〈移行期正義(Transitional Justice)〉
過去に大きな不正や人権侵害があった社会が、真実を追求して責任の所在を明確にすると共に、分断された社会の和解をめざし、より良い未来を築くために行なうプロセスのこと。
これまでの記事はこちら(連載:台湾・麗しの島〈ふぉるもさ〉だより)
※【編集部より】『地平』創刊号から全24回にわたりご好評いただいた本連載は今号で完結します。8月号以降に「特別編」をお送りするほか、近日、書籍として小社より刊行予定です。長い間ご愛読ありがとうございました。そして書籍化を楽しみにしていただけましたら嬉しいです!
霧のごとく
5月8日から日本でも全国公開が始まった台湾映画『霧のごとく』。原題は『大濛』で、深い霧を意味する台湾語「罩雺」(tà-bông)に由来する。題名が示すとおり、本作は霧に覆われて見えにくい台湾の現代史、そしてその時代を生きた人びとの姿を真正面から見つめようとした作品で、中華圏のアカデミー賞とも称される「金馬獎」で最優秀作品賞を受賞しただけでなく、興行収入が1億元(日本円で約5億円)を超えた。この二つをともに成し遂げた作品は、他国との合作を含む台湾映画史のなかでも、これまでわずか4作しかない。『グリーン・デスティニー』(2000)、『ラスト、コーション』(2007)、『セデック・バレ』(2011)、そしてこの『霧のごとく』(2025)である。映画という「娯楽」において、芸術性と興行性を両立させることの難しさがよくわかる。
監督・脚本の陳玉勲(チェン・ユーシュン)は、もともとコメディ映画の名手として知られており、この作品を撮る以前、自分が「白色テロ」という、台湾の人びとにとってあまりにも複雑で重い主題を扱うことになるとは思っていなかったという。公式劇場パンフレットのために行なったわたしのインタビューでも、「知ってはいたが、自分にとって身近な話ではなかった」と率直に語ってくれた。
実際、こうした「移行期正義」にまつわる映画を成功させるのは至難だ。かつて政治批判を寓話のなかに包み込んだブラックコメディー『健忘村』が興行的に大きく苦戦した経験を持つチェン監督をはじめ、製作陣にとって、ふたたび同じ轍を踏むことへの恐れは計り知れないほど大きかったと思う。だが、この作品の製作が進んでいく過程では、不思議な出来事や偶然が幾重にも重なったという。チェン監督自身も、「何かしら見えない大きな力が、この作品を撮らせてくれた」と語っていた。10代から90代までの幅広い世代、様々なバックグラウンドをもつ台湾の人びとが劇場へと足を運ぶ話題作となった本作は、そうして生まれたのである。
ところで、チェン監督がこの題材に興味を持ったのは、前作の公開も終わってしばらく時間が出来たときだった。ちょくちょく実家に戻って両親と共に過ごすうちに、ふと昔のことが話題に出て、両親が若かったときの台湾はどんな様子だったのか興味がわいてパソコンを開くと、そこには数多くの白色テロにまつわる情報の海があった。そこに飛び込んだ陳監督が出会ったのが、頭を殴られるような衝撃的なエピソードの数々である。特に胸を打たれたもののひとつに「施儒珍の壁」がある。
施儒珍とその家族のこと
1916年生まれの施儒珍は早くから反植民地主義の思想を抱き、日本統治下の台湾で抗日活動に関わったため、投獄された経験もあった。そのため、日本が敗戦した直後には(多くの台湾人がそうであったように)国民党政権の到来を歓迎した。しかし、その腐敗と抑圧の実態を目の当たりにするにつれ、国民党体制に失望を深めた施は、やがて批判的な立場を取るようになる。1949年ごろにはマルクス主義の書物を読む「読書会」に参加したが、白色テロが始まると状況は一変する。仲間のひとりが逮捕されたことを皮切りに、施も追われる身となる。
そこで、弟の施儒昌は実家の柴小屋の壁のなかに兄のための精巧な隠し部屋を作った。幅は人ひとりがようやく入れるほどで、中では横になるか座るしかできない。「兄のような人がいなければ社会は変わらない」と考えた弟は、神経を張りめぐらせて兄を守りつづけた。監視の目をかいくぐって食事を差し入れ、夕方の限られた時間だけ兄を外に出して身体を動かさせた。犬を何匹も飼い、足跡や人の出入りから特務(秘密警察)の動きを察知した。
だが、家族の払った代償は大きかった。息子のことで拷問を受けた父親は、釈放されたがその帰宅途中に事故に遭って命を落とし、特務の恐怖にさらされつづけた母親も、病を得て亡くなった。弟の儒昌も精神的に追い詰められ、何度も自殺を考えたといい、影響は次の世代にも及んだ。特務につきまとわれて就職や昇進の場面で差別を受け、仕事を妨害され、海外派遣の機会を奪われたのである。
