稲葉 剛(いなば・つよし)
一九六九年、広島生まれ。東京大学教養学部卒。在学中から平和運動・外国人労働者支援に関わり、九四年より路上生活者支援に従事。二〇〇一年に「もやい」を設立、二〇一四年まで理事長。一般社団法人つくろい東京ファンド代表理事、ビッグイシュー基金共同代表、立教大学大学院客員教授。『貧困パンデミック』(明石書店)、『閉ざされた扉をこじ開ける』(朝日新書)ほか著書多数。
新宿ダンボール村撤去
(聞き手:本誌編集長 熊谷伸一郎)——近年の日本の社会運動を考える際、反貧困運動を除いて考えることはできません。長く反貧困運動に携わってこられた稲葉さんに、まずは個人史的に、社会運動に関わり始めたきっかけからうかがいたいと思います。
稲葉 剛(以下、稲葉) 少し長い話になるのですが、私自身は広島の出身で、母が入市被爆しているので、被爆二世ということになります。そのせいもあって幼い頃から戦争や平和の問題に関心が高い子どもとして育ちました。
一九八八年に上京して大学に入ってからはいろいろな社会運動に参加するようになりましたが、本格的に関わるようになったのは一九九一年の湾岸戦争がきっかけです。
あの時、日本政府は「戦費を拠出」するとして一三〇億ドルもの大金を税金から支出しました。税金が戦争に使われるということは、私たち自身がアメリカの戦争に加担するということになる。それに対して異議申し立てをしようと、大学の一年先輩である川崎哲さんやいろいろな大学の学生とともに平和運動のグループを作り、デモを企画するなどしました。
私の学生時代というのはバブル経済の真っただなかで、日本は世界第二位の経済大国と言われていた頃です。そのうちアメリカも抜くんじゃないか、とかね。そういう非常に楽観的な雰囲気の中で学生時代を過ごしていましたから、当時は、私自身も貧困というのは発展途上国の課題だというイメージを持っていました。それが一九九一年の年末にバブル経済が崩壊し、九三年ごろからは都心部でも路上生活をされる方が目立って増えていきました。
とはいっても、それ以前の高度経済成長のころから、特に東京の山谷や横浜の寿町、大阪の釜ヶ崎など「寄せ場」と言われる地域には日雇い労働者の方がたくさん働きながら暮らしていたんですね。年末年始や長期休みの時期になると一時的に仕事がなくなり、野宿を余儀なくされてしまう。こういうことは長年つづいてきたわけですが、九〇年代になって、寄せ場以外の繁華街でも野宿者が目立つようになりました。
一九九一年は、東京都庁が丸の内から移転し、今の都庁舎ができた年です。西新宿を副都心として再開発しようとした矢先に、そのお膝元である新宿駅から都庁舎に向かう地下通路に、仕事を失った日雇い労働者たちがダンボールハウスを作り始めた。「ダンボール村」と呼ばれましたが、東京都はやっきになって、彼らを排除しようという動きが起こりました。私は当時まだ学生でしたが、一九九四年の二月に最初の大がかりな強制排除が行なわれたことを記事で見ました。それで、いったい何が起こっているのか、当事者の話を聞こうと思い、友人たちと一緒にダンボール村に行ったんです。そして当事者の方たちと一緒に強制排除に反対する運動を始めて、炊き出しや夜回りなどをするようになりました。「仲間の命を仲間の力で守る」と私たちは言っていましたが、これが私が貧困問題に関わるようになった最初のきっかけです。
「貧困は存在しない」の風潮の中で
当時はまだ、「日本国内には貧困は存在しない」という考え方が一般的だった時代です。私たちもホームレス問題について「貧困」という言葉はあまり使ってはいませんでした。その言葉を使っても、人々の実感としてあまり通用しなかったんですね。例えば、ホームレス問題について調べてみようと図書館などに行くと、関連書籍が「社会病理」の棚に分類されているような状況でした。
