【書評連載】後ずさりして前をみる(第5回)星間の逃亡者たち

酒井隆史(大阪公立大学教授)
2025/12/05

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 今回紹介したい本は、先日文庫化されて復活をみた、野田努『完全版 ブラック・マシン・ミュージック――ディスコ、ハウス、デトロイト・テクノ』(河出文庫、2025年)である。オリジナルの公刊が2001年というから、ほとんど四半世紀も前である。それがいま、文庫というかたちで入手しやすいかたちで届けられた。ちなみに、ここでは2017年に再刊されたさいのあとがきと本書で重要な役を演じるDJデリック・メイの2024年のインタビュー、そして文庫版に寄せられた長めのあとがきが追加されていて、それぞれ意義深いテキストである。

 本書が公刊されたとき、たぶん日本で黒人文化、とりわけ黒人音楽(いまだほとんどイコールアメリカ合衆国の黒人文化だった)に関心を寄せている人間に、しかも本書が「保守的黒人音楽愛好家」とされるような受容スタイルに甘んじている人間たちには多かれ少なかれ衝撃を与えたとおもう。そこに広がるのは、みたことも考えたこともない米国黒人音楽史だったからだ。この本は、当時まだ30代だった音楽ライター(編集者)の実地での体験をベースに、批評、歴史記述を織り込みながら、ほとんどの黒人音楽愛好家には未知であった同時代のブラック・ミュージック、いやもう一つのUS黒人社会、さらにいえばもう一つのアメリカ、もっといえばもう一つの世界、「アンダーグラウンド」と一括できるだろう、荒廃した世界に湧きだした豊穣な世界に一筋の、だが強烈な光をあてた、傑作だ。

 わたしは公刊直後に、書評も書いているはずだが、それから長いブランクを経てあらためて読んで、よくあることではあるが、当時よりはるかに細部がみえ、はるかにふくみの重大さが伝わってきたと思う(それに、ジレンマではあるが、いまでは記述にあらわれる多くの楽曲をウェブで聴くことができるのだ!)。要するに、はるかに心を揺さぶられたのだ。かつてはたぶん(いまよりもずっと)なにもわかっていなかったにちがいない。だから大事な本は、人生のいくどかの節目に読み直されなければならないのだ。結論を先取り的にいえば、本書は、今後のわたしの人生において、迷ったときには、北極星のようなガイドの役割をはたすだろう。25年前よりもそうだ。

 そんな核心にズバリいく前に、それなりの音楽愛好家にも縁遠いのだから、本誌の読者の多くにはもっと縁遠い世界であるはずだ。そこで対象とされている世界について、少し説明を試みておこう。

 本書が当時からあたらしかったのは、なによりもその時代認識だった。つまり、この本は、ディスコからはじまるのだ。これは当時、異例だった。というのも、1970年代中盤よりポップミュージックの一角を占めはじめたディスコは、「古き良き」ブラック・ミュージックの墓場であるというのが、おそらく黒人音楽愛好家の多くの認識だったとおもわれるからだ。ディスコの直結していた前身がファンクだが、ラフにいえばソウルの一種であり、そのリズムにおける革新(ポリリズムの強化と洗練)は、公民権運動以降のブラック・パワーの高揚と絡み合っていた。この観点からすれば、なおさらである。ディスコは、あまりに享楽的で、かつ市場拡大のため、ポリリズムの強化、すなわちソウルの最大の美徳を放棄するものにみえた。実際、ファンクの創造に中核的役割をはたしていたジェームズ・ブラウンは、そのようにディスコを非難している。しかし、本書はまず、ダンスフロアを磁場としながら、セクシュアルマイノリティの共同性を基盤とし、かつサウンド体系の革新――ミュージシャンではなくDJとサウンドシステムを中心とする――をもたらしたムーヴメントとして、ディスコを捉えなおしてみせる。そうすると、ディスコはその後の音楽史への発端として再設定される。つまり、ディスコを発端としてダンスフロアを焦点として構築されるコミュニティとの立体的文脈のなかで、音楽史がつむぎなおされるのだ。こうして、筆者は「忘れられた黒人文化」としてのハウスやテクノの世界に、その誕生の場面へと潜行していく。

 ヒップホップにもいえることであるが、このような鮮やかな転覆を理解するには、音楽の発信と享受にまつわるイメージの転換が必要だ。たとえば、ヒップホップといえば、おそらく読者の方々は音楽とイメージされるのではないか。つまりラップであり、もう少し詳しい方はDJを想起されるだろう。しかし、そうなったのは、音楽がもっともパッケージ化になじみ、商業化しやすかったという、その結果にすぎない。ヒップホップとは、1970年代のアメリカ大都市(ニューヨークのブロンクス)の、物理的荒廃と精神的絶望を原風景とする、本書も舞台とする時代的文脈から、都市そのものを素材としてあらわれた、トータルな現象だった。だからヒップホップは、当初、グラフィティ(落書き)とブレイクダンスを密接不可分の要素としていたのだ。