長いあいだ太陽の光と無縁の生活を送った施儒珍自身も、適切な医療を受けられないまま、1970年、55歳のとき病気で亡くなった。政治犯となった兄を、弟が17年にわたって隠しつづけた――この実話は映画『霧のごとく』において、兄をサトウキビ畑のなかに匿い、食事を運び続ける主人公・阿月(アゴアッ/アグエー[台]/アーユエ[華])を形づくる重要な着想のひとつとなった。
しかし、本作に活かされているのはこの逸話だけではない。さまざまな登場人物の背後に、オーラルヒストリーやフィールドワークなど、台湾史と人権にまつわる知の蓄積が息づいている。だからこそエンドロールの最後には、台湾史研究に携わるすべての人びとへの感謝の言葉が浮かび上がる。前号で触れた台湾研究者・小笠原欣幸が指摘した「中間層や若年層が関心を抱けば、すぐに参照可能な形で資料が整備されている、それこそが議論の基盤をなす」という実践の、この映画はまさに好例であると思う。
多声性にみる台湾の多様性
もうひとつ、『霧のごとく』の大きな特徴として、台湾映画の「多声性(ポリフォニー)」がある。登場人物が話す山東訛りや浙江訛りなど饒舌な「言語」の違いから、その人がどこから来て、どのような歴史の流れのなかに置かれているかが手がかりとして機能しているのだ。たとえば、主人公・阿月が話すのは、中国福建をルーツとしながら台湾で育まれてきた「台湾語」と「華語」(いわゆる中国語/北京官話)である。一方、輪タクの運転手として生きる元国民党軍兵士・趙公道(チウ・クンタオ[広]、ザオ・ゴンダオ[華])は広東地方の出身で、広東訛りの華語を話す。
わずか2日間の邂逅でありながら、阿月の生涯の風景を変えた趙公道について、とりわけ印象深かったシーンは、常温保存のため死体の匂いが充満している斎場で平然としている場面である。いっしょにいた阿月が思わず吐いてしまうほどの悪臭にも彼はまったく動じない。また、夫を特務に殺された医師の妻に関する描写では、女性の夫が日本統治下で西洋音楽など近代文明に触れたエリート知識層の台湾人であったことが暗示される。おびただしい屍を越えて生き延びてきた趙公道に、小さな子どもを抱えて特務の言いなりになるしか生き延びる術をもたない医師の妻。どちらも何気ないシーンでありながら、日中戦争や国共内戦、二二八事件など、共に暮らす人々が異なる歴史記憶を背負う台湾という多文化社会が立ち上ってくる。
歴史の欠片を現在へつなぐ
2月28日より全国で公開された台湾ドキュメンタリー『湯徳章――私は誰なのか』もまた、現在の台湾映画を考えるうえで欠かすことのできない一本である。植民地支配、戦後の政権移行、民族と言語の断層、そのただなかで生きた人びとの傷と希望。二二八事件のなかで、台湾の人びとのために命を賭し、ついには公開処刑された湯徳章の生涯はあまりにも苛烈である。しかし同時にそれは、台湾近代史が抱え込んだ矛盾を、その身ひとつで引き受けた人生でもあった。日本人の父と台湾人の母を持ち、自らの帰属に揺れながらもなお、この土地に希望を託した湯徳章の姿。個人的には、わたしもさまざまなかたちで関わっている画家・陳澄波と、双子の兄弟のように重なって見えるところがあった。そこから浮かび上がるのは、こうした人物が決して例外的な「英雄」だったのではなく、「自分は何者か」という問いに揺れながら理想を抱きつづけた「台湾人」が、あの時代に数多く存在していたということだ。
同時に本作の後半において、湯徳章の養子の息子である湯聡模(トゥン・ツォンボォ)が、父をめぐる複雑な感情を吐露する場面には胸が締めつけられた。壁の中に隠れ続けた施儒珍の家族が悲痛な運命を背負ったのと同じく、白色テロの被害者遺族が生き延びてきた時間の重みを改めて確認させられる。しかし映画が結末に向かうにつれ、父親の名誉回復を通して、彼の表情も柔らかさを増していく。
2023年、湯聡模がこの世を去る前にようやく自分の人生と「和解」したことは、まさにクリエイティブと移行期正義による救いであったと思う。歴史への向き合い方だけでなく、いまを生きる被害者家族の人権の問題として、移行期正義がどうして重要なのかをこの映画は柔らかな語り口で伝えてくれるのである。台北の二二八国家紀念館では、施儒珍が身を隠していた「施儒珍之牆」を再現した展示をみることができる。施儒珍が17年ものあいだ潜みつづけた故郷・新竹の自宅はいまやすっかり荒れ果て、あの壁だけが草むらのなかに残されているという。
「移行期正義」という概念について、台湾の取り組みを伝えてきた本連載も今号が最終回となる。「親日」というステレオタイプではない、 歴史に向けてあがく台湾の人々の姿が少しでも伝えられたなら嬉しい。(おわり)








