ガザ地区は、南北で約50キロ、東西で約5キロから14キロの幅をもつ細長い地区である。南北がマラソンにちょうど良い距離とのことで、ガザで活動する国連機関が、海沿いを走るチャリティー・マラソンを企画したこともある。面積は360平方キロで、東京都23区の半分ほど、愛知県名古屋市よりやや大きいくらいだ。人口は222万人で、こちらも名古屋市(233万人)ほどに匹敵する。こうして比較すると、ガザは手ごろにまとまった地方都市という感じだが、東京や名古屋と違うのは、住民がガザから出る手段がなく、常に危険に晒されてきた点である。定期的に空爆や軍の侵攻を受ける強制収容所。今では虐殺と飢餓によって住民全員が死地に立たされている。それが、ここ17年間のガザの姿である。では、いかにしてガザは、死と恐怖に満ちた強制収容所と化したのか。
ガザ──文明の交差点から強制収容所へ
■ナクバ――アラブ人住民の追放
1948年、ナクバ(大災厄)が起きた。これは、英国軍撤退直後のパレスチナ全土で、先住のアラブ人(現在のパレスチナ人)が、ユダヤ人移民の民兵組織によって虐殺され、蹂躙され、故郷を追放されたできごとだ。この時、ユダヤ人民兵組織はパレスチナ各所で虐殺やレイプを行ない、村や都市を包囲して砲撃した。それは、防衛手段をもたないアラブ人を恐怖に陥れ、ユダヤ人支配地域から離れさせ、そこにユダヤ人国家「イスラエル」を打ち建てるためだった。結果、約75万人のアラブ人が故郷を追われ、現在のヨルダン川西岸地区(以下、「西岸」と記す)やガザ、周辺のアラブ諸国に逃れた。この時、現在「イスラエル領」とされる地域からアラブ人の9割が追放されたとされる。
ガザにも、地中海に面した港町のハイファやアッカー、周辺の村々から船や徒歩で多くの避難民が逃れてきた。彼らとその子孫は現在では「パレスチナ難民」と呼ばれるが、より正確には、パレスチナの中で避難したまま故郷に戻れなくなった国内避難民である。
私は2012年から2016年まで、国際協力NGOの仕事でガザを訪問していた。当時一緒に働いていたパレスチナ人女性はハイファという名だった。ハイファは、彼女の家族がナクバの際に離れた都市であり、今はイスラエルに吸収された都市である。彼女はその後ヨルダンに移ったが、彼女の子どもたちはみなガザに囚われたままだった。虐殺と飢餓のガザ。彼女の心の傷ははかりしれない。

■ナクサ・フザイラーン――水と土地の剥奪
1967年6月、ナクサ・フザイラーン(6月の後退)が起きた。これは、イスラエルがアラブ世界で活気づいたアラブ民族主義に決定的打撃を与えるため、エジプトやシリアに先制攻撃を加えたできごとである。日本では、第三次中東戦争と呼ばれる。これによりイスラエルは、1948年に民族浄化を完遂できなかったパレスチナの残りの領土―ガザと西岸―を占領した。これ以降、ガザと西岸のパレスチナ人社会はイスラエル経済の底辺部に組み込まれ、水と土地という人間の生にとってもっとも重要な資源を奪われ、男たちは安い使い捨ての労働者として搾取されていった。ガザと西岸に残された妻や母たちは、イスラエルで夫や息子が稼いだわずかな給料で家族を支えたが、彼女たちが買うものの多くが、次第にイスラエル製品になっていった。ガザや西岸の地場産業が破壊され、代わりに安価なイスラエル製品が市場を独占していったからである。
2016年、私はガザである女性に出会った。彼女は、うす暗い自宅に一人きりで暮らしていたが、夫が昔出稼ぎで稼いだお金で揃えた食器セットを大切にし、心の支えにしていた。彼女の夫は、2007年以降の封鎖で停電が日常になる中、発電機と家のブレーカーをつなごうとして感電し、亡くなった。