「停戦」
私たちガザのパレスチナ人にとって、停戦の実現は、夢であり、果てしない夜と計り知れない苦痛に耐えながら待ち望んできたものだった。しかし、誤解しないでほしいのだが、これは、真の停戦ではない。
1月19日に始まったこの「停戦」はせいぜい、イスラエル占領軍による残虐な攻撃――ガザは瓦礫と化し、住民たちは粉々に死んでいった――の「一時的な停止」に過ぎない。ガザの街や人々が以前の状態に戻ることはできないし、戻るべき「通常」ももはや存在しない。たとえ以前の状態に戻れたとしても、私たちが経験したことを思えば、それだけでは決して十分ではない。
確かに、停戦を待ちに待っていた。しかしその瞬間に感じたのは、喜びよりもむしろ、はかなすぎる安堵感だった。戦闘機のけたたましい轟音は止み、地面が爆発で揺れることもなくなった。しかしガザでは、静寂が安全を意味したことなどない。爆撃の轟音は今も心のなかで鳴り響き、記憶の隅々にまで刻み込まれている。何度も何度も戦争と停戦を繰り返してきたガザの住民にとって、停戦は祝うべき瞬間ではなく、終わりのない悲劇の束の間の休息であり、次の戦争への前奏曲でしかない。
「疑問が頭から離れない。でも誰も答えを教えてくれない」と、29歳のマフムード・シャルフィが言った。
「ガザの家はもう残っていない。私たちはどこに住めばいいのか。永遠にテントで暮らすことになるのか。将来はどうなるのか。子どもたちはどこで勉強するのか……」
シャルフィと彼の6人の家族はいま、ガザ南部ハーン・ユーニス地区のテントで暮らしている。2023年11月に爆撃下のガザ市から逃れ、その後何度も、避難先からの強制退去を強いられた。
「停戦になったら、私たちのあの家にどうしても帰りたかった。ナセル地区にある五階建ての建物で、4家族が暮らしていた家です。でも停戦の初日、ガザ市に残る友人が写真を送ってきました。私たちの家はもう、瓦礫になっていました」。
シャルフィの両親は、停戦第1段階の7日目になれば帰宅できると信じ、待ちわびているという。
編集部註:停戦は3段階で進められ、イスラエルは第1段階の開始時に軍をガザ東部に移動させ、7日目にはガザ南部に避難していたパレスチナ人が北部への帰還を開始した。
「家がなくなったことを、どう伝えろというのか。母は、『もうテントは必要ないね。もうすぐ部屋に戻れるから』と何度も言います。でも実際は、これからも、どこに行くにもテントを持ち歩かないといけないんです」
シャルフィ氏は続けた。「私は、停戦合意の条項を一言一句、すべて読みました。でも、殺された友人や叔母を生き返らせる条項は、どこにも書かれていないんです」。彼の声には、苦悩と悲しみがこもっていた。
「必要なのは、次の世代のための停戦です。私たち世代はもう終わったんです。私たちは、もう死んでしまったか、負傷したか、手足を失ったか、一生消えることのないトラウマを抱えている」
破壊のサイクル
(2023年10月7日に)戦争が始まって6カ月のあいだ、私はまだガザにいて、友人たちと一緒に座り、周囲でつづく破壊をどうにか理解しようとしていた。みな携帯電話を片時も離さず、食い入るように情報を見ては、停戦や、たとえ一時でもいい休戦のニュースを必死に待ち望んでいた。
あのころの私たちの会話といえば、誰が生き残ったかという最新情報から始まり、話題はすぐに、誰が生き残れなかったかに移っていった。そこで挙がる話はどれもが、家族や友人や隣人や、一緒に育った人たちの話だった。彼らの名前を口に出すたびに、自分の一部を失った気がした。決して戻ってこないものへのあの喪失の痛みを、私たちは決して忘れられないだろう。
こうした悲しみと破壊の感情は、私たちガザ人にとっては目新しいことでも、めずらしいことでもない。私が初めて戦争を目の当たりにしたのは2008年、7歳のときだ。それは2009年までつづき、次は2012年、その次は2014年だった。戦争のたびに私たちは生活を立て直し、立て直すたびに、すべては再び破壊された。
2008年、イスラエルは私のいとこアムジャドを殺した。2012年には隣人の家を空爆で破壊し、2014年には、いよいよ私たちの家を砲撃でもって破壊し、強制退去させた。いまのこの大虐殺で、私から奪われたすべてのものは、あまりに耐え難いものになっている。イスラエルは、私の5人の大事な親友を殺した。叔父のヒシャームとその妻ハナ、彼らの息子バーゼルとモハメド、そして、彼らの孫を含む私の親族72人も殺された。これは決して無差別殺人などではない。私たち家族に起きたことは絶滅であり、家族全員に対する意図的な抹殺だった。
