【関連】特集「戦後でありつづける――不戦の百年へ〈2〉」(2026年8月号)
【関連】特集「不戦の百年へ〈1〉」(2025年8月号)
2024年12月に日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)がノーベル平和賞を受賞して以降、被爆地からの発信に逆行する出来事が相次いだ。
核大国ロシアの非核国ウクライナへの侵攻、事実上の核武装国イスラエルのガザ地区攻撃が終わらないばかりか、もう一つの核大国である米国がイスラエルとともに、核開発疑惑があるとの理由でイランを攻撃した。米ロ間の唯一の核軍縮条約だった新STARTも失効してしまった。
被爆地からの発信は無力なのか。時にそんな思いもよぎるが、そのたびに同じ結論にいたる。長崎、広島が核廃絶をあきらめたら、世界の多くの人々を失望させ、今とは異なる未来づくりが一段と遠ざかる。この結論に立脚して、平和教育に携わってきた私自身について記してみる。
平和教育との出会い
私は長崎市で生まれ育った被爆3世である。私が最初に出会った被爆者は祖父だった。1945年8月。祖父は長崎大学の前身校である長崎医科大学を卒業したばかりの青年医師で、軍医の訓練を受けるために東北地方にいた。長崎に新型爆弾(原爆)が投下されたとの知らせを受け、急ぎ長崎市に戻った。一医師としてまた巡回診療班の班長として来る日も来る日も、被爆者の治療に当たった。その結果、入市被爆した。
幼少期、母から祖父の被爆体験を聞いた私は、その意味を十分に理解していなかった。「おじいちゃんは、ひばくしゃ。お医者さん。私はひばくさんせい。おじいちゃんとちょっとだけ似ている」と、むしろ「ひばく」を祖父と自分を結ぶ印のように、どこか誇らしく受け止めていた記憶さえある。
小学校に入学後、「ひばく」の捉え方は大きく変わった。きっかけが平和教育である。さまざまなプログラムが組まれたが、8月9日の登校日には毎年異なる被爆者から被爆体験講話を聴いた。被爆者は自身の傷跡や当時の写真を示し、時には紙芝居を手にしながら、被爆の実相を涙ながらに語った。魂のこもった語りに触れ、「ひばく」の恐ろしさと平和の大切さを深く子ども心に刻んだ。
今でいうトラウマも少し感じた。小学校低学年の頃は、原爆を投下したB 29の想像の音と、自分の上空を飛ぶヘリコプターの音が重なり、恐れるようになった。音が聞こえるたびに建物の中へ駆け込んでいたことをよく覚えている。それでも、被爆のことから目をそらすことにはならなかった。原爆の恐怖にたじろぐ自分がいる一方で、被爆者が繰り返し訴えてきた「長崎を最後の被爆地に」という強い願いにも心を揺さぶられ、その思いを受け継ぎ、核兵器廃絶を目指さなければならないとの感覚が自然と身についていった。
中高生へと成長していくにつれて、原爆を「怖いもの」として受け止め、思考を止めてしまうのではなく、過去から学びながら、自分たちがどのような未来を生きたいのかを主体的に考えられる――自分に明確な答えはないものの、そんな未来志向の平和教育が必要ではないかと考えるようになった。高校の時に、病のせいで父を失い、いのちとその大切さについてより現実感をもって思いをはせるようになった。






