平和教育・政治教育における政治的中立性

前川喜平(元文部科学事務次官)
2026/07/05
Entrance to a stone building with a large white overhang, concrete steps, and vertical Japanese signs beside dark doors; urban street visible to the left.
Black magazine spread with vertical white Japanese text on the right and a white-framed drawing of six women in black dresses on the left.
2026年8月号特集「教育と平和」

公平性を欠いた「狙い撃ち」

 同志社国際高校の沖縄研修旅行中に3月16日名護市辺野古沖で起きた小型船転覆事故について、文部科学省は4月24日、同校に対し異例の「現地調査」を行なった結果、同校の辺野古での学習活動は「政治的活動を禁じる教育基本法第14条第2項に反するもの」だったと「認定」し、5月22日に同校を設置する学校法人同志社と同校の所轄庁である京都府に対し指導通知を発出した。通知と同じ日の記者会見で松本洋平文部科学大臣は、同校の辺野古での学習活動が「事前の計画や当日の対応、安全管理」だけでなく「教育活動の状況」についても「著しく不適切」だったと発言した。

 結論から言えば、この指導通知と大臣発言は、高市自維連立政権という親米右派(もっと強く言えば従米極右)政権が、政権批判につながる平和教育や政治教育を抑圧するために、不幸な事故を政治利用し、法律に基づく指導を装って行なった、教育への違法な政治介入だと言ってよい。同志社国際高校を「狙い撃ち」して、全国の学校に対し「一罰百戒」的な萎縮効果を与えようとしたものだ。

 生徒を抗議船に乗せたことについては、法令遵守や安全管理の点で、ヘリ基地反対協議会と同志社国際高校の責任が厳しく問われなければならない。しかし、辺野古新基地建設反対運動について学ぶことの意義は、それとはまったく関係がない。辺野古を学ぶことを通じて、沖縄戦から現在に至るまで沖縄が強いられてきた犠牲、戦後の平和憲法と日米安全保障体制の関係、「中国脅威論」と「抑止力論」、アメリカが沖縄を出撃基地として行なってきた戦争、橋本龍太郎元首相や鳩山由紀夫元首相の対米政策・対アジア政策など、学べることはたくさんある。そこには当然、現実の政治への批判的な視点が含まれてくる。だからこそ、高市親米右派政権による「狙い撃ち」の標的になったのだ。

 この「狙い撃ち」は行政としての公平性を著しく欠いている。森友学園の幼稚園では幼児たちに「安倍首相がんばれ」「安保法制国会通過良かったです」などと唱えさせていたし、京都市立西京高校は沖縄で実施したフィールドワークの際に米軍基地内で生徒に射撃体験をさせていたが、文科省は調査も指導もしていない。同志社国際高校の辺野古での学習を「違法認定」し「指導」するなら、幼稚園から大学まで全国5万校のすべての学校を常時監視し、随時「違法認定」や「指導」をしなければならなくなるはずだが、そんなことは実際上不可能だ。

教基法「政治的活動」の恣意的な解釈

 教基法14条2項は「法律に定める学校は、特定の政党を支持し、又はこれに反対するための政治教育その他政治的活動をしてはならない」と定めている。これは2006年改正以前の8条2項をそっくり引き移した条項だ。1947年に文部省内の「教育法令研究会」が著した「教育基本法の解説」では、「政治教育」と「政治的活動」を切り分けることなく、この条項全体を「学校教育の中に一党一派の政治的偏見が持ちこまれてはならない」という趣旨で説明している。したがって、当時の文部省は「特定の政党……ための」という限定が「政治教育」と「政治的活動」の両方に係ると解釈していたと考えられる。この解釈に従うなら、今回の辺野古での学習活動に特定の政党を支持したり反対したりする目的は認められないから、この条項には違反していないことになる。

 しかし現在の文科省は、「特定の政党……ための」という限定は「政治教育」にのみ係ると解釈している。これは現在の法令執務上は確かに妥当な解釈だ。「Aその他のB」と書いてあればAはBの例示であってAとBは一括りに読むが、「Aその他B」と書いてある場合はAとBとは並列的な関係であってAはBには含まれず、Aの前に置かれた限定はBには係らない。この解釈に従うなら、教基法14条2項が禁じる「政治的活動」には何の限定もなく、その範囲は恣意的な解釈でいくらでも広がり得る。

 文科省は辺野古での学習について、様々な見解を十分に提示していたことが確認できなかったこと、開会礼拝で辺野古への移設工事に反対する抗議活動の説明が行なわれていたこと、辺野古テント村への訪問や抗議船による見学を実施したことなどを「総合的に勘案」すれば「政治的活動」に当たると「認定」したが、これは結論ありきの恣意的な「認定」だと言わざるを得ない。

政権与党に支配される文科省と「政治的中立性」

 そもそも、そのような「認定」を文科省が行なうことに問題がある。教育の政治的中立性を「認定」するのであれば、その認定主体自体が政治的に中立でなければならない。しかし文科省は政党政治の下で機能しており、その長である文科大臣は政党内閣の閣僚だ。文科省自体が政権与党に支配される機関なのだから、政治的中立性を認定する資格はない。文科省が「認定」する限り、政権に従順な学習は「政治的活動」とされず、政権批判を含む学習は「政治的活動」とされることになるだろう。「政治的中立性」は政権批判を封じるための魔法の言葉になるのだ。

