ガザ 「停戦」は一時の安堵でしかない

マフムード・ムシュタハ(ガザ出身ジャーナリスト)
2025/03/05
破壊され尽くしたガザ北部のジャバリヤ難民キャンプ。「停戦」合意開始後、戻ってきた人たちのテントが見える。 2025年2月13日。Photo by Middle East Images/ABACA/共同

「停戦」

 私たちガザのパレスチナ人にとって、停戦の実現は、夢であり、果てしない夜と計り知れない苦痛に耐えながら待ち望んできたものだった。しかし、誤解しないでほしいのだが、これは、真の停戦ではない。

 1月19日に始まったこの「停戦」はせいぜい、イスラエル占領軍による残虐な攻撃――ガザは瓦礫と化し、住民たちは粉々に死んでいった――の「一時的な停止」に過ぎない。ガザの街や人々が以前の状態に戻ることはできないし、戻るべき「通常」ももはや存在しない。たとえ以前の状態に戻れたとしても、私たちが経験したことを思えば、それだけでは決して十分ではない。

 確かに、停戦を待ちに待っていた。しかしその瞬間に感じたのは、喜びよりもむしろ、はかなすぎる安堵感だった。戦闘機のけたたましい轟音は止み、地面が爆発で揺れることもなくなった。しかしガザでは、静寂が安全を意味したことなどない。爆撃の轟音は今も心のなかで鳴り響き、記憶の隅々にまで刻み込まれている。何度も何度も戦争と停戦を繰り返してきたガザの住民にとって、停戦は祝うべき瞬間ではなく、終わりのない悲劇の束の間の休息であり、次の戦争への前奏曲でしかない。

 「疑問が頭から離れない。でも誰も答えを教えてくれない」と、29歳のマフムード・シャルフィが言った。

 「ガザの家はもう残っていない。私たちはどこに住めばいいのか。永遠にテントで暮らすことになるのか。将来はどうなるのか。子どもたちはどこで勉強するのか……」

 シャルフィと彼の6人の家族はいま、ガザ南部ハーン・ユーニス地区のテントで暮らしている。2023年11月に爆撃下のガザ市から逃れ、その後何度も、避難先からの強制退去を強いられた。

 「停戦になったら、私たちのあの家にどうしても帰りたかった。ナセル地区にある五階建ての建物で、4家族が暮らしていた家です。でも停戦の初日、ガザ市に残る友人が写真を送ってきました。私たちの家はもう、瓦礫になっていました」。

 シャルフィの両親は、停戦第1段階の7日目になれば帰宅できると信じ、待ちわびているという。

編集部註:停戦は3段階で進められ、イスラエルは第1段階の開始時に軍をガザ東部に移動させ、7日目にはガザ南部に避難していたパレスチナ人が北部への帰還を開始した。

 「家がなくなったことを、どう伝えろというのか。母は、『もうテントは必要ないね。もうすぐ部屋に戻れるから』と何度も言います。でも実際は、これからも、どこに行くにもテントを持ち歩かないといけないんです」

 シャルフィ氏は続けた。「私は、停戦合意の条項を一言一句、すべて読みました。でも、殺された友人や叔母を生き返らせる条項は、どこにも書かれていないんです」。彼の声には、苦悩と悲しみがこもっていた。

 「必要なのは、次の世代のための停戦です。私たち世代はもう終わったんです。私たちは、もう死んでしまったか、負傷したか、手足を失ったか、一生消えることのないトラウマを抱えている」

破壊のサイクル

 (2023年10月7日に)戦争が始まって6カ月のあいだ、私はまだガザにいて、友人たちと一緒に座り、周囲でつづく破壊をどうにか理解しようとしていた。みな携帯電話を片時も離さず、食い入るように情報を見ては、停戦や、たとえ一時でもいい休戦のニュースを必死に待ち望んでいた。

 あのころの私たちの会話といえば、誰が生き残ったかという最新情報から始まり、話題はすぐに、誰が生き残れなかったかに移っていった。そこで挙がる話はどれもが、家族や友人や隣人や、一緒に育った人たちの話だった。彼らの名前を口に出すたびに、自分の一部を失った気がした。決して戻ってこないものへのあの喪失の痛みを、私たちは決して忘れられないだろう。

 こうした悲しみと破壊の感情は、私たちガザ人にとっては目新しいことでも、めずらしいことでもない。私が初めて戦争を目の当たりにしたのは2008年、7歳のときだ。それは2009年までつづき、次は2012年、その次は2014年だった。戦争のたびに私たちは生活を立て直し、立て直すたびに、すべては再び破壊された。

 2008年、イスラエルは私のいとこアムジャドを殺した。2012年には隣人の家を空爆で破壊し、2014年には、いよいよ私たちの家を砲撃でもって破壊し、強制退去させた。いまのこの大虐殺で、私から奪われたすべてのものは、あまりに耐え難いものになっている。イスラエルは、私の5人の大事な親友(Mahmoud Alnaouq, Yousef Dawas, Abdallah Baghdadi, Mahmoud Sbaih, and Mohammed Wesam)を殺した。叔父のヒシャームとその妻ハナ、彼らの息子バーゼルとモハメド、そして、彼らの孫を含む私の親族72人も殺された。これは決して無差別殺人などではない。私たち家族に起きたことは絶滅であり、家族全員に対する意図的な抹殺だった。

 停戦の合意が宣言されても、私たちに与えられたのは、ほんの少しの時間だけだ。泣いて、嘆いて、喪失という底なしの現実に向き合う。それだけでなく、命を奪われた数え切れない大切な人たちの、ばらばらになった遺体を捜す。そのためのたった少しの時間だ。2023年11月21日には、私の親戚46人が一度の空爆で殺された。彼らのうち28人は、かつて、私たちの近所だった場所に埋葬されている。

崩壊の連鎖

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マフムード・ムシュタハ

Mahmoud Mushtaha ジャーナリスト、人権活動家。ガザ出身。現在英国レスター大学でグローバルメディアとコミュニケーションの修士号を取得中。2024年秋、初の著書Sobrevivir al genocidio en Gaza.(ガザでの虐殺を生き延びて)(スペイン語、未邦訳)を出版した。

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