 「黒人文化」としてこうした音楽が捉えがたかったのは、一つには「ダンスフロア」が苦手なわたしたちの知的構えが一因だろう。もう一つの素朴な次元での要因は、それらのテクノロジーとの密着がわたしたちの「黒人音楽」のイメージとかけ離れているからだろう。しかもデトロイトといえば、(70年代に早々にLAに移転したとはいえ)今も昔もモータウンである。テクノといえば、白人か東洋人(YMO)のものである。ただし、いっぽうで、愛好家は黒人たちがテクノロジーを拒絶するどころか、奇妙な愛着を示してきたことも知っていた(本書でも引き合いにだされる、スライ&ファミリーストーンのように、電子音がファンクネスを「呪術的」に強化させることは感じられてきた)。

 わたしたちが知らなかったのは、「シカゴ」ハウスや「デトロイト」テクノといわれてジャンル化された音楽が、ヒップホップとブロンクスとおなじようなコミュニティをトータルな舞台とした現象であるということ、そしてそれがやはり1960年代に黒人たちを駆動した希望の暴力的な鎮圧と初期ネオリベラリズムの猛攻によって「生存競争」に突き落とされ、楽器を学ぶ機会すら喪失し、孤立しながらも、身の回りの安価なモノを掟破りに活用した若者たちによる創造だったことだ(ドラムマシンやシークエンサーが相対的に安価になっていた)。

 本書の白眉は、1990年代をかけて、デトロイトを数回訪ね、取材を重ねて書かれた部分――上巻の終わりから下巻のすべて――にある。シカゴでもデトロイトでも、音楽の発展は、口コミと地域ラジオなどを通して、おそるべきDJプレイや未知の世界を教えてくれるラジオDJの選曲、ゲットーの日常ではえがたい見知らぬ者どうしの親密な連帯感覚に遭遇した人たちが、ときに世代を超えて結合し合うなかから生まれている。筆者はシーンを構成するこうした微細なつながりを、そのきずながいったいなにから構成されているのか具体的に追尾してみせる。この人々は、ときにメジャーと交渉しながらも、資本の強いる順応性や権威主義的ヒエラルキーを拒絶するスタンスを崩さず、その音楽がはらむ未定形の可能性を保持し、育てつづけてきた。そして、それがデトロイトでUR(アンダーグラウンド・レジスタンス)という集団に結実する。

 くり返すが、デトロイトといえば、普通モータウンである。しかし、かれらにインスピレーションを供給しつづけたのは、そのきら星のようなスターたちではなく、異形の芸能集団P-Funkとその「総帥」ジョージ・クリントンであり、かれらのあみだした壮大なコズミックオペラの世界である。支配者の策謀と奴隷たちの解放゠逃亡のナラティヴを宇宙の次元で、すなわちSF的想像力で展開してみせたのは、アメリカの黒人文化においてはP-Funkだけではない。一つの確固たる伝統なのである(いずれこの連載でもふれていきたい)。デトロイト・テクノは、この伝統を継承し(典型的にはURの1998年のアルバムInterstellar Fugitives[星間の逃亡者たち])機械的(脱人間的)次元をフェティシュ化することなく、それを「ブラック化」より正確には「脱植民地化」し、未来と土着の二つの領域を自由に交錯させてみせるのだ(いわゆる「アフロ・フューチャリズム」)。

 先ほどいいかけたことにここで戻りたい。この本は、これからじぶんが迷ったときに、北極星のようなガイドになるといったが、それは本書に散りばめられたアンダーグラウンドの創造者たちの言葉が、きみたちはそうしなくても、そういわなくても、そんな表現をしなくてもすむはずだ、といってくれるからだ。そして、それが可能であること、そのやり方を、身をもって示してくれているからだ。この本が感動的なのは、遭遇した出来事やサウンド、そしてアーティストたちの言葉に随所に筆者が心を動かされ、ときに打ちのめされていることがありありと伝わるからである(筆者はときに無防備にその感情を吐露する)。そしてそのおなじ衝撃が、しばしばわたしたちにも押し寄せるのである。

 本書は「音楽」というジャンルに収まる本ではない。だから、音楽に関心がある人だけが読むべき本ではない。本書でもいわれるが、アメリカの黒人の多くにとって、音楽は選択できる趣味の一つではない。自己を確認したり、困難を克服したり、歓びをわかちあったり、要するに共に生きることそのものに深く根をおろしている。だから、音楽は必然的に「別の」領域にあふれていく(本当はだれにとってもそうなのだが、「封じ込め」が成功したようにみえる社会――日本のような――もあるということだ)。したがって、本書は1980年代から現代にいたるまでの、この地獄のような世界のただなかに、そうではないもう一つの世界、自由と愉しみと、あえていえば愛によってつながりあう世界(アンダーグラウンド)をその創造性を限界まで発揮してつくろうとした人々を対象とした本であり、「オルタナティヴ」(なにしろ、なにもないところからこれをつくるのに、かれらほど創造性を発揮する人たちはそうそういない)に関心のある人、すべてに手に取ってほしいのである。

酒井 隆史

さかい・たかし 大阪公立大学教授。専攻は社会思想史。1965年生まれ。著書に『賢人と奴隷とバカ』(亜紀書房)、『負債と信用の人類学 : 人間経済の現在』(共著、以文社)、『四つの未来 :〈ポスト資本主義〉を展望するための四類型』Frase Peter、以文社)、『通天閣――新・日本資本主義発達史』(青土社)、など多数。

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