【関連】イスラエルによる違法封鎖を超え、ガザに物資を届ける国際船団/参加メンバー・安村美香子さんインタビュー(2025/10/2)
8月末より、世界45カ国以上、460名を超える市民が船団を組み、支援物資を届けるためにガザを目指した。このグローバル・スムード船団(GSF)に唯一の日本人として参加した安村美香子さん(オランダ在住)は、公海上でイスラエル軍に拘束された。オンラインで話を聞いた。(聞き手編集部)
ドローン攻撃
――船団として航行を開始し、ガザに近づいていった際の心境をあらためてお聞かせください。
安村 出航は8月31日でした。チュニジアでは船団の2隻がドローンの爆撃を受け、修理が必要になったことで滞在が長引き、みんなの中に焦りも出てきましたが、その後は比較的順調に進めました。ガザに近づくにつれて、(エジプトの)アレクサンドリア沖、200海里(約370km)のあたりで、ここまで来たら絶対にたどりつきたいという思いがありました。
――9月終わり、「レッドゾーン」(編集部注:前回、ガザを目指した船が拿捕された海域。公海なので拿捕は国際法に反する)に近づいてきたところで、イスラエル軍からの威嚇があったようですね。
安村 ギリシャに着く少し前でしたね。夜、ドローンが飛んできているから注意しようという情報が他の船から来て。私たちの船でも交代で見張りをしていました。ドローンが確認できて、目で追っていたら、メテケ(安村さんたちが乗る船)には当たらなかったんですけど、他の船にスタングラネード(閃光手榴弾)が落ちて爆発して、ボーンという爆発音が聞こえました。暗闇ではあるのですが、ドローンがたくさん飛んでいるのが見えました。
船団は固まりになって、ナビゲーションライトでお互いを確認しあいながら航海しているので、状況は掴みやすかったです。
――情報共有の仕組みがあったということですか。
安村 はい、ありました。海ではもちろんですが、陸上チームとも常に連絡しあっていますし、みんなでオンラインでミーティングをしていました。

イタリアとスペインの軍艦が来る
――メテケは、時々グローバル・スムード船団(GSF)の先頭を航行することもありましたよね(GSFはウェブサイトで、各船の居場所を確認できるトラッカーを公開していた)。それぞれの船の役割や、攻撃があった際の役割分担などもあったのでしょうか。
安村 母船は決まっていて、それがリードします。あとはフォーメーションですね。地上の運営委員が決めた一応のポジションがあって、それを維持するようにしていました。特に後半、チュニジアを出てからは、バディっていうんですけど、2隻ずつチームを組んで、お互いの面倒を見合う。メテケも、そのバディの船と近くにいるようにフォーメーションを組んでいました。ドローン攻撃などがあった場合を想定して、事前訓練は各船でやっていました。
クレタ島で1泊したのですが、その時ぐらいから、イタリアやスペインの軍艦が来て守ってくれるという話が出てきて。その頃は世界的にもGSFが安全に航海できるように各国政府から声が上がってきていたので、もうドローンの攻撃はないんじゃないかと推測する人もいました。もし今ここで攻撃したら、イスラエルへの批判がさらに高まることになると。
イスラエル軍に拿捕される
――拿捕された時の状況はどのようなものでしたか。
安村 気づくと、船の灯りにGSFが取り囲まれていることに気づきました。イスラエル軍の船でした。まずは母船が拿捕されました。そのあとは先頭側にいた船から順番に捕まっていきました。覚えているのは、とても大きい軍艦が1隻だけあって、おそらくそれがプリズン船で、捕まえた人を乗せる船だったと思います。
メテケは最初、放水銃を積んだイスラエル船が近づいてきて、「エンジンを止めろ」と言われました。止めるわけにはいかないので、キャプテンはニュートラルに入れたのですが、それでも「エンジンを止めろ」と。
それで、放水が始まりました。しばらく水をかけられたんですけど、その後、別の船のほうに向かっていったので、その間に前に進もうということで、また進んでいって。そうしたら、また違う放水船にサーチライトで照らされて、「見つかった!」みたいな感じで、また「エンジンを止めろ」と叫ばれ、水をかけられて。そうしているうちに、その船もまたいなくなったので、前に進むというのを何回か繰り返していました。見られていない隙に、なるべく前に進むという感じです。最終的には、前のほうに何も船が見えなくなったので、もっと先に行けるかなと思った時、後ろからサーチライトで照らされて、それが拿捕船でした。後ろから2隻ぐらいで来て、「ああ、もうだめか」みたいな形でした。船が横付けされて、銃を持った重装備の兵士が乗り込んできました。この間、だいたい5時間から6時間ぐらいです。
