〈移行期正義(Transitional Justice)〉……過去に大きな不正や人権侵害があった社会が、真実を追求して責任の所在を明確にすると共に、分断された社会の和解をめざし、より良い未来を築くために行なうプロセスのこと。
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あの頃のあの場所
台湾で暮らすようになったころ、結婚したばかりの夫の実家は台北市内にある飛行場に近いエリアにあった。夫や義妹といっしょに朝までDVDで映画を観て、明け方お腹がすくと近所の屋台に〝小吃(シャオツー)〟と呼ばれる軽食を食べにいく。銀色の小さく四角いテーブルを囲んで座ると、夫や義妹が備え付けのティッシュで全員分の取り皿に付いた水分を丁寧にぬぐってくれた。皿を洗った水分が衛生的でないので、グラスも皿もこうして拭いてから使うのが習慣だと知った。近くには伝統市場があり、義母に連れられて買い物に出かけた。鶏肉店で注文をするとお店のひとが流れるような動作で鳥籠のなかのニワトリの脚をつかんで細い頸をひねり、断末魔の叫びをあげたニワトリを水の煮えた鍋のなかにいちど沈めてから取り出し、羽をむしって切り分けてくれる。初めて見たときは、ニワトリの短い絶叫が頭にしばらくこびりついて離れなかった。マンションの向かいには中学校があって、昼間は生徒たちの声で賑やかだった。マンションと学校のあいだの通りをあのころ何度歩いただろう。ときおり学校との境界である壁のうえを優美な足どりで歩く、青みを帯びた白い毛の猫に義妹が「水猫!」と呼びかけた。事情があって家で飼えず、地域猫になった猫らしかった。
それから「水(すい)」という台湾語が「美しい、きれい」を意味することを知り、屋台に座れば自然にみんなの皿やグラスを拭き、市場でひとりで鶏肉も買えるようになったころ、義実家は引っ越して、そのエリアを離れてしまった。
しばらく経ったときのことである。たまたま用事があって行った場所が、元・義実家の近くだった。懐かしくなって中学校前の通りを歩いていると、以前にはなかった表示があり、そこには「自由巷 Liberty Lane」と書かれていた。そして、義実家があったマンションから何軒かを隔てたマンションの一室が、あの鄭南榕(チェンナンロン/てい・なんよう、1947‐1989年)の自焚した部屋であると知ったのである。