【連載】Sounds of the World(第21回)ヤスミン・ハムダン

石田昌隆(フォトグラファー)
2026/02/05
ヤスミン・ハムダン(2014年9月19日)©️石田昌隆

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 ジム・ジャームッシュ監督の映画『オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライヴ』(二〇一三年)の最後のほう。ウイリアム・バロウズやブライアン・ジョーンズらも惹きつけたモロッコの街、タンジールにある薄暗い蛍光灯が光っているカフェで、黒い革のパンツにラメの入った黒いタンクトップのアラブ人女性、ヤスミン・ハムダンが〈Hal〉という曲を歌う。そのシーンが衝撃的にカッコ良かった。

 ドローンとしたギターをバックに官能的な歌を歌い、後半はカルカバ(金属のカスタネット)が8分の6拍子のビートを刻む。アラブ音楽なんだけど、アンダーグラウンドというかオルタナティヴというか。見たことのない光景だった。

 この曲は、ヤスミン・ハムダンのソロ・デビュー作『Ya Nass』(二〇一三年)に収録されている。

 このアルバムにはもう一曲、〈Beirut〉という胸を打つ曲が収録されている。オマル・エル・ゼンニ(Omar el Zenni)が一九三〇年代か四〇年代に書いた詞に曲をつけたもので、ユーモアがあり、それでいて社会性と政治性があって優しい。ヤスミン・ハムダンの故郷、レバノンのベイルートで撮影されたこの曲のMVが素晴らしい。椰子の木が並木になっている海岸沿いの道、ドゴール将軍通り(Avenue Général de Gaulle)や、ベイルート・ルナ・パーク(Beirut Luna Park)など、ベイルートに行ったことのある人にはお馴染みの風景をラフに撮影した映像を挟み込んでいて、メランコリックな表情で歌うヤスミン・ハムダンが最高だ。

 写真は、二〇一四年九月一九日、東京の青山CAYで行なわれた来日公演で撮影した。その前に話を聞いた。

 ヤスミン・ハムダンは、レバノン内戦(一九七五年から九〇年)の最中、七六年にベイルートで生まれた。父はシーア派、母はスンニ派のモスリムだ。生まれてまもなく、エンジニアだった父に連れられて家族はUAE(アラブ首長国連邦)に脱出した。四歳のときベイルートに戻って二年住んだが、八二年にイスラエルが侵攻してきたときキプロスに脱出した。それからいったん戻ったが、父は社会主義者だったので八三年に家族でルーマニアに行ったとき、内戦が激化して戻れなくなりルーマニアにしばらく滞在した後、UAEのアブダビに行き、九歳か一〇歳のときギリシャに移り三年間住んだ。それからクウェートに行ったが、九〇年にサダム・フセインが侵攻してきて家族はレバノンに帰った。内戦が終わったのはその直後。一三歳か一四歳のときだった。

 「私はポスト・ウォー・ジェネレーションです。半分破壊されたベイルートを知っています。街を見ることはとても悲しい。マッシヴ・アタックやポーティスヘッド、ジェフ・バックリィ、フィオナ・アップルを聴いたとき、彼らの音楽はベイルートの街にフィットするように思えました。トリップホップはメランコリーでしょ」

 アラブ音楽に目覚めたのは、その後だった。

 「アスマハーン、アブデル・ワッハーブ、ウンム・クルスームといった大御所。それからシェイク・イマーム(Sheikh Imam)という盲目のシンガー。彼はアクティヴィストで、完全にクレイジー。反政府活動で長年、牢屋に入れられていました。エジプト音楽だけでなく、レバノン、クウェート、イラク、シリアの音楽、なんでも聴きますよ」

 ヤスミン・ハムダンは一九九七年にソープキルズ(Soapkills)というグループで音楽活動を開始した。

 「音楽は抵抗です。アンダーグラウンド・ミュージックの扉を開けたのは私たちです。しかしレバノンのアラブ世界では大きなプレッシャーを感じていました。私はアラビックで、しかも女性なので、政治的立場を告白することで生じる軋轢がありました。孤立して疲れてパリに移り住んだのです」

 ヤスミン・ハムダンは二〇〇五年にパリに移住した。『Ya Nass』は、アラビア語で歌ったアルバムだが、プロデューサーはマルク・コラン(Marc Collin)というフランス人で、ミュージシャンは、イタリアやベトナムにルーツがあったり、アラブにルーツがある人もいるが、みんなパリで活動している人だった。

