【連載】Sounds of the World(第22回)ビョーク

石田昌隆(フォトグラファー)
2026/03/05
ビョーク(1998年8月1日)©️石田昌隆

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 グリーンランドは、一九五三年までデンマークの植民地だった。その後デンマークのアムト(県)になり、七九年に自治政府が発足、デンマークの自治領となった。面積は日本の六倍近い二一六万平方キロで、人口は五万五〇〇〇人。そのうち八〜九割が先住民族、カラーリットと言われるイヌイットで、ほぼすべての住民がデンマーク語も理解するが、五万二〇〇〇人がグリーンランド語(イヌイット語のグリーンランド方言)の話者だという。

 アイスランドのミュージシャン、ビョークは、二〇二六年一月五日、X(旧ツイッター)に、グリーンランドの旗をあしらったグリーンランドの地図の画像を添えてこのような投稿をした。

 「グリーンランドの人々全員に、独立のための戦いが成功することを祈ります。アイスランド人は、一九四四年にデンマークから独立できたことに安堵しています。私たちは言語を失いませんでした(独立できなかったら、私の子どもたちは今ごろアイスランド語ではなくデンマーク語を話していたでしょう)。私はグリーンランドの人々への同情で胸がいっぱいになります。特に一九六六年から七〇年にかけて、医療検査中にデンマークの医師がグリーンランドの人口を減らすために、四五〇〇人の女性にIUD(子宮内避妊器具)を装着した強制避妊事件のこと。そして今もデンマーク人はグリーンランドの人々を二級人間のように扱っています。親から子どもを引き離すなんて(デンマークには育児能力テストという制度があり、点数が低いと子どもが強制的に介護施設に預けられるが、デンマーク語に堪能でないグリーンランド語話者の親が誤審されるケースがある)。植民地主義は何度も私の背筋を凍りつかせる恐怖を与えてきました。グリーンランドの同胞たちにとって、植民者が別の植民者に変わるかもしれないという可能性はあまりに残酷です。“úr öskunni í eldinn” (アイスランド語の慣用句で、直訳すると灰の中から炎の中へ。悪い状況から逃れたら、さらに悪い状況に陥ること)。親愛なるグリーンランドの人々よ、独立を宣言せよ。隣人からの願いと温かさをもって。ビョーク」〔丸カッコ内は引用者注を加えています。〕

 その前々日、米国がベネズエラに対する軍事作戦を実施した直後の一月三日に、ドナルド・トランプ米大統領のスティーヴン・ミラー次席補佐官の妻で、みずからもインフルエンサーであるケイティ・ミラーが、グリーンランドの領有に意欲を示すトランプの意を汲んで、Xに、アメリカ国旗の色で塗られたグリーンランドの地図に「SOON(もうすぐ)」という言葉を添えて投稿した。

 デンマークのメッテ・フレデリクセン首相は一月四日、トランプ米大統領に対し、アメリカがグリーンランドを支配するという「脅しをやめる」よう求めた。

 グリーンランドのイェンス=フレデリック・ニールセン自治政府首相は、この投稿に「無礼だ」と不快感を表明。「我々の国は売り物ではない」と言った。

 トランプに取られてしまうのは論外だが、グリーンランドの人々の過半数はデンマークからの独立も願っている。ビョークの投稿は、グリーンランド独立派にエールを送ったものだった。

 それでもイェンス=フレデリック・ニールセンは、一月一三日の記者会見で「今ここでアメリカ合衆国とデンマークのどちらかを選ばなければならないとしたら、私たちはデンマークを選びます。NATOを選び、デンマーク王国を選び、EUを選びます」と明言した。同じ日に「モルドバのマイア・サンドゥ大統領がルーマニアとの統一を支持 〝小国の存続、ますます困難に〟」というニュースが入ってきた。現時点でルーマニアとの統一を支持するモルドバ国民は過半数には達していないものの、ロシアからの攻撃が現実味を帯びてくるなか、小国が独立を維持することは難しいという感覚が共通してあるのだろうと思った。

 ビョークのアルバム『Volta』(二〇〇七年)に〈Declare Independence〉(独立を宣言せよ)という曲が収録されている。この曲のMVで、ビョークはグリーンランドの旗が縫いつけられた衣装を着ていた。

