言葉が届きにくい時代だ、というのはもうここ何年も言われてきたことだが、それでもやはり言葉が届きにくいと感じる。言葉が届きにくいというとき、だれでも気軽に発信できるようになったために世の中に言葉が溢れ、一つ一つが埋もれてしまっているからだと量的な側面を指摘されることが多い。一方で個々の言葉も力を失っているという質的な低下も指摘でき、言葉を養う手段として読書が挙げられる。読書によって生きた言葉に触れることが有意義であるのは間違いがない。だから本屋にも果たせる役割があると思え、実際に本屋をやっている。しかし、もっと大事な何かを忘れているのではないか。そんな思いも常に去来していた。その何かを教えてくれたのも本だった。
本書は『私の生活改善運動』(三輪舎)などの著作で知られる作家・安達茉莉子が、京都府にある社会福祉法人南山城学園の職員に取材・執筆した「福祉」の現場のノンフィクションである。もともとは学園の新規採用広報の小冊子として企画されたものであったのが、それだけに留めておくには惜しいとの判断で出版へと至った。「ここで実践されている思考法、コミュニケーションのありかた、根本的な福祉の考えかたは、…(中略)…世の中に広く伝えられなければいけないと感じた」と著者は述べる。
学園の「根本的な福祉の考えかた」とは「人を大事にすること」である。何だそんなことかと思うかもしれないが、読んでいるうちにこの「人を大事にする」という単純なことこそが忘れてしまった「何か」であるかもしれないと思った。日々、接客をするなかでも目の前のお客さんを一人の人間としてではなく一消費者として認識してしまうことがある。そんなときはコミュニケーションが空疎になり、振り返ったときに言葉を扱う仕事にもかかわらず言葉を殺してしまったと自責の念に苛まれる。目の前の人を大事にしないということは、その分言葉を交わす現場も損なわれるということであり、言葉は輝きを失っていく。
言葉があるべき本屋という場で失われつつあるものが、なぜ福祉の現場には残っているのだろうか。それは福祉がスピードや効率だけでは成り立たないからだ。人間であるかぎり定型だけではうまくいかず、根気強く目の前の「その人」と向き合っていかなければならない。学園ではそれぞれの利用者にあわせた支援が行なわれており、リスク回避に重点を置いた画一的なサービスとは真逆の発想が随所に見られる。
また支援も一般的にイメージされる「する/される」という一方通行なものではない。職員もまた人間であり、支援するだけでなく利用者や周りの職員に支えられている。特に苦しいときに利用者から送られた手紙を読んで元気をもらっているというエピソードなどは印象的で、双方向のコミュニケーションが持続的な支援を可能にしているということが伝わってくる。
福祉とは何か、と著者は問いかける。それぞれの職員から経験にもとづいた力のある言葉が返ってくる。そのなかの一人、増田百香さんはこのように答える。
「その人の人生に思いを巡らせることが私にとっての福祉であり、おっきな意味でのケアなんかな」
目の前の人の人生に思いを巡らせ、こういう支援のあり方がいいのではないかと想像する。それは、人が尊厳をもって生きられる社会の創造へと繋がっていく。福祉は社会の特定の領域に閉じ込めてしまわれるべきものではなく、今も目の前にある。自分の生活・仕事に福祉はあるだろうか。読み終えたとき、胸のうちで「福祉」の二文字が力強く灯っていた。
〈今回紹介した本〉
『らせんの日々——作家、福祉に出会う』
安達茉莉子著、ぼくみん出版会、
2025年3月、1800円+税