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あるカハネ主義者の遍歴
イタマール・ベン=グヴィルは、1976年にエルサレム近郊のメヴァセレット・シオンで生まれた(1)。両親はともにイラク北部のクルディスタン出身で、母親はイスラエル建国前の数年間、シオニストの地下組織「イルグン」で反英活動に携わった。穏健な伝統派の両親は戒律には厳しくなかったが、ベン=グヴィルは十代でユダヤ教の信仰に目覚め、第一次インティファーダをきっかけに過激化し、ユダヤ教高等学院(イェシヴァ)のラビを通じて、アラブ人排斥とユダヤ法(ハラハー)に基づく神権国家の樹立をめざすカハネ主義に傾倒した。ベン=グヴィルは、カハネに心酔した若者の多くと同様、「カハネは正しかった」「アラブ人は出ていけ!」といった落書きやアラブ人住宅への破壊行為を繰り返しては何度も逮捕された。そのような過激思想と逮捕歴のために、イスラエル国防軍は、徴兵制にもかかわらず彼の入隊を許さなかった。
(1) ベン=グヴィルの経歴については、とくに以下を参照。Ruth Margalit, “Itamar Ben-Gvir, Israel’s Minister of Chaos,” The New Yorker, February 20, 2023.
2000年に第二次インティファーダが勃発し、パレスチナ人による自爆テロの激増を受けてイスラエル社会は総じて右傾化し、「二国家解決」は急速に支持を失っていった。こうした趨勢に好機を読み取ったベン=グヴィルは、アラブ人に対する排斥行為に加えて、左翼系の文化人に罵声を浴びせたり、LGBTのパレードに卵を投げつけるといった扇動行為を繰り返し、プリム祭(ユダヤ教版カーニヴァル)では「ユダヤ人テロリスト」ゴールドシュテインに扮装した。2011年、ベン=グヴィルはメディア関係者をテルアビブの公共プールに招き、40名ほどのスーダン人難民(2)を伴って現れた。カメラの前で彼らをプールに入場させて水着を配った彼は、「スーダン人に人権を与えれば、ここにやって来るということを、甘やかされたテルアビブの人びとに理解してもらいたい」と述べた。
(2) 2006年以降、エジプトに滞在していたスーダンとエリトリア出身の亡命希望者数千人がエジプトでの迫害から逃れてイスラエルに流入し、その多くが難民申請を提出した。ほとんどの難民申請は却下されたが、2011年にイスラエル最高裁が難民や亡命希望者の労働を合法化したため、彼らの処遇をめぐる論争が激化した。
こうした排外主義のわかりやすいパフォーマンスと並んで、ベン=グヴィルを入植者の間で一目置かれる存在にしたのは、弁護士としての活動だった。同じく筋金入りのカハネ主義者で、占領地に違法な前哨地を築いた行為で逮捕歴もあった少女との結婚を機に(3)、彼はアラブ人に対するテロ行為やヘイトクライムの容疑で起訴された入植者を司法から守る必要性を痛感し、法律の勉強をした。イスラエル弁護士協会は、50回以上の逮捕歴のあったベン=グヴィルの司法試験の受験に難色を示したが、2年間の闘争の末、彼は受験資格を得て司法試験に合格した。弁護士となった彼は、生後18カ月の乳児を含む3名のパレスチナ人が殺害された悪名高いドゥマ(Duma)放火事件(2015年7月31日(4))で起訴された二人の若者や、人種隔離政策を推進する極右団体「レハヴァ」(Lehava)の所長ベンツィ・ゴプシュテイン(2024年4月、バイデン政権下で制裁リストに加えられた)など、最も過激で危険な入植活動家の弁護を通じて極右界隈で評判を高めていった。
(3) 二人の初デートの場所はゴールドシュテインの墓だったという。
(4) 同年12月、カハネ主義者の結婚式に参加していた者たちの間で、武器を掲げたダンスが始まり、ゲストの一人が焼き殺された赤ん坊の写真にナイフで突き刺す様子を写した動画が公開され、イスラエル社会に衝撃を与えた。ベン=グヴィルはその結婚式に参加していたが、後に、赤ん坊の写真は見ていないと述べた。
イスラエルの政治の変貌と極右政党の台頭
イスラエルでは建国以来、労働党を中心とする政権が約30年続いた後、1977年以降は修正主義シオニズムを奉じる右派リクード中心の政権が約15年続き、その後はリクードと労働党中心の政権がしのぎを削った。クネセットの選挙では議会第一党が絶対多数を占めることができず、単独政党で組閣できないことから、得票数で第3位につけた宗教政党と連立を組むのが常だった。歴代の連立政権の一翼を担ってきたのは、1992年までは宗教シオニストの国家宗教党(マフダル)であり、その後、2005年にアリエル・シャロンがリクードを割って作った中道政党「カディマ」中心の政権(2009年3月に解散)までは超正統派政党「シャス」がキャスティング・ボートを握った。そのため、世俗の主要政党は連立を組む宗教政党の要請に一定の配慮を見せるか、しばしばその要求に事実上屈する形で宗教的なアジェンダを後押しするような慣例ができあがった。