽も一部、国営放送で流されるようになったが、後者、グーグーシュ(Googoosh)など、亡命イラン人による音楽はまったく売られていなかった(地下での流通や海賊盤での流通はあったのかもしれない)。

 グーグーシュは、1970年代にイランで大スター歌手だった。79年のイラン革命の後は活動休止を余儀なくされていたが、ハータミー大統領が歌手の渡航禁止令を解除したことにより2000年にやっと出国することができて、アメリカに亡命。欧米のイラン人ディアスポラ向けに音楽活動を再開させた。01年3月、ノウルーズ(イラン歴の元旦)のとき、UAE(アラブ首長国連邦)のドバイでコンサートを行なった。そのときの様子をBBCが01年3月22日に「Iranian diva ‘comes home’」と伝えている。このコンサートには延べ2万人の観客が集まった。そのうち7割がイランから飛行機に乗って駆けつけた人々だったという。イラン人にとって、グーグーシュのコンサートは22年ぶりで伝説的な存在になっていた。

 グーグーシュは、アメリカのグリーンカードを取得して亡命生活を続けているが、国籍はイランのままだ。そのため第一次トランプ政権が2017年10月に、イラン、リビア、ソマリア、スーダン、シリア、イエメンからの入国禁止令を出したとき、ロンドンに滞在していたグーグーシュは、米国の裁判官が数日後に禁止を阻止するまで飛行機に搭乗することができずにアリゾナ州フェニックスでのコンサートがキャンセルされたということもあった。グーグーシュの祖国への思いは強いと伝えられているが、2000年に出国して以来、一度も帰国できないでいる。グーグーシュは現在も健在。見てみたいなあ(撮りたいなあ)と長年思っているが、未だ叶っていない。

 イラン東部に位置するテヘランに次ぐ大きな街、891キロ離れたマシュハド(Mashhad)へと夜行バスで向かった。所要時間は13時間30分。道は良いし綺麗なバスで快適だった。チケットはひとり700円ほど。

 マシュハドは、シーア派イスラム教徒の聖地、イマーム・レザー廟があり、ハーメネイーの出身地でもある。

 2001年9月11日、アメリカ同時多発テロが発生。10月7日、ジョージ・W・ブッシュ大統領は、同時多発テロを決行したアルカイダと同組織をかくまうアフガニスタンのタリバン政権を打倒するために空爆を開始した。その結果タリバンは敗走して、11月13日、北部同盟軍が首都カーブルを制圧。12月22日に、タリバンと敵対していた北部同盟の主要四派のひとつを率いるハーミド・カルザイがアメリカの後ろ盾を得てアフガニスタン暫定行政機構の議長に就任。その直後というタイミングだった。

 にもかかわらず、マシュハドのアフガニスタン領事館にアフガニスタンの観光ヴィザを申請しに行ったら、あっさりと即日交付してもらえた。

 ヴィザには「Tourist Visa」と書いてある。それから「Consulat General The Islamic State Of Afghanistan In Mashhad」と書いてある。「Islamic State Of Afghanistan」は、日本語では「アフガニスタン・イスラム国」である。

 アフガニスタンの国名と国旗は何度も変わっている。ソ連が侵攻していた1987年からソ連撤退後の92年まで続いたムハンマド・ナジーブッラー政権の時代は「アフガニスタン共和国(Republic of Afghanistan)」だった。ムジャヒディン(聖戦士)らの抵抗でナジーブッラー政権が崩壊して、マスード(Ahmed Shah Massoud)らタジク人を中心とするイスラム協会(Jamaat-e-Islami)のブルハーヌッディーン・ラッバーニーが大統領に選出されたときから「アフガニスタン・イスラム国」になった。1996年から2001年までアフガニスタンを制圧していたタリバンは「アフガニスタン・イスラム首長国(Islamic Emirate of Afghanistan)」と名乗っていた。しかしその間も、北部同盟としてタリバンと敵対していた軍閥たちは「アフガニスタン・イスラム国」と自称していた。

 マシュハドのアフガニスタン領事館には、アメリカ同時多発テロの直前、2001年9月9日に暗殺されてしまったマスードの肖像が掲げられていて「Islamic State Of Afghanistan」と書いてあるヴィザを誇らしげに発給してくれた。そして「ようこそアフガニスタンへ。何の問題もありません」と言ってくれた。

石田昌隆

1958年生まれ。フォトグラファー。新刊『ストラグル Reggae meets Punk in the UK』が出ました。1982年にニューヨークでザ・クラッシュを撮影した写真に始まり、2023年にひとりでカメラ機材やテントや寝袋を持って飛行機に乗り、ロンドンと音楽フェスが行なわれたイースト・サセックス州を訪ねたときまで41年間の記録です。

2026年8月号(最新号)

Magazine cover with a white koi fish swimming left against a blue-purple background and large pink vertical Japanese title text on the right side.

Don't Miss