停戦の合意が宣言されても、私たちに与えられたのは、ほんの少しの時間だけだ。泣いて、嘆いて、喪失という底なしの現実に向き合う。それだけでなく、命を奪われた数え切れない大切な人たちの、ばらばらになった遺体を捜す。そのためのたった少しの時間だ。2023年11月21日には、私の親戚46人が一度の空爆で殺された。彼らのうち28人は、かつて、私たちの近所だった場所に埋葬されている。
崩壊の連鎖
ガザにおける今の一番の課題は、これからの日々を生き延びることだ。家も資源も生活必需品もない中で、どうやって生きればいいのか。家族なしでどうやって生き延びろというのか。国連の推定によれば、ガザでは住宅の90%以上がこの戦争の被害を受けている。16万戸は完全に破壊され、27万6000戸は深刻な被害または一部被害を受けた。しかしこれは、国連が調査できた範囲の数字にすぎない。ガザ北部やその他、今やたどり着くことも困難な地域では、破壊はさらに深刻だろう。住宅が破壊されているということは、人々が住む場所を失っているという意味だ。ガザでは200万人近くのパレスチナ人がこれからも避難生活を送る。避難場所や生活必需品を求めてあちこちを移動しながら、彼らは、自らのいのちをどうにか背負いつづけなければならない。
教育システムも崩壊した。大学はすべて破壊され、その他の学校もほとんどが爆撃された。残った学校はいま、教育のためではなく、避難所として使われている。まるまる一世代の教育が停止したのだ。その被害を回復するには何年も、いや何十年もかかるだろう。
崩壊したのは建物だけではない。未来への信念、明日はもっと良くなるかもしれないという希望も崩壊した。ガザからエジプトに避難した友人の娘は、ガザには二度と戻りたくないと父親に漏らしたという。「怖すぎる」と。「また爆撃されたらどうしよう」と聞く娘に、父親は何も答えられなかったという。
あいまいな未来
停戦が始まった後も、ガザの政治情勢は不安定で、複雑なままである。合意は殺害からの一時的な休息を提供する一方で、ガザの人々に、答えよりも多くの疑問を残している。合意の付録書には、「第1段階のすべての手続きは、第2段階の実施条件の交渉が継続している限り第2段階でも継続され、この合意の保証人は合意に達するまで交渉が継続されるように努めるものとする」と書かれている。
このようなあいまいな言葉が、住民を不安にさせ、混乱させている。交渉が継続される条件は何なのか、もし交渉が失敗したらどうなるのか。第2段階に進むことを阻止するために、イスラエルは一方的に交渉を打ち切ることができるのではないか。合意の保証人であるカタールとエジプトに、遵守を託すことができるのか。歴史的に見ても、保証などほとんど効果がないことは証明されている。それを、ガザの人々は知っているのだ。こうした差し迫った疑問に対する明確な答えがないため、多くのガザの住民は、18年におよぶ占領、政治的停滞、そして主にハマスとファタハ間の内部政治分裂の継続という、同じ壊滅的なサイクルに戻ることを恐れつづけなければならない。
そもそも、10月7日以前も、ガザ地区はすでに悲惨な状態にあった。人口の80%以上が貧困ライン以下で暮らし、電気は一日に数時間しか使えない。そのため、ガザ地区のほとんどの住民にとって、生活のための基本的なニーズを満たすことが日々の闘いとなっていた。世界銀行とパレスチナ中央統計局(PCBS)によると、ガザ地区住民の71%がうつ病に苦しんでおり、これはイスラエルによる封鎖下での生活が大きな精神的負担となっていることを表していると見られる。さらにこの数年間では、6万人以上の人々がガザ地区から別の地に移住している。みんな、なんとか悲惨な状況から脱出しようと奮闘しているのだ。
2007年以降のイスラエルによる封鎖とガザ地区への度重なる攻撃に、ガザ地区の人々は絶え間なく苦しみつづけてきた。一方イスラエルは、米国やその他大国からの揺るぎない支援を受け、近代史上もっとも長期にわたる封鎖を実行し、国際法違反を犯し、パレスチナ人に対する組織的な財産没収を強行する。
パレスチナ人はさらに、自らの指導者たちの貧弱な政治的・戦略的行動の犠牲にもなりつづけてきた。闘争の軌道を狂わせたオスロ合意からはじまり、人々を地理的にもイデオロギー的に分裂させた2007年の政治的分裂。さらにガザの人々にとって何ら具体的な改善をもたらさなかった10月7日のハマスによるイスラエル攻撃もそうだ。