 ベイルートは、かつては中東のパリと言われていた。ぼくが初めて行ったのは一九九七年一二月から九八年一月。ベイルート中心部、ハムラ(Hamra)地区にあるホテルに一五泊した。

 ベイルートは内戦のとき、グリーン・ラインと呼ばれた幅二〇〇メートルくらいの緩衝地帯によって、イスラム教徒が住む西ベイルートとキリスト教徒が住む東ベイルートに分断されていた。その境界に近い建物には銃撃の跡が生々しく残っていたが、内戦終結後、グリーン・ラインを跨いで真新しい陸橋が架設されて、人や車が自由に往来できるようになった。そのグリーン・ラインの真ん中に大きなクリスマス・ツリーが建てられていた。レバノンでは、イスラム教徒(スンニ派、シーア派、ドゥルーズ派など)とキリスト教徒(マロン派、ギリシャ正教、アルメニア正教など)の人口比率はほぼ五分五分だ。

 この時期のレバノンは、南部でヒズボラ(Hezbollah レバノンのシーア派イスラム主義の政治組織、武装勢力)とイスラエルが対立していて、一九九六年四月一八日にイスラエルがカーナー(Qana)という町を空爆して一〇六人の民間人を殺害したり、レバノン内戦は終結していたがシリア軍が駐留していたりと、不安定な要素はあったものの、ベイルートは戦後復興が進んでいて、ハムラ地区は、デパートや映画館やカフェがあって活気があり、夜でも治安は良い感じだった。

 ハードロックカフェがあったり(二〇一三年に閉店)、CD店が何軒もあった。ベイルート・アメリカン大学の近くにあったインターネット・カフェに行けば、日本語で朝日新聞を見ることもできた。当時はWiFiなどなく、ダイヤルアップの時代だ。

 二回目に行ったのは二〇〇二年八月。四階建ての大規模店舗だったCD店、ヴァージン・メガストアができていた(二〇一八年に閉店)。このときはレバノン南部の街、サイダ(Saida)にも行った。

 そして近年、レバノンは二〇二〇年のベイルート港爆発事故で甚大な被害が出て経済危機に陥った。二〇二三年一〇月七日以後、イスラエルとヒズボラの紛争が再燃。イスラエルはポケベル爆発を起こし、レバノン領土を空爆した。

 そんな時代に出たヤスミン・ハムダンの新作『I Remember I Forget』(二〇二五年)が素晴らしい。プロデューサーは『Ya Nass』以来となるマルク・コランで、音像はさらに深みを増している。

 〈Hon〉の詞は、ヨルダン川西岸地区の北西部、イスラエルとの境界に近いカルキリア(Qalqilia)出身で、現在はパリを拠点にしているパレスチナ人の詩人、一九七五年生まれのアナス・アライリ(Anas Alaili)との共作だ。ベイルート港爆発事故と、その後のパレスチナやレバノンの情勢を遠くから見ている喪失感、ここ(安全なパリ)とあそこ(破壊された故郷)の間で引き裂かれる心情を描いている。

 〈Shmaali〉は、一九六〇年代のシンセサイザーを使って、トリップホップのような浮遊感のあるトラックを作り、そこにタールウィーダ(Tarweeda)という、パレスチナの伝統的な女性の歌、民謡の一種で、人生の喜びや悲しみ、困難、特に自由への闘いなどを歌い上げるオスマン帝国時代の音楽の代表曲を歌い込んでいる。タールウィーダは、女性たちが刑務所の近くで歌い、詩、比喩、象徴を用いることで、脱獄計画を知らせるメッセージをシンプルな民謡に偽装して伝えるという役割などもはたしていたという。ヤスミン・ハムダンは、この曲が現在のパレスチナ人の抵抗や希望、そして悲しみのメッセージを伝え、パレスチナ人のアイデンティティと不屈の精神を体現しているものだと捉えている。女性と男性が輪になって踊るシーンなどを入れているMVも、ルーツ&カルチャーとしての音楽を表現していて素晴らしい。

石田昌隆

1958年生まれ。フォトグラファー。新刊『ストラグル Reggae meets Punk in the UK』が出ました。1982年にニューヨークでザ・クラッシュを撮影した写真に始まり、2023年にひとりでカメラ機材やテントや寝袋を持って飛行機に乗り、ロンドンと音楽フェスが行なわれたイースト・サセックス州を訪ねたときまで41年間の記録です。

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