そんななかで東京都は、野宿者たちが地下通路に作ったダンボール村を強制撤去し、フェンスを建てて戻れないようにしてしまった。それで追い出された人たちが地上で野宿する状態に追い込まれたわけです。ダンボール村が地下に作られていたのは雨風をしのぐためです。冬の寒い時期でしたから、野宿しているうちに凍死される方も出る事態になりました。
路上には食事も満足にとれず、結核などの深刻な病気を抱えている方もたくさんいましたが、その背景には福祉行政が機能していないという問題がありました。
あの当時、特に九〇年代から二〇〇〇年代の初めにかけては、ほとんどの自治体で生活困窮者を窓口で追い返す「水際作戦」が横行していました。本来、生活保護というのは生活に困窮していれば誰でも利用できるはずのものです。年齢や住まいのあるなしに関係なく、住まいがなければ今いる場所で申請ができる。制度上はそうなのですが、たとえば、大都市部の自治体ではホームレス状態の人に「六五歳以上にならないとダメ」と言って、申請を認めなかったり、一部の地方都市では住まいのない人に「住まいを作ってから来てください」と言って、一律に排除したりする等、違法な運用が常態化していました。
生活保護行政が本来の機能を果たさない中、大都市部を中心に路上で命を落とす人があとを絶ちませんでした。
九〇年代後半には、新宿区内だけで年間四〇人から五〇人が路上で亡くなっていましたが、大阪も同様の状況で、年間二〇〇人ぐらいの方が市内の路上で亡くなっていたと聞いています。
貧困状態に陥った人たちがいったんホームレス状態になると、そこから抜け出す手段がない。当時、私は野宿者の置かれている状況を住所や住民票がないために求職活動が困難になる「労働市場からの排除」、住まいがないことで差別され、福祉や医療などの制度が利用できない「公的福祉からの排除」、行き場のない人が路上や公園で相互扶助的なコミュニティを形成しようとしても、「不法占拠」とのレッテルを貼られ、そこからも排除されてしまう「都市空間からの排除」という三つの領域における排除として捉え、この三つの排除への抵抗を軸とした社会運動を当事者とともに作っていきました。
社会運動を志す
——稲葉さんは、大学を出られる際、たとえば官僚への道など、政策を決定していくという道筋も考えられたと思うのですが、なぜ社会運動という道筋を選ばれたのですか。
稲葉 あまり深く考えていたわけではないのですが……。大学時代、当時、東大の駒場キャンパスに法律勉強会という司法試験を目指す学生を中心とした勉強会があって、私も入っていました。だいたい法学部の学生が多いのですが、一、二年間はいきなり法律の条文を学ぶのではなく、さまざまな社会問題を学ぼうということで、現場に行って話を聴くという活動をしていたんです。クレサラ問題に取り組んでいた弁護士の宇都宮健児さんのところに行ったり、在日コリアンの人の話を聴いたりしました。一九八〇年代末の大学の雰囲気は、学生運動もかなり縮小して、名残はあったものの社会的な問題に関心を持ったり、実際に社会活動に関わったりする学生はすでに少数派でした。一緒に勉強会で活動していた学生たちは、弁護士やジャーナリストを目指す人が多かった。でも、当時の私は「みんなが弁護士やジャーナリストになったら、いったい誰が社会運動をするんだろう」という疑問を抱いてしまっていました。弁護士やジャーナリストになっても活動はできるはずなのですが、妙なこだわりを持っていたのですね。
新宿のホームレス支援の活動を始めた時、集まってくれたのは若いボランティアの人たちです。私は学習塾の講師をしながら新宿の支援活動に関わっていたのですが、ボランティア仲間に、将来、自分はこの活動で生計を立てていきたいということを話したら、そんなのできるわけない、と言われたことを覚えています(笑)。どうやって生計を立てていくのか、ということはまだ暗中模索でしたが、社会運動を軸に生きていきたいという思いだけは持っていました。
——社会運動に可能性を見いだし、社会運動で自分はやっていくんだという思いだった……。
