【連載】Sounds of the World(第10回)ジェーン・バーキン

石田昌隆(フォトグラファー)
2025/03/02
ジェーン・バーキン(2011年4月7日)©︎石田昌隆

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 2011年3月11日の午後、東日本大震災が起こった。ジェーン・バーキンは、そのニュースを自宅のテレビで見た。

 「灰色の大きな波が来て、自動車が呑み込まれていく映像を見ました。はやく逃げてと思いながら見ていました。その後、原子力発電所の事故のニュースが入ってきました。避難所が雪に覆われている過酷なシーンも目にしました。フランスやイギリスだけでなく、世界中の人がテレビにかじりついていたと思います。船がビルの屋上に上がっていたり(岩手県大槌町、観光船〈はまゆり〉がビルの上に乗り上げた)、屋上に〝SOS〟と書かれていたり(宮城県岩沼市、南浜中央病院)。それから、女性が泥の中から家族を捜している様子がフランスの雑誌の表紙になりました。感情を押し殺した感じが日本人らしくて印象的です(読売新聞の大久保忠司記者が3月13日の朝に撮影した毛布の女性、杉本優子さんの写真が『パリ・マッチ』と『ル・ヌーヴェル・オプセルヴァトゥール』の表紙に使われた)。それは想像を絶する風景でした。避難所に身を寄せている人々の映像を見たとき、私に何ができるかと考えました」

 ジェーン・バーキンはまず、本人が使用していたエルメスの〝バーキンバッグ〟をチャリティ・オークションに出品して16万3000ドルで落札された。3月31日、ジェーン・バーキンは、パリの自宅から被災した日本への思いを語る映像をユーチューブにアップした。そして自腹で飛行機のチケットを買い、ひとりで日本にやって来た。4月6日と7日、私は同行取材することができた。

 東日本大震災では、広域で発生した津波などで、震災関連死を含む死者、行方不明者の数は2万2000人超におよんだ。さらに、福島第一原子力発電所事故によって深刻な事態になっていた。

 ジェーン・バーキンはその前年、2010年1月12日に起こったハイチ地震の直後にも現地に駆けつけていた。ハイチ地震は死者30万人とも言われていて東日本大震災より大きな被害を出したが、フランスでの報道は東日本大震災のほうが大きかったという。

 「友人たちから、日本に行くのは危険だと止められました。地震や津波のこと以上に、原子力発電所の事故をみんな怖がっていたのです。正直言えば、東京でどんな状況が私を待っているのか、来るまで判りませんでした。娘のシャルロットは、靴を3足持っていけとか、マスクをしなさいとか、寿司は絶対食べちゃダメとか、本当に心配していました」

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石田昌隆

1958年生まれ。フォトグラファー。新刊『ストラグル Reggae meets Punk in the UK』が出ました。1982年にニューヨークでザ・クラッシュを撮影した写真に始まり、2023年にひとりでカメラ機材やテントや寝袋を持って飛行機に乗り、ロンドンと音楽フェスが行なわれたイースト・サセックス州を訪ねたときまで41年間の記録です。

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