 もし敢えて国が個々の学校の教育活動について政治的中立性の有無を認定しようとするなら、政党政治から独立した国家機関(たとえば、旧日本学術会議やユネスコ国内委員会のような合議制機関)を設ける必要がある。しかしそのような中立的な機関を作ったとしても全国の学校を常時監視することなど不可能だ。

 けっきょく、教基法14条2項は、基本的に教育者自身の自律のための規範だと考えるほかない。国が個別の学校を「指導」するための規範ではないのだ。

文科省を支配する政治の右傾化

 メディアでは文科省が「初めて」教基法14条2項違反を「認定」したことがニュースになった。そのような「認定」に前例がなかったのは、従来の文科省に個別の学校の教育活動への介入に慎重な姿勢があったからだ。しかし、あえて今回「初めて」それを行なった背後には、右傾化した政治からの圧力があった。国会では自民党、日本維新の会、参政党などから辺野古での学習の政治的中立性を問題視する質問があった。各党の文部科学部会では、おそらくもっと激しい文科省への突き上げがあっただろう。4月16日に自民党政務調査会が発表した「提言」は、「教育基本法や学習指導要領に則り、適切な教育活動が行われていたか否かについて(中略)徹底的な確認を行うこと」を求めた。17日には日本維新の会が「適切な教育活動であったか否かについて客観的な事実に基づき必要な確認を行うこと」を求める「提言」を官房長官に提出した。

 文科省は4月7日に「学校における校外活動の安全確保の徹底等について」と題する通知を全国の学校設置者に向けて発出し、その中で「適切な教育活動の実施」も求めていた。こうした一般的な注意喚起の通知を行なって行政責任を果たしたことにするのは、文科省の常套手段だ。今回も当初はそれで済ませようとしたと思われる。それでも政治の圧力が収まらない場合は、有識者会議で検討することにして圧力が弱まるのを待つという手段もあった。

 しかし、今回文科省はそうした圧力回避の手段を取らず、「現地調査」「違法認定」「指導通知」まで踏み込んだ。それだけ政治の圧力が強かったのだろうが、文部官僚の側にも右傾化した政治に迎合する姿勢があったのだろう。文部官僚がかつて持っていた慎重さや謙抑性が失われているのではないかと感じる。

 文科省を支配する政治の右傾化が強まった理由としては、自民党内最右翼の高市氏が首相になったことや公明党に代わって日本維新の会が連立与党となったことが大きいだろう。自民党でも日本維新の会でも、文部科学部会に出てくる議員には右派が多い。彼らは、愛国心を植え付ける道徳教育、歴史修正主義による歴史教育、国防を重視する公民教育などを行なうよう圧力をかけ、教育現場への政治介入に何のためらいもない。そういう政治家たちによる文科省支配が、今回の「指導通知」に表れたのだと言える。

指導通知は教基法が禁じる「不当な支配」に当たる

 政治からの圧力の下で出された今回の指導通知は、法律に基づく指導という体裁をとっているが、その本質は、教基法16条1項が禁じる教育への「不当な支配」に当たる、違法な政治介入である。

 「教育は、不当な支配に服することなく……行われるべきもの」という文言は、改正前の10条1項にあった。それが改正後も16条1項にかろうじて生き残った。1947年3月に帝国議会で教育基本法案が審議された際、当時の文部省の辻田力学校教育局長はその答弁で、10条1項は「教育権の独立」という精神を表わしたものだと述べ、「不当な支配」の主体として「政党」と「官僚」を例示した。政治権力を握る者が「教育権の独立」にとって最も危険だと考えていたのだ。それは今も変わらない。

 2006年の改正で教基法には「国を愛する態度を養う」など国家主義的な文言が加えられたが、「日本国憲法の精神」「個人の尊厳」「学問の自由」など重要な言葉はなんとか生き残った。私はこれらを「焼け跡に焼け残った柱」と呼んでいる。そこに憲法の光を当てれば、これらの言葉は今でも教育の拠り所にできる。「不当な支配に服することなく」という言葉もその一つであり、それは憲法23条の「学問の自由」に支えられている。

 しかし「不当な支配に服することなく」に続く文言は、「(教育は)国民全体に対し直接に責任を負つて行われるべきもの」から「(教育は)この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきもの」へと大きく変えられた。この文言を根拠に、文科省は「法律に基づく行政行為は不当な支配には当たらない」と主張する。今回の指導通知についても、教基法14条2項に基づく指導であり、その有権解釈権は文科省にあるのだから、不当な支配には当たらないと言うだろう。だが、法律の根拠があったとしても、政治的な意図をもって教育に介入すれば、それは不当な支配であり、教育の政治的中立性を侵害することになるのだ。

