〈移行期正義(Transitional Justice)〉……過去に大きな不正や人権侵害があった社会が、真実を追求して責任の所在を明確にすると共に、分断された社会の和解をめざし、より良い未来を築くために行なうプロセスのこと。
これまでの記事はこちら(連載:台湾・麗しの島〈ふぉるもさ〉だより)
「移行期正義」は、翻訳された言葉である。もとは英語で〝Transitional justice〟、台湾では〝転型正義〟と訳される。こうした取り組みが、東欧やラテンアメリカ、南アフリカなど世界各地で制度化されはじめたのが1990年代のことだ。
移行期正義を個人的なできごとで考えてみるなら、例えば、すごく大変な被害経験をした人が、加害者に賠償させたり、刑事罰を受けさせたりすることで、一応そのできごとに表面的な決着をつけたとする(応報的正義(1))。しかし、その後もフラッシュバックに襲われたり、自分に自信を無くしてしまったりを繰り返す。そこで医療の助けを借りたり、まわりの人たちにも関わってもらい、同じような経験をしたひとたちと繋がり、そのようなできごとが起こらないよう周知や教育によって世間の理解とコンセンサスを得て、ようやくその経験について手放すということがあるとする(修復的正義)。移行期正義とは、そうした過程の社会版、国家版ということができるかもしれない。
台湾で開花した移行期正義
もうひとつ、東アジアの移行期正義には「ポスト独裁型」「ポスト紛争型」「ポスト植民地型」の3つが堆積して形成された重層的な構造との指摘もある(2)。台湾において「ポスト独裁型」の代表格といえるのが、戦後の国民党の独裁政権下に起きたことを対象としたもので、二二八事件、白色テロ、党産(後述)処理など、これが今までの台湾における移行期正義の取り組みのメインといえる。
二二八事件や白色テロについては、民主化とともに事件の真相と補償を求める社会運動が活発化した。それが結実し、1989年に南部の嘉義市において民間の手で二二八記念碑が建立されて以降、各地で記念碑が建てられた。
1992年には政府が初めて研究報告書を公開、補償条例が作られ、一般の被害者への補償が始まった。1995年には現職総統として初めて李登輝元総統が正式に遺族に謝罪し、記念碑が建立される。民進党の陳水扁総統の時代には、二二八事件の加害責任者として蒋介石に焦点があたり、移行期正義として「脱蒋介石化」を進めた。具体的には、蒋介石の権威を象徴するような名称が見直され、銅像が撤去された。
馬英九総統時代には、陳水扁時代に「台湾民主紀念館」に改称されていたのが、中正記念堂という元の名前に戻されたが、「二二八や白色テロは国家が慰霊すべきもの」というコンセンサスは継承された。こうして政権が交代するたびに、移行期正義の揺り戻しがありつつも、人権意識の底上げは進んだ。
そして、移行期正義を重要な政策の柱とした蔡英文時代にようやく「転型正義」の名前を冠した条例や委員会が設置される。党産とは、戦後に国民党が台湾で接収した日本植民地期の土地や会社、組織のことをいうが、それらの所持を不当として国家に返還させるための制度改革も行なわれた。中正記念堂の中立化も積極的になされ、「台湾の人権と自由民主への道のり」に関する常設展も開設された。その流れで、昨年7月には儀仗隊(ぎじょうたい)の立哨や交代の儀式など、それまで蒋介石像前で行なわれていたパフォーマンスが広場に移された。これは日本語のニュースにもなったが、日本のSNSなどでは「なんでわざわざ?」という反応が多かった。事情を知らない日本では仕方のない反応とは思うが、犠牲者やその家族を中心として市民が粘り強く移行期正義に取り組んできた文脈のうえでは、ぱっと見は小さなことのようでも、一つずつの取り組みが大切な意味をもつ。
一方で、ポストコロニアル型の移行期正義として代表的なのが台湾原住民族の権利回復運動で、原住民族の権利に関する法律の改正や枠組みへのより具体的なアプローチもなされている。
以上、民主化以降のここ三十数年の移行期正義プロセスのなかで、複数の異なる歴史経験や歴史認識に向き合いながら、語りづらい歴史をどのように語るかということについて、台湾のひとびとは深く考え、訓練を受けてきたといえる。そんな土壌のうえに育ったのが台湾のクリエイターたちで、特に近年は国際的な注目をも受けている。しかし、そんな台湾の文化につい最近、暗雲が垂れ込めてきた。