ハマスは長年にわたり、国民感情を悪用し、人々の感情を操作し、反対意見を黙らせながら、ガザ住民に悪影響をもたらす自らの行動を正当化してきた。ハマスは2007年にガザ地区の政権を握ったが、貧困や失業、インフラの崩壊、国際的な孤立といったパレスチナが抱える主要な問題に何ひとつ取り組むことができなかったことで、ガザ住民の信頼は失墜した。彼らの行動は、パレスチナ人の大義を前進させるどころか、社会の分断を深め、ガザをさらに孤立させ、団結した闘いの機会を奪うものだった。ガザ地区の一部の人々のなかには、ハマスの軍事行動を、イスラエルによる数十年にわたる抑圧に対する必要な対応だと捉える向きもある。彼らは、軍事行動による抵抗こそが変化への唯一の、そして現実的な道だと考えている。イスラエルによるジェノサイドで、これまでに5万人以上のパレスチナ人が命を落としたにもかかわらず、国際社会は相変わらずイスラエルを支援しつづけている。多くのパレスチナ人はすでに、人権や世界正義といった概念に幻滅しつくしているのだ。だから、こうした見方をする人々にとっては、軍事的抵抗は単なる選択肢のひとつではなく、ハマスに課せられた必要不可欠な実行策であり、圧倒的な暴力と国際社会からの組織的な黙殺に直面するなかで、自分たちの存在を主張するための唯一の手段なのだ。
政治的統一に向けて
とはいえ、こうした意見の相違はあるにせよ、ハマスは、ガザの統治機関として自分たちがいま負っている大きな責任をきちんと認識する必要がある。そして、スローガンや象徴的なジェスチャーではなく、実質的な行動と説明責任が求められていることも認識するべきだ。ガザ地区の人々は、自分たちの指導者が、自分たちが直面している問題にどう対処しようとしているのか、知る必要がある。必要な援助がすべての人に届くようにするために、どのような対策が講じられているのか、 ガザの破壊されたインフラを再建するために、どのような戦略が立てられているのか。そして、この停戦がさらなる破壊の前兆ではないというのなら、その保証はどこに、どのようにあるのか。
「これまでハマスは、停戦合意の条件について、ガザの人々に対して明確かつ詳細な説明をしていません。あるいは、彼らが払った膨大な犠牲によって何らかの成果があったのかも、何も語られません」と、26歳のアーメド・ホスネイは言う。こうした透明性の欠如は、戦争で愛する人や家屋、生活のすべてを失った人々にとって、まるで黙殺のレイヤーが加わったように感じられるのだ。
政治が分裂するいま、ハマスにしろパレスチナ自治政府にしろ、単独では、ガザ地区やヨルダン川西岸地区のパレスチナ人が受けている殺害や破壊をすべて止めることは不可能だ。実際、ガザ地区での停戦合意は、ジェニンやヨルダン川西岸地区でのパレスチナ人に対する新たな攻撃という犠牲を払うことで実現したように見える。
さらに、ハマスとパレスチナ自治政府の政治的対立は、イスラエルによる長年の「分割統治」戦略に後押しされながら、パレスチナ人を政治的に分断させたまま、指導者たちが団結し、正義を求める統一戦線を構築することから遠ざけている。この致命的な統一の欠如は、国際舞台でのパレスチナ人への擁護を弱めるだけでなく、占領とパレスチナ人の苦しみを長引かせるために利用されてきた分裂を、さらに悪化させる。
もしパレスチナ人が本当に団結していれば、今回の停戦合意は、ガザとヨルダン川西岸地区両方での違反行為に対処し、イスラエルによるパレスチナ領土の占領を終わらせるための協議を再開するきっかけになったかもしれない。しかし、ファタハはイスラエルとハマスとの停戦交渉から完全に排除されたままであり、パレスチナ自治政府はハマス抜きでガザ地区の一方的な統治を取り戻そうとする一方、イスラエルがヨルダン川西岸地区でのパレスチナ抵抗運動を取り締まることを支援している。
ガザ地区の人々にとって、より良い未来に希望をもつには、目の前の危機を解決するだけではまったく十分ではなく、それ以上のものが必要だ。ガザ地区の現実とパレスチナの政治を根本的に変革し、恒久的な平和を実現し、封鎖を終結させ、パレスチナの指導者たちが団結して、すべての人々にとっての正義と尊厳を追求する。それがなされるまでは、来年も5年後も10年後も、人々はきっと、また同じ悲劇を経験しなければならないという恐怖から抜け出すことができないのだ。
この原稿は、”A ceasefire can only bring temporary relief. It’s what comes next that counts”, January 24, 2025(+972 Magazine)の翻訳です。