――拿捕される際に、決めていた対処法はあったのですか。
安村 はい。兵士が乗り込んできた際に、船のどの位置に座るかは事前に決めていました。それから、携帯ですが、友人や家族の個人情報がイスラエルの手に渡らないようにするために海に投げ捨てることにしていました。そして実際に、みんなで海に投げ捨てました。
兵士が来たときですが、特に怖いという気持ちはありませんでした。事前に写真などでも確認していたので、「ああ、来たな」という感じです。
――船ごと引っ張っていったんでしょうか。
安村 そうです。まず兵士がデッキの上に乗り込んできて、1人ずつ船首のほうに行けと言われました。そしてボディチェックを受けた人から順番に座れと言われて、全員が済んだところで、みんな船の中に入るよう言われました。
兵士は、キャプテンに操縦の仕方を少し聞いたあと、そのまま操縦して、私たちを船ごとイスラエルのアッシュドド(ガザから北に約20 km)に運んでいきました。
私たちはそうした拿捕の形でしたけど、どういう対応を受けたのかは、船によって全然違ったみたいです。他の船では、みんな外に座らされて、直射日光が当たる中、ずっと炎天下に置かれて、すごい日焼けをして大変だったとか、後ろ手に縛られた人もいたみたいです。船室の入り口は寝袋で目隠しをされました。ただトイレにも行けたし、船室でみんなで料理をして、晩ご飯を食べたり、コーヒーを入れたり、寝室で寝ることもできました。わりと丁寧な扱いを受けたほうだと思います。拿捕されたところからアシュドドまで100km、だいたい11、12時間ぐらいでした。
――他の船の人たちと会話を交わすことはできましたか?
安村 イスラエルに着いてから、収容施設の中で他の船の人たちと話しました。どんな形で拿捕された? とか。アッシュドドの港についたとき、6月の船団で使われたマデリン号やハンタラ号が見えました。まだ港にあったんです。
薬も取り上げられる
――到着してからのイスラエル軍の扱いはどうでしたか?
安村 陸上に上がった時は、女性はそんなにひどい扱いは受けなかったんですけど、男性は片腕を背中側に固められ前屈みにさせられて連行されていきました。それで肩を脱臼した人もいました。
取調べの前は、日中、日の当たっているところで、頭を上げるなという感じで何時間も座らされて。その後、1人ずつ建物の中に連れていかれて下着で身体検査をされて、所持品もチェックされました。パレスチナに関連するものはもちろん、食べ物や衛生用品も全て捨てられました。私は血圧の薬を毎日飲まないといけないんですが、その薬も捨てられてしまいました。後日、医師や守衛に、血圧の薬は必要なんだ、と伝えつづけて、じゃあ処方するといわれて、薬をもらえたのは2日ぐらい経ってからでした。
取り調べが終わってから、バスで、アッシュドドから50 km程離れたケツィオットにあるテロリスト用の刑務所に連れていかれました。ガザの近くです。ただ、その場所は地図では確認しにくくなっているそうです。そこで刑務所の服に着替えさせられ、服も靴も何もかも取り上げられて、しばらく屋外の檻にまとめて閉じ込められました。そのとき、イタマール・ベン=グヴィル国家安全保障相がメディアをひきつれてやってきました。成果を上げたとアピールしたかったのでしょう。それが終わってから、個々の檻に収監されました
――その部屋は、何人部屋ですか
安村 広さは24㎡だと聞きました。そこに、だいたい10人ぐらい。2段ベッドが2つと、1段のベッドがありました。全員分のベッドがないので、地べたにマットを引いて寝て。トイレは部屋に1つ。小さい洗面台がついていました。飲み水は、いくら言っても全然くれなかったので、そのトイレの洗面の水を飲んでいました。食べるものも、初日は1食だけで、2日目から2食になったと思います。ただ1人ずつくれるんじゃなくて、部屋にこれだけ、という形で持ってきた。
薬は、気分悪いと言っても、すぐにはくれない。言いつづけないと全然来てくれない。外にも出してもらえなかったし、もうずっと部屋の中で。収容の最終日とその前日に初めてシャワーを浴びさせてもらえました。
――イスラエル軍による尋問は、刑務所に入る前に1回?
