憲法が「遠い」ことは不思議ではない
2026年の憲法に関するNHK世論調査によると、憲法の理念や内容について「あまり知らない」「まったく知らない」と答える人が59%にのぼる。多くの人にとって、憲法は日常生活から遠く感じられているということだろう。
多数決によっても奪ってはならない自由や「私」の空間があり、そこへ国家が踏み込んではならないと考えるのが近代立憲主義である。どれほど効率的で、どれほど合理的に見えても、国家権力が越えてはならない閾値を示している一線がある。近代憲法は、この線を定め、権力に守らせることに大きな関心を寄せてきた。
このために憲法は、私たちの日々の生活に深く関わる法律や予算の作り方を軸に、通常政治の仕組みを定めている。もしこの仕組みがきちんと働くならば、私たちの自由や人権への深刻な侵害は生じにくいという想定である。そして侵害が生じた場合に備えて、司法による救済・是正のルートも確保されている。通常政治が正常に機能しているとき、憲法そのものは人々の日常生活に前景化されにくいのであって、人々にそっと寄り添い、政治の限界を支えている存在なのである。さらに、とりわけ日本国憲法について見るなら、対外的に作用する実力(軍事力)に関わる国家権力の作動範囲に憲法典が「閾(しきい)」を設けることによって、私たちが日常、意識せずに享受している自由の空間がある(1)。本稿では、これを「憲法典による自由」と呼ぶ。
1 樋口陽一「戦争放棄」樋口陽一編『講座・憲法学 第2巻 主権と国際社会』(日本評論社、1994年)120‐121頁参照。「憲法典による自由」という本稿の表現は、樋口陽一が憲法9条について、日本社会における批判の自由を下支えする意義を持つものとして論じたことに示唆を受けている。
そこで冒頭の世論調査に戻るなら、以上述べたことからも明らかなように、憲法が日常から遠く感じられることには、一定の理由がある。しかし問題は、そうした状況のもとで、改憲への雰囲気だけが煽り立てられている点である。96条の改正手続には、主権者国民による国民投票という過程が組み込まれているが、国民の多くにとっては、十分に理解していない事柄について、最終的な決断だけを促されているように見える。ここで留意すべきは、種々の世論調査にも明らかなように、人はよく知らない事柄についても直感や自己の常識を判断指標として、賛成か反対かを示すことがままあることである。「人間はそういうものだ」という前提に立って、憲法改正問題を考える必要がある。
本稿では、このことを踏まえたうえで、改憲対象の中でも9条を素材とする。2014年7月1日の閣議決定「国の存立を全うし、国民を守るための切れ目のない安全保障法制の整備について」(以下、14年閣議決定という。)以降、特に安全保障分野では、いわばドーナツ型に構造が整備されてきた。中心部分を武力行使に関わる実力のコントロールそのものとすると、ここは依然、憲法9条の縛りが維持されている。しかし、ドーナツの輪の部分、すなわち武力行使の「一歩手前」の部分では憲法との関係は特段のつながりを示すことなく、平時から有事に至る切れ目のない回路が整えられてきた(2)。
2 関連する近時の拙稿として、青井未帆「安全保障から消失した憲法論」『世界』2026年2月号12頁、青井未帆「憲法から見た補充的指示権」岡田正則=金井利行=幸田雅治編『「地方自治の本旨」を侵害する補充的指示権』(日本評論社、2026年)47頁、青井未帆「『例外状態』と身体性――統帥作用・憲法9条・13条から考える2014年閣議決定」『憲法学のポリフォニー』(長谷部恭男先生古稀記念論文集)(有斐閣、近刊予定)など。
結果として安全保障は、もはや狭義の軍事に限定されない。経済、情報、サイバー、宇宙、学術、地方自治、AI、データ、インフラ等が、安全保障の名のもとに統合されつつある。14年閣議決定以後、安全保障の主要な関心は、社会を最適化しリスクを最小化する統治・ガバナンスの課題として再定義され、憲法論から切り離される傾向が顕著であったものといえる。これを筆者は「憲法論の切り離し」と呼んでいる。
いざ有事とならば、かかる「一歩手前」の領域のもろもろの仕組みは、一気に、また滑らかに、国が私たちの日々の生活領域に影響を及ぼすことを可能にする。主権国家体制が相対化される今日においても、それがなお存在する以上、安全保障に関わる何がしかの判断は最後まで国家に残る。そして主権と密接な関わりを持つ対外的な実力行使に関わる力のコントロールもまた、最後まで課題として残る。そもそも近代立憲主義憲法はまさにこの課題に応える法なのであった。
この課題において問われるべきは、国家の安全保障のみならず、「私たち人間」が、どのような存在として扱われるかである。ともすると安全保障論では、抽象的な「国民の安全」が語られる。しかし、少なくない場面でその「国民」とは、実質的にみれば、安全保障政策に協力すべきマンパワー、すなわち資源として捉えられているのではないか。しかも現在の高度化された情報環境の中で、人が個人として判断する認知主体でありつづけられるかが危ぶまれている(3)。身体を持つ私たちの脆弱さがいよいよ増していることに留意すべきである。戦争の惨禍に苦しみ、恐怖と欠乏にさらされ、身体を損なわれるのは、結局のところ一人ひとりの人間であることに思いを致したい。本稿は、国家の安全保障を人間の側から問い直す一歩としたいと思う。
3 青井未帆=山本龍彦「対談 AI社会――『個人の尊重』は」朝日新聞2025年9月20日。




