【連載】Sounds of the World(第9回)ソウル・フラワー・モノノケ・サミット

石田昌隆(フォトグラファー)
2025/02/05
ソウル・フラワー・モノノケ・サミット(2025年1月17日)©️石田昌隆

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 1995年1月17日の早朝、阪神・淡路大震災が発生した。私はその日、街のあちこちから火の手が上がっている空撮映像や、横倒しになった高速道路の映像を、東京の自宅のテレビで見つづけていた。当時はSNSなどなかったので、ひとりでドキドキしていた感覚を思い出す。家々の倒壊や火事で6434人もの人が犠牲になった。

 震災から24日めの、95年2月10日、ソウル・フラワー・ユニオンのメンバーたちは、伊丹英子の発案で、被災地出前ライヴを行なうために初めて神戸を訪れた。

 ソウル・フラワー・ユニオンは、中川敬らによって85年に結成されたニューエスト・モデルと、伊丹英子らによって八四年に結成されたメスカリン・ドライヴが合体して93年に結成されたロック・バンドだ。彼らは、サイケデリックでグラマラスな風貌でありながら、アイヌや沖縄といった周縁のマージナルな領域の文化と音楽を取り入れた独自の音楽を奏でるようになった。

 中川敬は、沖縄音楽に興味を持つようになって三線を弾くようになり、〈カチューシャの唄〉を練習で演奏した。レコードが普及しはじめた大正3年(1914年)に松井須磨子の歌唱で流行したこの曲は、明治時代に自由民権運動の活動家(壮士)たちが街頭で歌った演説歌、壮士演歌の流れを汲んでいる。ロック・バンドでありつつ、日本、沖縄、アイヌ、朝鮮の民謡、壮士演歌、労働歌、革命歌、はやり唄などに興味を持つようになっていった。そんなタイミングで、阪神・淡路大震災に遭遇した。当時メンバーは全員、京都から大阪に至るエリアに住んでいた。

 2月10日に訪れたのは、約1200人が避難生活をしている神戸市立青陽東養護学校。現場に行ったら緊張した。教室ごとに雰囲気が異なり、明るく和やかな感じの部屋もあれば張りつめた感じの部屋もある。廊下に布団を敷いて生活している人もいた。校門のすぐ前で消火栓が破裂して水が噴き出していて、みんな水を汲みに来ていた。本番前にまずそこで演奏した。中川が人前で三線を弾くのはそのときが初めてだった。「逢いたさ見たさに怖さを忘れ〜」で始まる〈籠の鳥〉を唄った。すると酔っ払ったおっちゃんが近づいて来て、演奏中の中川の腕を掴んで「兄ちゃん、楽団てエエな。楽団てエエな」と言った。

 いよいよ本番。階段の踊り場で演奏した。電気を使えないのでマイク・スタンドにメガホンをくくりつけていた。お年寄りから子どもまで予想以上にたくさんの人が聴きに来た。「おれら下手クソなんやけど、民謡やるから、みんなでエエ時間作りましょー」と笑いながらやった。はじめは怪訝そうに見ていた人も、昔のはやり唄などに合わせて唄ったり、手拍子をしたり、踊り出すおばちゃんもいた。〈籠の鳥〉〈安里屋ユンタ〉〈花〉〈ゴンドラの唄〉〈カチューシャの唄〉〈てぃんさぐの花〉〈アリラン〉など、1時間半ほど演奏した。被災者には、在日コリアンや沖縄出身者も多い。前日に作った歌詞のプリント“唄遊び詩集”を手分けして配布したこともあり、一緒に歌ってくれる人が多く涙ぐむ人もいた。「少し気分が晴れた」「ありがとう」などわざわざ言いに来てくれる人、ビールを差し入れしてくれたおっちゃんもいた。ここに来る間も来てからも「唄どころじゃない」と怒る人もいるのではと危惧していたが、そういう人はいなかった。柄の悪いおばちゃんが近づいてきて「兄ちゃん歌うまいなあ。私は震災で夫と子どもを亡くしたし、家も燃えてしまったけど、みんなもそうだからこの1カ月ボランティアばかりやってきた。だから泣く暇もなかった。あんたらの歌でやっと泣けた。ありがとうな」と言った。それでニヤーっと笑って、中川は背中を叩かれた。そのとき中川は「訳判らんけど、この感じを続けようと思った」という。

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石田昌隆

1958年生まれ。フォトグラファー。新刊『ストラグル Reggae meets Punk in the UK』が出ました。1982年にニューヨークでザ・クラッシュを撮影した写真に始まり、2023年にひとりでカメラ機材やテントや寝袋を持って飛行機に乗り、ロンドンと音楽フェスが行なわれたイースト・サセックス州を訪ねたときまで41年間の記録です。

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