稲葉 そうですね。自分の人生の生き方として。当時は、まあモラトリアムですが、大学院に行って、そこから研究者として大学に籍を置きつつ活動をしていくということも少しは考えていたんです。でも、当時、一緒に活動していた見津毅さんという活動家が、一九九五年三月にバイク事故で亡くなりました。事故が起こったのは、彼が私たちを引っ張る形で新宿のダンボール村コミュニティに入り、住民たちとの信頼関係を築いて、排除に抵抗する運動を作り始めた最中でした。
当時、私自身はいろんな社会運動に関わりながらも、どれもちょっと中途半端で、軸となるものがないというような感覚も持っていたんです。そんな時に彼が急逝してしまって、なんというか、私にお鉢が回ってきたというか、お前はこれをやれ、と言われたような感覚がありました。それで、もうこの活動を中心にやっていこうと。
野宿者運動の転機
その後、一九九五年の秋になると、東京都は、「動く歩道」を作るという名目で、二回目の本格的な強制排除をおこなう計画を立てます。それに対し、私たちは排除しても別の場所に移るだけで何の問題解決にもならないということを訴えつづけてきました。
一九九六年、東京都は、多数のガードマンを動員して、ダンボール村を強制的に撤去しました。私たちも座り込みなどをして反対運動をしたわけですが、この時の強制排除はメディアでも大きく批判的に報道されて、新聞の一面にも出ました。このことで、当時「庶民派」と言われて人気があった青島幸男都知事の支持率は急落。二期目の出馬断念につながりました。
一方で、あの時座り込みをした支援者たちは警官隊とガードマンに排除され、リーダー格のメンバーはすべて逮捕されました。そのうち二人は「威力業務妨害」で起訴されて、九カ月も勾留されました。彼らはのちに東京地裁で無罪になり、高裁で逆転敗訴をして執行猶予付きの有罪判決になったのですが、東京地裁の無罪判決の頃から、東京都の排除一辺倒の姿勢が変化し始めました。
東京都はそれまで、ダンボールハウスは路上に放置されている「廃材」だと主張し、だから東京都の道路管理権にもとづいて路上の廃材を撤去できると主張してきました。しかし東京地裁は一九九七年三月、ダンボールハウスといえども個人の私有物であるから、撤去のためには行政代執行など法的手続きに則る必要があり、東京都の行為には手続き上の瑕疵があると批判しました。威力業務妨害は成立しないという判決を下したんです。
行政による撤去行為が司法によって批判されたことの意義は大きかった。それ以降、東京都の政策が徐々に軟化し始めて、それまでは「不法占拠者」とは一切話し合う余地はないと言っていたのが、大規模な形での路上生活者排除は強行しにくくなったことで、私たち支援団体とも話し合うようになってきました。
そんななかで一九九八年二月、新宿ダンボール村で火事が起きます。五〇軒以上のダンボールハウスが燃え、四人の方が亡くなるという惨事でした。あの時、東京都は私たちとの話し合いによって、住民の希望者全員が入所できる施設を用意しました。行政としても、野宿から抜け出すための支援策を進める方向に転換していったのです。
九〇年代半ばから二〇〇〇年代の初めにかけては、東京だけでなく、大阪や名古屋、川崎、横浜など全国の大都市部を中心に野宿者支援の活動が大きく広がりました。
東京では二〇〇〇年に、全国で初めてホームレスの人たちの就労を支援する自立支援センターができました。すると、もともと私たちと一緒に活動していた元野宿者の方々から、施設に入って仕事が見つかりお金も貯まったが、アパートを借りるための連帯保証人がいなくて入居できないといった相談が来るようになりました。では、自分たち支援者が連帯保証人を引き受けようということで、渋谷で野宿者支援に関わっていた湯浅誠さんとともに二〇〇一年に任意団体「自立生活サポーセンター・もやい」(現在は認定NPO法人)を設立しました。
