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1995年1月17日の早朝、阪神・淡路大震災が発生した。私はその日、街のあちこちから火の手が上がっている空撮映像や、横倒しになった高速道路の映像を、東京の自宅のテレビで見つづけていた。当時はSNSなどなかったので、ひとりでドキドキしていた感覚を思い出す。家々の倒壊や火事で6434人もの人が犠牲になった。
震災から24日めの、95年2月10日、ソウル・フラワー・ユニオンのメンバーたちは、伊丹英子の発案で、被災地出前ライヴを行なうために初めて神戸を訪れた。
ソウル・フラワー・ユニオンは、中川敬らによって85年に結成されたニューエスト・モデルと、伊丹英子らによって八四年に結成されたメスカリン・ドライヴが合体して93年に結成されたロック・バンドだ。彼らは、サイケデリックでグラマラスな風貌でありながら、アイヌや沖縄といった周縁のマージナルな領域の文化と音楽を取り入れた独自の音楽を奏でるようになった。
中川敬は、沖縄音楽に興味を持つようになって三線を弾くようになり、〈カチューシャの唄〉を練習で演奏した。レコードが普及しはじめた大正3年(1914年)に松井須磨子の歌唱で流行したこの曲は、明治時代に自由民権運動の活動家(壮士)たちが街頭で歌った演説歌、壮士演歌の流れを汲んでいる。ロック・バンドでありつつ、日本、沖縄、アイヌ、朝鮮の民謡、壮士演歌、労働歌、革命歌、はやり唄などに興味を持つようになっていった。そんなタイミングで、阪神・淡路大震災に遭遇した。当時メンバーは全員、京都から大阪に至るエリアに住んでいた。
2月10日に訪れたのは、約1200人が避難生活をしている神戸市立青陽東養護学校。現場に行ったら緊張した。教室ごとに雰囲気が異なり、明るく和やかな感じの部屋もあれば張りつめた感じの部屋もある。廊下に布団を敷いて生活している人もいた。校門のすぐ前で消火栓が破裂して水が噴き出していて、みんな水を汲みに来ていた。本番前にまずそこで演奏した。中川が人前で三線を弾くのはそのときが初めてだった。「逢いたさ見たさに怖さを忘れ〜」で始まる〈籠の鳥〉を唄った。すると酔っ払ったおっちゃんが近づいて来て、演奏中の中川の腕を掴んで「兄ちゃん、楽団てエエな。楽団てエエな」と言った。
いよいよ本番。階段の踊り場で演奏した。電気を使えないのでマイク・スタンドにメガホンをくくりつけていた。お年寄りから子どもまで予想以上にたくさんの人が聴きに来た。「おれら下手クソなんやけど、民謡やるから、みんなでエエ時間作りましょー」と笑いながらやった。はじめは怪訝そうに見ていた人も、昔のはやり唄などに合わせて唄ったり、手拍子をしたり、踊り出すおばちゃんもいた。〈籠の鳥〉〈安里屋ユンタ〉〈花〉〈ゴンドラの唄〉〈カチューシャの唄〉〈てぃんさぐの花〉〈アリラン〉など、1時間半ほど演奏した。被災者には、在日コリアンや沖縄出身者も多い。前日に作った歌詞のプリント“唄遊び詩集”を手分けして配布したこともあり、一緒に歌ってくれる人が多く涙ぐむ人もいた。「少し気分が晴れた」「ありがとう」などわざわざ言いに来てくれる人、ビールを差し入れしてくれたおっちゃんもいた。ここに来る間も来てからも「唄どころじゃない」と怒る人もいるのではと危惧していたが、そういう人はいなかった。柄の悪いおばちゃんが近づいてきて「兄ちゃん歌うまいなあ。私は震災で夫と子どもを亡くしたし、家も燃えてしまったけど、みんなもそうだからこの1カ月ボランティアばかりやってきた。だから泣く暇もなかった。あんたらの歌でやっと泣けた。ありがとうな」と言った。それでニヤーっと笑って、中川は背中を叩かれた。そのとき中川は「訳判らんけど、この感じを続けようと思った」という。
2度めの被災地入りは2月12日、長田区の二葉小学校と、新湊川公園で演奏した。
3回めは2月14日、神戸市長田区の南駒栄公園で演奏した。在日コリアンや、ボートピープルとしてやってきたベトナム人などもいた。この日は震災の日以来となる満月で、大きな余震が来るのではと恐れている人がいた。