 二〇〇八年二月に東京の日本武道館でライヴを行なったとき、この曲の演奏中に「コソボ! コソボ!」と連呼した。そのため同年七月にセルビアで開催された音楽フェスティバル、イグジットへの出演がキャンセルされた。

 二〇〇八年三月、ビョークは上海国際体操センターで行なわれたコンサートのアンコールで、中国当局から許可を得ていないこの曲を歌いはじめ、突然「チベット! チベット!」「旗を揚げろ(Raise your flag)」と叫んだ。これは大きなニュースになり、中華人民共和国文化部(二〇一八年に国家観光局と統合され、現在は「中華人民共和国文化観光部」となっている)が非難声明を出した。

 ビョークは、ストレートなメッセージも発するが、そもそもミュージシャンとして、マイノリティの歴史や文化と密接に関わるところで音楽を制作していた。

 初めてビョークを撮影したのは、一九九〇年にザ・シュガーキューブスのヴォーカルとして来日したとき。アイスランドの透明感のあるロック・バンドという印象だった。

 ところがソロ・デビュー作『Debut』(一九九三年)を聴いた瞬間、強く惹きつけられた。卓越したソング・ライティングと妖精のように美しい歌が、元ワイルド・バンチで、ソウル・Ⅱ・ソウルでも重要な役割を果たしたネリー・フーパーによってプロデュースされたブリストル・サウンドと組み合わされていた。ブリストルは、バーミンガムやマンチェスターといった工業都市が産業革命の始まりとともに活気が出てくるより前の時代、三角貿易の拠点の港町としてロンドンに次ぐ都市で、一八世紀初頭には黒人奴隷が連れてこられていた。ブリストル・サウンドにはその歴史の記憶が刻まれているように思える。さらに、一九九四年にニューヨークで行なったMTVアンプラグドで目の覚めるようなライヴを行なった。ハープシコードを弾くガイ・シグスワースと、インド系イギリス人、タブラを叩くタルヴィン・シンを中心とする大所帯の変則的なアンサンブルで、アルバムとはまったく異なるアレンジに組み替えて圧倒的に独自の世界を表現していた。

 ビョークはその後、さまざまなミュージシャンと共演する。セカンド『Post』(一九九五年)にトリッキーが二曲で参加、『Post』に収録されている〈Isobel〉のリミックス〈Isobel’s Lonely Heart (Goldie Remix)〉(九五年)をゴールディーが手がけたりと、ブリストル・サウンドからドラムンベースへと連なるイギリスの黒人音楽の歴史ともしっかり交錯していた。

 サード・アルバム『Homogenic』(一九九七年)はアイスランドに回帰するような世界観の美しい音楽だった。

 写真は一九九八年八月一日、東京都豊洲で行なわれたフジ・ロック・フェスティバルに出演したときに撮影した。このときのライヴは、アイスランド弦楽八重奏団とマーク・ベルが操作する機材で作る電子音だけをバックにビョークが歌うというもの。腕と胴体が薄い羽で繋がっているような白いワンピースを着ているところ、そして額のところを白く塗ったメイクも含めて、DVD『Live In Cambridge 1998』と同じセットだった。

 続いて、サントラ『Selmasongs: Music from the Motion Picture Soundtrack Dancer in the Dark』(二〇〇〇年)をはさみ、『Vespertine』(〇一年)をリリース。ビョークはさらに前衛的になった。氷河の彼方で白い妖精が舞っている。そんな現実離れした光景が浮かんだ。スタティックな音に混じっているかすかなノイズが棘となって心に突き刺さってきた。この表現を踏まえた究極のライヴDVDが、二〇〇一年一二月一六日のライヴを収録した『Vespertine Live at Royal Opera House 2001』だ。フルオーケストラに加えて、ジーナ・パーキンスのハープ、グリーンランドのイヌイットの女性聖歌隊によるコーラス、マトモスが奏でるエレクトリックなビートとノイズが見事に絡み合うセットで完璧だった。

石田昌隆

1958年生まれ。フォトグラファー。新刊『ストラグル Reggae meets Punk in the UK』が出ました。1982年にニューヨークでザ・クラッシュを撮影した写真に始まり、2023年にひとりでカメラ機材やテントや寝袋を持って飛行機に乗り、ロンドンと音楽フェスが行なわれたイースト・サセックス州を訪ねたときまで41年間の記録です。

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