ある災厄が起こるたびに、読み直され、あらためてその先見性が確認され、その含みがさらに理解され、筆者の名声も高まるという、そうお目にかかれるものではないレアなテキストがある。近年の代表例がマイク・デイヴィスのThe Case for Letting Malibu Burnだろう。
ベストセラーとなった著書『恐怖のエコロジー(Ecology of Fear)』(未邦訳)の1章として1995年に公刊され、世に知られることになった当初、「マリブを燃えるにまかせるべき理由」という意味のどえらく挑発的なタイトルと内容から、この論考は、はげしい非難を浴びた。しかし、その後、ロサンゼルスのマリブ、あるいはその近辺が山火事にさらされるたびに、このエッセイは参照され、言及され、予見性への感嘆が表明され、「破滅の予言者」の地位は揺るぎないものになる。直近のマリブの大火災は、2018年である。
さて、それから6年しかたっていない2024年の12月にマリブはまたも燃えた。12月9日遅くに発生した山火事は、強風にあおられて拡大、マリブの住民数千人が避難を余儀なくされる。しかし、決定的だったのは、今年、2025年である。1月7日、マリブの東側に位置するおなじ高級住宅街のパシフィック・パリセーズであがった火の手は、またたくまにまたもマリブも呑み込んだ。そればかりか、同日、ロサンゼルス郡アルタデナのイートン地区からも火の手があがると、それら以外の複数地域で、同時に猛火が荒れ狂った。
マリブは、ロサンゼルス郡の美しい海岸部に造成された高級住宅地で、住宅販売価格の中央値は400万ドル(およそ6億800万円)を超える。このたびの火災で、この地に家屋をもつセレブたち、パリス・ヒルトンは、別荘が灰と化していくのを茫然とニュースで眺めていた。メル・ギブソンは、10年以上住み慣れた自宅とそのなじんだものの消失をまのあたりにした。
こうして、このたびもまた、マイク・デイヴィスとそのテキストはさかんにひきあいにだされたわけだが、わたしたちの「破滅の予言者」は、すでにこの世を去っていた。
デイヴィスについては次回もすこしふれたいが、かれが独特の研究者あるいは作家として名をあげた『要塞都市LA』の原題はCity of Quartz(「クオーツ(石英)の都市」)である。デイヴィスは「クオーツ」に、ダイヤモンドのようにみえるが実際は不透明な安物という意味を込めた(筆者はときに『水晶の都市』としていたが、水晶は結晶化して透明になってしまっている。ここはクオーツか石英とすべきなのだろう)。訳書タイトルは公刊当時の関心から仕方なかったとはいえ、この本のもつ巨大な深みや厚みを損ねてしまっている。本書は、最盛期を迎えていたポストモダニズムには目もくれず、キラキラした都市の表層と階級とレイスと暴力のもつれあう基盤の両面、「ノワールとサンシャイン」のキメラとしてのこのアメリカ西海岸随一の都市を、壮大なスケールと実証的こまやかさ、そしてレイモンド・チャンドラーら地元作家のノワール文学を通して磨かれた独特の文体によってえがきだした都市史の傑作である。このテキストが世界の都市論(文化シーンもふくめ)に与えた影響は大きく、フォロワーを多数生むことになる。
1990年のその著作から5年後、物議をかもした『恐怖のエコロジー』とその1章は、デイヴィスの偉大な資質―散文家としてと冷徹な分析家としての―と、それ以降の、いわば史的唯物論を自然史のうちに埋め込むというかれの仕事の展開を凝縮したようなテキストである。それはまず、ロスの夏(「地獄の季節」)のプロレタリア街ウエストレイク(「ロスのスパニッシュ・ハーレム」)からはじまる。「その過密長屋」(「テネメント」という)は、たえがたいオーブンだ。狭い部屋で窒息しそうな移民の家族は、非常階段や歩道に逃げ込む。不安げな母親たちは赤ん坊の額に水を塗り、スモッグで目がチカチカする年長の子どもたちはかき氷をもとめて泣き叫ぶ。上半身裸の若い男たち―なかには刑務所で鍛えられたおそろしいほど発達した上腕二頭筋や、背中にグアダルーペの聖母の壁画のようなタトゥーを入れている者もいる―が、屋台のテントの木陰を独占している。何百エーカーもの溶けたアスファルトとコンクリートには、雑草はおろか、芝生や木もほとんど生えていない」。ところが「30マイル[約48キロ]離れたマリブ海岸は、大げさな表現と波がぶつかり合う場所で、まったく異なる天候に恵まれている。気温は摂氏29℃(ダウンタウンよりおよそ5℃低い)で、コバルトブルーの空は、50マイル近く沖合にあるサンタバーバラ島がうっすらみえるほど澄んでいる。……「内陸」の悲惨に無関心なマリブの住人たちは、今日もまた退屈なまでに完璧な一日をすごす」。