安村 そうです。それだけ。弁護士と話せたのも入る前の時だけ。頼んでも全然対応してくれなかった。その後は大使館の人たちが訪ねてきてくれて、私はその人たちと2回ほど話をしました。私は日本大使館の人で、みんなそれぞれの国の大使館の人たちが会いに来てくれていました。
最初は本当に2、3分しか話させてもらえず、健康状態はどうですか、ということと、どんな扱いを受けていますか、と。水も薬もくれません、とかそれぐらいの話しかできなくて。2回目には医者を連れてきてくれたんですが、それでも10分ぐらいしか話させてもらえませんでした。お医者さんは血圧の薬を持ってきてくれたのですが、それも部屋に戻る時に取り上げられてしまいました。薬はどうしても必要なので、下着の中に入れたりして、そのまま部屋に持っていこうかと思ったんですけど、全部取り上げられました。他の人たちも、薬や水を大使館員にもらった人がいましたが、やはり全部取り上げられていました。
居住国のオランダに帰還
――イスラエルから帰還する際はどのような状況でしたか。
安村 最初、帰還先は日本かもしれないと思っていましたが、どこに戻されるかは最後までわかりませんでした。日本大使館の人たちは、私の居住国はオランダだと伝えてくれたとは思うんです。ただ、実際にどこになるのかは最後までわからなくて。ただ、追放先がヨルダンだったので、それなら、オランダに帰る飛行機があるから手続きをすればいいだろうということで、息子とGSFの陸上チームが飛行機手配をしてくれてオランダに帰ってこれたんです。

――イスラエルがヨルダンにみなさんを追放したので、そこでイスラエルの関与がなくなったという形ですか。
安村 そうですね、はい。刑務所のバスで国境まで連れて行かれて、国境を越えたところで、普通のバスにみんな乗り換えて、イミグレーションの手続きのところまで行ったら、ヨルダンの各国の大使館の方々が私たちみんなを待っていてくれたという状況です。私たちはいちばん最後に釈放されましたが、EUのパスポートの人たちの多くはギリシャがチャーターした飛行機で1日早く帰っていきました。
――今日、まさに「停戦合意」という話が聞こえてきていますが、これについてはどのようにお考えですか。
安村 もちろん停戦は望ましいことだと思うのですが、まず、本当にイスラエルが守っていくのかが気になりますし、とにかく一刻も早く十分な量の支援物資をガザに届けてほしい。停戦のその後の問題として、イスラエルとアメリカが提案している案が、ガザやパレスチナ全体を植民地化するようなものではないかと思いますし、パレスチナの解放に向けてはまだまだ先が長いな、と思います。ここで終わりじゃなく、これから本当の意味でのパレスチナ解放に向けて、もっとみんなで声を上げていってもらいたいし、世界もその方向に向かって進んでほしいなと思います。
――GSFの活動を、いまどう評価していますか。
安村 私たちが拿捕されている間、イスラエルの船が全部こっちに向けられたことで、ガザの人たちは1年ぶりに漁ができて、魚がいっぱい獲れたらしいんです。それを聞いたときは本当に嬉しかったですね。実際に少しでもガザの人たちの役に立てたという。それが1番嬉しかったですね。
それから今回、世界中の注目がGSFに集まりました。それをきっかけに、パレスチナへの関心が高まったと思います。たとえばスペインやベルギーのように、イスラエルに制裁を加えるという動きにまでつながりました。それなりに意味はあったのではないかと思います。
ただ忘れてほしくないのは、GSFの活動は、各国の政府や国連などが動いてくれていれば、しなくてよかったものです。してくれないので、市民が行わなければならなくなったんです。イスラエルは今回、武装もしていない私たち一般市民を、こともあろうか公海上で拿捕しました。これが国際法違反であることはいうまでもありません。支援物資を運ぶ多国籍の市民に対してこうしたひどい扱いをするイスラエルが、収監しているパレスチナの人たちにどんな弾圧を加えているか。いまだ捕虜としてイスラエルに拘束されている何千人ものパレスチナの人たちは、未成年者も含め、もっとずっと長い間、裁判も受けずにひどい扱いを受けています。停戦で一部の人たちはかえってきますが、イスラエルはその気になれば、すぐに同じ数のパレスチナの人たちを拘束するでしょう。そしてまた拷問をする。決して、ガザ、パレスチナから目を離さずにいてください。
――(インタビューに同席されていた息子・純さんに)母親の美香子さんの姿を見てどう感じましたか。
安村純 母のことを心から誇りに思っています。やはり無事に帰ってきてくれたことが何よりです。母とは、アプリを通じて連絡をとりあっていて、ときどき電話もしていました。拿捕されたときは心配して見ていました。母も言っていたように、GSFのおかげでガザへの注目が高まり、ガザで漁ができた。それは嬉しかったです。
――本日はありがとうございました。
(10月9日 オランダ・ライスワイクの自宅にて)
















