アメリカの人種問題を/から考えるための三冊

兼子 歩(明治大学准教授)
2025/03/02

 アメリカ合衆国を特徴づけるものといえば、人種・民族の多様性、そして人種問題が挙げられることは疑いないであろう。2020年の新型コロナウィルス・パンデミックが引き起こしたパニックの中で、アジア人・アジア系アメリカ人に対する憎悪犯罪(ヘイトクライム)が急増した。同時に警察の人種主義的暴力に抗議するブラックライブズマター(BLM)運動が激化すると、ますます、「アメリカといえば人種問題」という見方があらためて確認される傾向がある。

 こうした語られ方は、多くの場合いくつかの仮定にもとづいている。まず、アメリカは「日本とは違って」人種問題が深刻である、という前提がある。評者も学生などから「単一民族国家である日本とは違って、アメリカは多民族なので……」といった発言を耳にすることが多い。だがこの認識に則る限り、アメリカの人種問題やその歴史を知ることは、アメリカとの違いを前提した「人種問題なき社会としての日本」という自画像を再生産・強化することを意味する。そのことは、実際には日本社会が以前から多民族・多文化的な社会であったにもかかわらず、日本社会の人種問題を最近日本に到来するようになった「外国人」によって「外部」から持ち込まれる「災い」とみなす、排外主義的な眼差しの正当化や修正主義的な歴史認識としても機能している。

 これに関連したもうひとつの仮定として、人種問題を「問題」として語るときの前提を考える必要がある。この前提にあるのは、人種を、身体的差異(主に肌の色)によって客観的に分類できる生物学的で不変にして普遍的な差異のカテゴリーであるとし、その上で、人種差別とは「異物」に対して個人が人間として抱くある種の本能的な恐れや警戒や反発が「偏見」として表明されたものであり、より礼儀正しいふるまい方を学習することで恐怖心はなくなり、差別はなくなっていく、とする考え方である。この考え方に立つと、差別とは「明瞭な悪意による他人種への攻撃」という意味に限定される。

 本稿で取り上げる3冊は、こうした前提を問い直すことを直接的・間接的な目的としている。いずれも研究書ではなく初学者・一般読者向けの書籍であるが、アメリカの人種の歴史を研究する第一線の研究者たちにより、近年の研究動向を反映させた啓蒙書である。

個人の悪意を超えるものとしての差別を学ぶ

 森川美生・大森一輝『「もう差別なんてない」と思っているあなたへ』は、アメリカ史における人種およびジェンダーの問題を踏まえ、日本社会における「差別」の問題を考える入門書である。著者は本書において、近年のアメリカと日本において差別をめぐる言説が相似的であることを注視する。それは、差別はもはや(深刻な形では)存在しない、むしろ「逆差別」が問題である、とする言説である。これらの論理と文脈の共通性を踏まえて、著者はアメリカ史研究の蓄積から日本における差別の語られ方を再考するよう促している。第1部では、マイノリティや女性による権利の保障や差別の是正を要求する抗議を「逆差別」だとする論理と、差別は問題だとしても「区別」は必要であり正当である、という論理が俎上に載せられる。これらのロジックに共通する陥穽は、人種やジェンダーが権力関係──人種や性差にもとづいて人を「男性」と「女性」、「白人」と「非白人」、「日本人」と「非日本人」へと分類し、前者が機会や利益や権利を独占し、後者がアクセスを妨げられる関係──であることを(あえて)無視していることだと、本書は指摘する。

 森川と大森は社会構造の格差を、マジョリティ(それもそのうちの一部の者)にとって登りやすくマイノリティにとって登りにくいよう整備された山にたとえ、その不平等な登山道のあり方を維持・再生産するさまざまな制度や政策や慣行を構造的差別と呼ぶ。そして、山の上側にいる人間が個別に下側の人間の登山を妨害する行為(明瞭な悪意による攻撃)のみが差別と思われがちだが、不公正な登山道のあり方自体も、そして登山道のあり方を皆にとって登りやすくしないことを容認し正当化することもまた差別なのだ、と指摘している。

 この指摘は、社会学者ホックシールドが白人労働者階級の世界観として描き出した山の比喩を踏まえている(1)。それは、自分たちがアメリカ的成功の山を下から一歩ずつ真面目に登る列の途中で横入りしてくる者がいて、それがリベラル支配の政府が依怙贔屓(えこひいき)するマイノリティだという認識である。しかし森川と大森によれば、この認識こそが自分の「見える範囲の前方」しか見ようとしない特権意識なのであり、この構造に物申すマイノリティを「逆差別」と非難することこそ特権の防衛に他ならないと指摘する。

 差別ではなく区別という物言いも、登山にたとえるならば、マイノリティや女性にとって登りにくいような恣意的設計を「自然」な本質的差異に由来する宿命として正当化する論理に過ぎない。かつてアメリカ南部に存在した強制的人種隔離法からアファーマティブアクション反対論、男女平等を個性の否定と決めつける論理から選択的夫婦別姓反対論に至るまで、著者たちは、固定的なものと仮定された区別を恣意的に立てるといった差別を正当化する議論に警鐘を鳴らしている。

 著者と学生との対話の形をとった第2部では、差別の存在を否定する日本の日常におけるさまざまなロジックに再考を促す。「女性専用車両は女性優遇では?」「身体で結局人種や男女は違っているのは確かでは?」「理数系分野に進む女性が少ないのは女性自身が望んでいないからでは?」「なんでも差別だと言われれば息苦しい社会になるのでは?」などの日米双方でよく聞かれる議論に対し、差別の本質に関する前述の原則から丹念に応答しており、実際にそのような言葉が発せられる場に直面した人が差別の構造に抵抗する/加担しないためにはどうすべきかの指針を得るヒントが豊富である。第3部は、公民権活動家ジョン・ルイスの人生と時代、そして女性と生殖の自己決定をめぐる議論を取り上げ、具体的事例から「構造的差別」と個人の関係を探究する。

 本書はコンパクトな新書サイズであり、ジェンダーや人種に関するあらゆる重要な争点や議論を網羅するには紙幅が限られている。アメリカでは歴史の中でいかに「人種」という概念が創出されたのかという点についても多角的な研究が蓄積されており、本書がそうした研究に言及していれば人種や性差の恣意性をさらに効果的に明らかにしただろう。とはいえ本書を読めば、日本で当たり前のように語られる言葉が実は存在する差別を不可視化していることに気付かされ、差別をないことにするのではなく、あるものとして向き合い克服する道筋を探究するための格好の導入になることは疑いない。

アジア人とアジア系アフリカ人と私たち

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兼子歩

(かねこ・あゆむ)明治大学准教授。北海道大学大学院文学研究科博士後期課程単位修得退学、修士(文学)。専門はアメリカ社会史、ジェンダー研究。共著に『「ヘイト」に抗するアメリカ史:マジョリティを問い直す』(彩流社)、『「ヘイト」の時代のアメリカ史:人種・民族・国籍を考える』(彩流社)ほか。

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