保証人の問題というのは、住宅確保をめぐる日本独特のシステムの中で、さまざまな支援現場で直面する共通の課題なんです。たとえば、DVを受けてシェルターに入居していた女性がアパートに移ろうと思っても、それまでの人間関係のなかでは保証人を頼めないとか、9・11のあとにアフガニスタンから避難してきた難民の方がシェルターを出る時に保証人が誰もいないとか。ですから私たちは、その共通の課題をクリアするために、活動分野を越えた横のネットワークを組むということを最初から意識して活動を進めてきました。そこでできたつながりは、その後の反貧困運動につながっていきます。
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「反貧困」というスローガン
——二〇〇〇年代に小泉政権になると、「格差」という言葉が出てきて、経済大国の夢からさめて、格差と貧困という現実への認識が広がってきましたね。
稲葉 二〇〇〇年代の初めに全国の野宿者数はピークを迎えますが、その後は各地で生活保護申請支援の活動が広がった結果、野宿者数は減少に転じます。
「水際作戦」が苛烈におこなわれていた時代は、路上で貧困ゆえに人間が命を落としていく状況があり、それをどう突破していくかが大きな課題でした。それが二〇〇〇年代になると、弁護士や司法書士など法律家の方々が支援活動に協力してくれるようになり、二〇〇六年には日弁連が貧困問題に関する決議を出して、これまで弁護士が生活困窮者やホームレス問題に関わってこなかったことへの反省のもと、今後は支援に全力を尽くすとの決意を表明しました。これはとても大きかった。法律家の方々が生活保護申請に同行してくれるようになり、各団体の支援者も法律家の方からノウハウを教わりました。こうした連携により、違法な「水際作戦」を突破し、「公的福祉からの排除」に対抗できる力を運動団体が持てるようになったわけです。
実際、全国の生活保護利用者は一九九五年に約八八万人まで減っていましたが、二〇一一年には半世紀ぶりに二〇〇万人を超えるまで急増します。
中高年が中心だった野宿者の多くが生活保護を活用して、路上生活から抜け出せるようになった一方で、小泉政権下で非正規雇用を拡大させる政策が進められた結果、民間の相談支援の現場には若年の非正規労働者の相談が増えていきます。
若年層の貧困問題は二〇〇六年頃から「ワーキングプア」問題としてマスメディアでも取り上げられるようになりますが、まさにその時期、竹中平蔵さんが新聞のインタビューで「社会的に解決しないといけない問題としての貧困は存在しない」という発言をおこないました。
竹中発言は、若年層にまで拡大しつつある国内の貧困の現状をどう社会に伝えていくか、という課題に直面していた私たちに冷水を浴びせるものでした。この発言に最も憤りを表明していた一人が、当時、「もやい」事務局長を務めていた湯浅誠さんです。彼はこの頃から「反貧困」を旗印にした新たな社会運動の構想を様々な社会運動関係者に語るようになり、二〇〇七年には「もうガマンできない!広がる貧困——人間らしい暮らしを求めてつながろう」をスローガンに反貧困ネットワークが結成されました。反貧困運動はまず、日本国内に貧困があるということを社会の共通認識にして、貧困問題を政治的なイシューとして押し上げるということを目標にしていました。
立ち消えになった政府主導の貧困対策
——二〇〇八年にリーマンショックが起き、その年の年末に反貧困運動の画期となった年越し派遣村につながっていきました。貧困の可視化という点では大きなインパクトを持って社会に受け止められたと思います。
稲葉 年越し派遣村の活動に私は直接的には参加はしてないのですが、派遣村のニュースが大晦日、紅白歌合戦の間のニュースで流れたこともあり、竹中平蔵さんが言ったような「日本に貧困はない」なんて、もう誰も言うことのできない社会状況になりました。日本に貧困が広がっているんだということが、誰の目にも明らかになったんです。
二〇〇九年には民主党への政権交代が起こり、自民党政権下では政策の優先順位が低かった貧困対策が厚生労働行政におけるメインの課題として取り上げられるようになりました。
