中国人強制連行と和解

森田太三(弁護士)
2025/11/06

 三菱マテリアル社が中国人の強制連行強制労働被害者との和解で基金を設立し、2024年10月上旬まで和解事業を行なってきたことを知っている方は、そう多くはないかもしれない。

 しかし、世界各地で紛争や戦争の惨禍が絶えない現在、先の大戦下における違法行為を謝罪し、被害者を見つけ出し、金員を支払い、慰霊追悼事業を行なってきた企業とその被害者との和解の取り組みは、現在の私たちに一筋の光明を与える。たとえそれが国家や政府の取り組みには至らなくとも、民間での地道な取り組みが平和に何をもたらすのか、改めて考えてみるのも必要である。

 ここでは、三菱マテリアルという一企業が取り組んだ和解事業の経過を、それに被害者側弁護士として関わった者の一人として、会社、被害者双方の立場からたどって、現在における意味を考えてみたいと思う。

中国人強制連行強制労働事件

 先のアジア太平洋戦争時、戦線の拡大にともなう成人男子の軍への召集で、日本国内の軍需産業を担う労働力は不足し、特に炭鉱、金属鉱山、港湾荷役、発電所建設、土木工事などの重筋労働の労働力は決定的に不足していた。これを補うために、最初は朝鮮半島から多くの労働者が強制的に徴用され、その後は中国人を強制的に拉致して日本に連行し、各地の現場で強制的に労働に従事させた。この政策は、企業からの要請を受け、当時の日本政府が国策として行なったものである。強制連行された中国人の合計は3万8935名、関与した企業は35社、強制労働が行なわれた事業場は全国135カ所にのぼった。

 強制連行の被害者の多くは、主に日本の軍部によって身柄を拘束された。身柄を拘束された中国人たちは収容所(労工訓練所)に入れられ、その後、青島や塘沽(タンクウ)の港から日本まで船で運ばれた。乗船した中国人の総数は3万8935名だったが、日本に着くまでに船中で死亡した者は564名、日本の港に着いてから労働現場である各地の事業場にたどり着くまでに死亡した者は248名にのぼった。各事業場での強制労働の実態も過酷であった。劣悪な環境や過酷な労働のため、事業場に到着してから3カ月のうちに2282名が死亡し、その後も、終戦後に帰国のため事業場を出るまでに3717名が死亡している。さらに事業場を出発してから帰国のため乗船するまでの間にも10名が死亡し、3万8935名の中国人強制連行被害者のうち実に6830名が死亡している。これに対し、日本の加害企業は、戦後、日本政府に対し補償を求め、当時の金額で総額約5672万5474円もの国家補償を得たのである。現在の価値に換算すれば、1000倍としても約567億円にあたる。

裁判の経緯

 1972年の日中共同声明は、中国政府の日本国に対する戦争賠償請求を放棄したが、中国国内では1990年代に入ってから、戦争被害者たちが日本に賠償を求める動きが高まっていた。また、当時の実態をまとめた「外務省報告書」や、終戦後に連合軍からの戦争責任追及を恐れた各企業が実態を調査した「事業場報告書」の存在が明るみに出たことをきっかけに、日本各地で加害企業や日本政府を相手取って裁判が提起された。

 最初の裁判提起は、鹿島建設花岡鉱業所にて強制労働させられた被害者たちによる1995年の裁判であったが、翌1996年には、明治鉱業昭和炭鉱で働かされ終戦間際に脱走し北海道の山中に13年間一人で生き続けた劉連仁が日本政府を被告として提訴した。その後も、東京、長野、広島、京都、新潟、北海道、福岡、群馬、宮崎、山形、長崎、金沢の各地裁で提訴が続いた。裁判での闘いには、中国では協力する弁護士や学者の他にも「中国人強制連行被害労工聯誼会(れんぎかい)」という被害者団体が、日本でも弁護団の他に「中国人戦争被害者の要求を支える会」(通称「支える会」)をはじめとする各地での支援者・支援団体が裁判を支えた。そのカンパ資金によって、当時生存していた被害者本人が訪日して法廷で証言したが、その中には、日本での迫害を心配した家族から説得されて訪日を中止した例もあった。2006年10月には中国から被害者と遺族が訪日し、国や企業に出向いて解決を求めて交渉した100人行動もあった。日本での裁判や運動は中国側の被害者らと日本側の弁護士、支援者との協同によって取り組まれたものであった。

森田太三

(もりた・たいぞう)弁護士。東京弁護士会会員、元関東弁護士会連合会理事、元東京弁護士会副会長、元日本弁護士連合会理事、中国人強制連行・強制労働事件全国弁護団団長、横田基地騒音公害訴訟担当弁護士。

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