その翌日、2月15日に、中川敬は、ヒートウェイヴの山口洋と共同で主旋律のメロディだけ作っていた曲の残りのメロディをひとりで作り、前日に南駒栄公園で観た光景を元にした歌詞を一気に書き上げて新曲を完成させた。それが名曲〈満月の夕〉だった。音楽は、ミュージシャン個人の内面から出てきたものより、ミュージシャンを媒介して、ひとかたならない現実の断片が吹き出してくるもののほうがズシンと伝わってくる。この曲には、被災地の光景と人々の気持ちが凝縮されていると思う。
被災地での演奏はその後も頻繁に行なわれ、ソウル・フラワー・モノノケ・サミットと名乗るようになった。
私は残念ながら1995年の時点で〈満月の夕〉を聴いていない。初めて生で聴いたのは97年8月24日、六本木ラフォーレ・ミュージアムで、アイルランドのミュージシャン、シャロン・シャノンを含むドーナル・ラニー・バンドのライヴが行なわれて、そこにソウル・フラワーの中川敬と伊丹英子、ソウル・フラワーの準メンバーのような存在でもある大熊ワタルがゲスト参加して演奏したときで、私は深く感動した。その後〈満月の夕〉を生で聴く機会は何度もあった。とりわけ印象深いのは、2000年8月12日、横浜市中区にある寄せ場、寿町で行なわれたフリー・コンサート。それから東日本大震災の2カ月後、11年5月17日、石巻のライヴハウス、ラ・ストラーダ、翌18日、避難所となっていた石巻市立湊小学校の講堂と、女川総合体育館の前、19日、南三陸の志津川高校柔道場で行なわれた出前ライヴで〈満月の夕〉を聴いたときだ。
そして阪神・淡路大震災から30年となる2025年1月17日、ソウル・フラワー・モノノケ・サミットが神戸、新長田駅南側ピフレ前で演奏するというので駆けつけた。
阪神・淡路大震災で大きな被害があった場所だが、すっかり再開発されている。まずはケミカルシューズの街といわれていた地区にあるシューズプラザのヒールモニュメント、震災復興と地域活性化のシンボルとして作られた巨大な鉄人28号を観て、長田名物のそばめしを食べた。
ソウル・フラワー・モノノケ・サミットは、中川敬(唄、三線)、伊丹英子(お囃子、三板、チャンゴ)、奥野真哉(アコーディオン)、河村博司(ベース)、髙木太郎(太鼓)、この1995年当時のメンバーに、大熊ワタル(クラリネット)、林道代(ちんどん太鼓)、中里かおり(アコーディオン)が加わっている。演奏したのは〈美しき天然〉〈聞け!万国の労働者〉〈カチューシャの唄〉〈アリラン(ゲストでパク・ウォンと趙恵美が参加)〉〈満月の夕〉〈安里屋ユンタ〉〈復興節〉〈さよなら港〉。
わずか1時間の演奏だが、音楽とはこういうものなのだと確信できる素晴らしい現場だった。すべて名曲だと、むしろ今のほうがしみじみと判る。そしてまたしても〈満月の夕〉に感動した。曲が終わった直後に観客から「もう1回やってくれ」と声がかかった。私はこの場所に来るのは初めてだったが、95年2月10日に演奏中の中川敬の腕を掴んで「兄ちゃん、楽団てエエな。楽団てエエな」と言った酔っ払いのおっちゃんの気持ちが判った気がした。
私が生まれたのは昭和33年(1958年)なので戦後13年めに当たる。戦後30年のときは17歳だった。当時親の世代の人たちは戦時中のこと、3月10日の大空襲のことなどを昨日のことのように話していて不思議だった。しかし今は30年前がつい最近に思える。
中川敬は、具体的な日時と場所を織り交ぜて30年前の話をしながら唄っていった。音楽の向こうに歴史が横たわっていることが伝わってくる。阪神・淡路大震災が発生したのは30年前で、〈満月の夕〉が作られたのも30年前。〈復興節〉は大正12年(1923年)、関東大震災の直後に作られた102年前の曲だが、歴史はひと繋がりであると、歳をとってくるごとに実感するようになった。〈満月の夕〉は末永く唄われていくだろう。