鳩山政権で厚生労働大臣に就任した長妻昭さんが立ち上げた「ナショナルミニマム研究会」には研究者や反貧困運動に取り組む活動家も委員として名を連ね、社会全体の底上げをどう進めていくかという課題が国政の場で初めてオープンな形で議論されました。しかし、翌年に長妻さんが大臣を退任すると、研究会は無期限休止状態に陥りました。厚労省が毎年発行している「厚生労働白書」でも、二〇一〇年度版までは「ナショナルミニマムの構築」という項目が設けられていましたが、二〇一一年度版からはこの項目が丸ごと削除されてしまいました。
貧困対策の根幹は再分配政策にあるべきですが、この頃から「ナショナルミニマム」という再分配に関わるワードが行政文書から消えていきます。
そして二〇一一年の3・11後には「絆」ということが叫ばれるようになりました。私はこの風潮を「絆原理主義」だと当時批判していたのですが、社会的問題はすべて絆を強化することで解決できるかのような幻想が振りまかれるようになっていきました。後に菅義偉総理が謳った「自助、共助、公助」も同じですね。民主党政権時代、菅直人政権では「社会的包摂」ということを打ち出しましたが、安倍政権になると「一億総活躍」になり、菅政権では「孤独・孤立対策」という言葉に替わっていきました。政権のスローガンが替わるたび、公的責任において貧困を解消するとの理念はどんどん後景化させられ、家族や地域での「絆」や「支え合い」で問題が解消できるという原理主義的な主張が強まっていると感じています。
自公政権に戻ってからも、二〇一三年に生活困窮者自立支援法と子どもの貧困対策法が制定される等、貧困対策に関わる法整備は進みましたが、同時期にバーターのような形で生活保護費の削減も進められたため、全体として貧困当事者への経済給付は縮小しています。
生活保護バッシング
——いま日本は物価高騰と賃金の停滞、貧困・格差も深刻な状況にあります。反貧困運動のさらなる広がりが求められているのではないかと思うのですが、運動の広がりという点ではいかがでしょうか。
稲葉 反貧困運動の成果として、生活に困窮した際には誰でも生活保護を権利として利用できるという認識は以前に比べるとかなり広がったと感じています。行政窓口での対応も、未だに「水際作戦」をおこなうところもある等、地域差がありますが、野宿者のほとんどが排除されていた一九九〇年代に比べると、かなり改善してきています。私たちが当初、大きな壁として捉えていた「公的福祉からの排除」は窓口のレベルでは押し返すことができるようになりました。
しかし、生活困窮者を制度に近づけさせないための「排除」は今も別な形で続いています。また、制度を利用している人たちの権利を実質的に剥奪していく「制度内の排除」というべき状況も深刻化しています。前者は、生活保護バッシングで、後者は生活保護基準引き下げに象徴される社会保障削減政策です。
二〇一一年、全国の生活保護利用者が二〇〇万人を突破した頃から、マスメディアでは生活保護世帯の増加を問題視する論調が目立ってきました。制度につながることができず、野宿のまま亡くなっていった人たちを多数見てきた私たちからすれば、生活保護を利用できる人が増えたことは喜ばしいことだったのですが、一部のメディアは国の財政難とからめて危機を煽り、野党に転落した自民党は民主党政権を攻撃する材料として、生活保護利用者の増加を政治問題化し始めたのです。
一方、反貧困運動を牽引してきた湯浅誠さんは民主党政権の時代に内閣府参与となり、生活困窮者への寄り添い型の相談支援などを制度化していきましたが、中央官庁の官僚とともに政策を立案し、執行していくプロセスを共有した経験から、従来の要求/抵抗型の社会運動の限界を感じ、次第に反貧困運動とは距離を置くようになっていきました。
こうした状況の変化に危機感を抱いた私は、二〇一一年以降、全国の法律家や研究者、NPO関係者、生活保護の利用当事者とともに、生活保護制度の本来の意義を伝える社会的キャンペーンや、基準の引き下げや制度改悪に反対する社会運動に力を入れ始めました。