「現実の具体的な政治的事象」を学ぶことを求めた

■2015年通知

 平和教育と政治教育は、民主主義を担う賢明な主権者を育てる上で極めて重要だ。改正後の教基法においても、1条では「教育の目的」として「平和で民主的な国家及び社会の形成者」としての国民の育成が謳われており、14条1項では「良識ある公民として必要な政治的教養は、教育上尊重されなければならない」と規定されている。

 政治教育に関しては、2015年10月29日付で文科省が発出した「高等学校等における政治的教養の教育と高等学校等の生徒による政治的活動等について」と題する通知がある。この通知は、同年5月の法改正による18歳選挙権・国民投票権の法制化に対応し、1969年10月31日付で出した「高等学校における政治的教養と政治的活動について」と題する通知を上書きするために発出された。

 1969年通知は、当時多発していた学園紛争に対処するために出された。高校生は未成年者であるから「国家・社会としては未成年者が政治的活動を行なうことを期待していないし、むしろ行なわないよう要請している」として、学校内での活動はもとより「放課後、休日等に学校外で行なわれる生徒の政治的活動」についても「学校が教育上の観点から望ましくないとして生徒を指導することは当然である」としていた。また「政治的教養の教育」については、義務の遂行や国家・社会の秩序の維持などに言及して、主権者としての政治参加よりも被統治者としての心構えを強調するような記述になっており、「現実の具体的な政治的事象」については「慎重に取り扱うこと」を求めていた。

 これに対し2015年通知は、高校生の政治的活動について、学校内では「必要かつ合理的な範囲内で制約を受ける」としつつ「放課後や休日等に学校の構外で行われる選挙運動や政治的活動」については、学校の指導の対象とせず「家庭の理解の下、生徒が判断し、行うものである」として、生徒の主体性を尊重する姿勢を示した。

 注目されるのは「現実の具体的な政治的事象」の取り扱いの変化だ。「議会制民主主義など民主主義の意義、政策形成の仕組みや選挙の仕組みなどの政治や選挙の理解に加えて現実の具体的な政治的事象も取り扱い、生徒が国民投票の投票権や選挙権を有する者……として自らの判断で権利を行使することができるよう、具体的かつ実践的な指導を行うことが重要です」として、従来の消極姿勢から積極姿勢に転じた。辺野古新基地建設問題は、まさに「現実の具体的な政治的事象」だから、これを学習課題にすることは2015年通知の趣旨にもかなっているのだ。

政治教育と政治的中立性

 しかし、教師の政治的中立性については、この通知は1969年通知を踏襲し、教師に「個人的な主義主張を述べることは避け」るよう求めるだけでなく、「その言動が生徒の人格形成に与える影響が極めて大きいことに留意し、学校の内外を問わずその地位を利用して特定の政治的立場に立って生徒に接することのないよう、また不用意に地位を利用した結果とならないようにすること」まで求めた。これは教師の表現の自由に対する過度の制限だと言わねばならない。教師がデモや集会に参加したり、自分の支持又は反対する政党、政治家、政策についてSNSに投稿したりすることが、教え子の目に触れて「不用意に地位を利用した結果」になるかもしれないと思えば、自制しようとする配慮が働くだろう。この通知はそういう教師の自主規制を期待しているのだ。

 政治教育と政治的中立性の関係について参考になるのは、ドイツにおける政治教育のガイドラインである「ボイテルスバッハ・コンセンサス」だ。1976年に当時の西ドイツで政治教育に関わる研究者たちがボイテルスバッハという町に集まり議論を重ねて合意したもので、次の3つの原則からなる。

 圧倒の禁止の原則 教員は生徒を期待される見解をもって圧倒し、生徒が自らの判断を獲得するのを妨げてはならない。

 論争性の原則 学問と政治の世界において議論があることは、授業においても議論があることとして扱う。

 生徒志向の原則 生徒が自らの関心・利害に基づいて効果的に政治に参加できるよう、必要な能力の獲得を促す。

 2015年通知とボイテルスバッハ・コンセンサスの最大の違いは、前者は教師が個人的な主義主張を述べないよう求めているのに対し、後者はそれを容認していることだ。「圧倒の禁止の原則」は教師が自分の見解を生徒に押し付けることを禁じているが、「論争性の原則」により自分の見解と対立する見解もきちんと提示するなら、自分の見解を述べることを禁じてはいない。この違いは、前提となる生徒像の違いから来ている。2015年通知が前提とする生徒像は、教師の影響を受けやすく、教師が右と言えば右、左と言えば左を向く、主体性に欠ける人間だが、ボイテルスバッハ・コンセンサスが前提とする生徒像は、自らの関心・利害に基づいて判断し、政治参加する、主体的な人間だ。この主体性の尊重こそが主権者を育てる要諦だ。教師は自分の見解を述べる時、それに反対する生徒が出てくることを期待し、歓迎すべきなのだ。そこから対話が生まれ、より深い学びが可能になるだろう。文科省は「主体的・対話的で深い学び」を目指すと言うのなら、ボイテルスバッハ・コンセンサスの考え方をとるべきである。

前川喜平

元文部科学事務次官。1955年生まれ。1979年東京大学法学部卒業、文部省(現文部科学省)入省。大臣官房長、初等中等教育局長などを経て2016年文部科学事務次官。2017年退官。

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