しかし、二〇一二年には芸能人の親族が生活保護を受給していたという報道に端を発した生活保護バッシングが吹き荒れました。バッシングを主導したのは、自民党の片山さつき議員や世耕弘成議員です。片山氏は「生活保護を受けることを恥と思わなくなったことが問題」と主張。当時は高市早苗議員も「さもしい顔をしてもらえるものはもらおうとか、弱者のふりをして少しでも得をしようとか、そんな国民ばかりになったら日本国は滅びてしまいます」と発言する等、右派の政治家が競うようにバッシングを煽りました。
「生活保護費一割カット」を政権公約に掲げた自民党は、二〇一二年一二月の衆議院選挙で大勝。第二次安倍政権は発足直後の二〇一三年一月に過去最大の生活保護基準引き下げを強行決定しました。
この時の削減で、生活保護費のうち食費などの生活費にあたる「生活扶助」の基準額が三年の間に平均6・5%、最大10%、総額は六七〇億円も削減されました。
その結果、食事の回数を減らしたり、冠婚葬祭にもまったく行けなくなって人々と交流の機会が奪われたりした人たちがたくさん出ました。社会的な生活を諦めなくてはならない状況というのは、制度利用者にとって社会的排除が強まったということを意味しています。
かつては「水際作戦」によって窓口で追い返されていた多くの生活困窮者が反貧困運動によって本来利用できる制度を利用できるようになった。自民党は生活保護利用者が急増したことを問題視していましたが、利用者が増えたということは、生存権を守る制度が機能し始めたということです。それを今度は、政治家が差別を煽ることで制度の利用をためらわせ、制度に近づけさせないようにする。さらに政治主導で全体の保護費を圧縮することで、「制度内の排除」をも強化する。生活保護バッシングから生活保護基準引き下げへの動きは反貧困運動へのバックラッシュとして捉えることができます。
この過去最大の基準引き下げに対しては、全国で一〇〇〇人を超える利用者が原告として立ち上がり、国に対して減額決定の取り消しなどを求めた訴訟(「いのちのとりで裁判」)を起こしてもう一〇年以上たたかってきています(編集部注:本誌二〇二五年九月号特集参照)。
昨年六月、「いのちのとりで裁判」の愛知と大阪の訴訟について、最高裁が引き下げを違法と判断し、減額決定を取り消す画期的な原告勝訴判決を言い渡しました。これは日本の社会保障の歴史上初めてのことです。過去にドイツで、公的扶助の給付水準が低すぎることに対する違法判決が出されたことがあるようですが、過去に遡って当時の基準が違法だから減額決定を取り消したというのは、おそらく世界の長い福祉権運動の歴史をみても初めてだと思います。
ただその後、国は減額された差額の全額ではなく、二〇一三年に遡って再計算し一部しか補償しないという対応策を出してきたので、それに対する闘いがまだ続いています(編集部注:本号の小久保哲郎氏の報告参照)。
政府の世論誘導
稲葉 政治が世論を誘導するということが、特に二〇一〇年代以降、顕著になっています。二〇一二年の生活保護バッシングの時に先頭に立った片山さつき氏は、一九八〇年代、レーガン政権時代のアメリカの福祉バッシングを参考にしたのだと思います。当時、アメリカでは、子どもがたくさんいる黒人の女性が、政府の社会福祉制度を悪用して多額の福祉給付金を受け取っているといういわゆる「ウェルフェア・クイーン」と呼ばれたイメージがニュースやバラエティ番組で再三取り上げられ、それが母子への手当削減の流れにつながりました。片山さんは「正直者が馬鹿を見る」というような言い方もしていましたが、その言説の原型もアメリカでの福祉バッシングにあったんだろうと思います。
一部の人たちがまるで社会の秩序や平穏を脅かしているというレッテル貼りをし、社会にパニックを起こしていく——これはモラルパニックの扇動とも言われますが——ということが、人為的に行なわれたわけです。それと同じ世論誘導は、昨年の参議院選挙でも外国人を対象に行なわれました。こうして政治家に扇動された人たちが、貧困層やマイノリティを叩く側に回ってしまう。これはやはり、運動の広がりを阻害する大きな壁になっていると思います。「いのちのとりで裁判」でも、原告の方から、「バッシングが怖い」という声は多く聞こえてきました。
——メディアの変化についてはいかがでしょうか。若い世代ではメディア接触の中心がSNSになっています。
稲葉 マスメディアについては、あまりに差別的なバッシングを煽るような記事については逐一抗議をしています。記事自体が削除されるということもあり、大手メディアに対してはこうした抗議がある程度有効だと思っています。でも、SNS上での個人の発言や発信元がよくわからない情報については有効な手が打てませんね。去年の参議院選挙では、参政党を中心に外国人の待遇についてのデマが大量に流され、それに対するファクトチェックに私たちも協力していますが、なかなか追いつかない。ただ、対抗的な動きがなければ、今よりもっと大変な事態になってしまうことは間違いないと思います。
——自己責任論などのイデオロギーへの批判も継続的におこなってこられたと思いますが、やはり社会的な連帯意識は日本社会では希薄な感じがします。
稲葉 社会的な連帯意識については、何か突発的な、大きな危機が起きた時に一時的に強まるということはあると思うんです。たとえば年越し派遣村の活動に対する共感や支持が一気に広まったり、コロナ禍の経済的影響で貧困が拡大した時期に生活困窮者支援活動への寄付が広がったりということがありますね。ただ、なかなか持続しない。
コロナ禍のときには、仕事と住まいを失う人が増えたにもかかわらず、生活保護を利用しにくい要因の一つとして、経済的援助の可否を家族に確認する扶養照会という手続きを変えてほしいというキャンペーンをおこなったところ、六万人近い人がネット署名に賛同してくれました。その後、ある程度本人の意思が尊重されるように運用が一部改善されました。あの時期は、社会全体で危機感を共有し、連帯感をもって弱い立場にある人たちを支えていこうという機運があったと思います。こうした反貧困運動が社会を実際に変えてきた積み重ねはきちんと評価する必要はあると思っています。
社会運動のあり方
——社会運動を広げていく上で若い世代の担い手の問題があると思います。
稲葉 なかなか難しい問題ですね。今は、NPOの数そのものは増えていて、活動の領域自体も広がってはいますよね。社会的課題に関心のある若者が自分たちで新しいNPOを立ち上げていく流れも確かに存在しています。
けれども、そうした動きと社会運動が必ずしもうまく接続できてないと感じています。ソーシャルワークは、社会福祉の教科書では、ミクロレベル、メゾレベル、マクロレベル——個別の支援、地域での連携、制度政策への働きかけ——に分類されますが、私は、このマクロレベルのソーシャルアクションが重要だと思います。しかし、日本の社会福祉に関わる人たちの間では、どうしてもソーシャルアクションが弱い。そうすると、いろんな分野で対人援助をするNPOは増えても、政策提言をしたり制度が改悪されることへの反対運動をしたりといったところまで活動が広がっていかない。従来の要求型、抵抗型の社会運動に見切りをつけてしまって、行政に盾突くことはしない、という現象はあらゆる分野で起こっていると思います。
私は、貧困問題は社会的排除の問題だととらえています。そして反貧困運動は、どんな時も社会によって排除・周縁化された人たちの側に立って、ともに声を上げていくことを基本とすべきだと考えます。どんなに制度化が進んでも、その外側には必ず排除される人たちが出てきます。また、生活保護基準の引き下げのように、社会保障の削減政策により制度を利用しながらも社会的排除にさらされる人たちも増えています。こうした重層的な排除の構造を把握した上で、制度の構築や改善を求めつつ、それが一部実現したとしても自分たちもその内側に入って沈黙してしまうのではなく、外側から内側に向けて声をあげつづける。そのことが今後、一層求められていると考えます。
——本日はありがとうございました。








