【笠原十九司さんに聞く】加害研究の戦後史(第1回)南京事件(上)

『地平』編集部
2026/03/27

連載の開始にあたって(『地平』編集部)

 日本がアジア諸国に対して行なった侵略と植民地支配、戦争犯罪にかかわる加害の認識は、戦後日本の民主主義と平和主義の基盤の一つをなしてきた。
 戦争の責任を直視し、過去の加害の実態を知り、被害を受けた人びとの声に耳を傾けることは、歴史認識の問題にとどまらず、戦後日本がどのような国家であろうとしてきたのか、そしてこれからどのような社会を築こうとするのかを問い返す規範の根拠でもあった。加害認識は、アジア諸国をはじめとする国際社会との関係の土台であり、さらに国内における民主主義や市民的自由の土台でもあった。
 しかし、戦後八一年を迎える現在、その基盤は大きく揺らいでいる。戦時の加害についての認識や知識の共有は、世代交代とともに十分に継承されないまま希薄化し、ときに歴史修正主義的な言説によって歪められてきた。その結果として、アジア諸国との関係は不安定化し、排外主義的な言説が力を持ち、民主主義や市民的自由を軽視する風潮が強まっている。
 加害認識をこの社会で共有していくための基礎は、戦時中の加害の実態に正面から向き合ってきた研究や調査の蓄積である。この点において、日本の戦後歴史学は、政治的圧力や社会的逆風のなかでも、侵略戦争や植民地支配、戦争犯罪の具体像を丹念に掘り起こし、国際的にも評価される重要な成果を積み重ねてきた。にもかかわらず、そうした研究の到達やその背後にある研究者・ジャーナリストたちの問題意識は広く共有されているとは言いがたい。
 本連続インタビュー「加害研究の戦後史」は、戦後日本において加害研究を切り拓いてきた研究者たちのオーラルヒストリーである。研究の歩みをたどりながらその到達点と課題を記録し、次の世代が参照できるかたちで残すことを目的とする。加害研究の現在地を確かめると同時に、これから何が問われるのかを考える手がかりを提示したい。
 本連載の一人目として、南京大虐殺や「治安戦」など、日本軍の中国への侵略の実相を実証的に明らかにしてきた笠原十九司氏に話を聴く。現地調査と史料に基づいて「侵略の戦場」の具体像を描き出し、ときに史実否定派との論争もいとわなかった氏の研究は、まさに日本の加害研究の一つの到達点ともいえる。
 本企画は、戦後責任研究会と『地平』編集部の協力により進められる。戦後世代の責任の果たし方の一つとして、本インタビューを掲載していきたい。 



笠原十九司さん

群馬の山中で育つ

—— 本日はよろしくお願いいたします。それでは、まず先生の生い立ちから、子ども時代の戦争に関する記憶やご家族のご体験なども含めてお話しいただけますか。

笠原 私は群馬の山の中で生まれました。もともと笠原家のルーツは埼玉の秩父で、いまでも「笠原」という氏の人たちが集まって住んでいる集落があります。祖父は秩父新陰流という剣道の達人で、秩父困民党の騒動のときには「賊をぶった切ってやる」なんて言い方をしていたそうです。実際にどちらの側にいたのかは分からないけれど、そういう気風の人間だったのでしょうね。

 祖父は道楽で芝居に凝って、田舎で劇団を立ち上げたりして家の財産をつぶしてしまい、土地も手放すことになった。祖父は若くして胃癌で亡くなってしまいました。一六歳だった父は祖母と弟を連れて追われるように秩父を離れ、志賀坂峠を越えて群馬県中里村神ヶ原というところへ移り住み、親戚の世話になりながら暮らすことになったのでした。父は苦労して独学で文部省の教員検定試験に合格し、最初は代用教員から教師の人生を歩むことになりました。祖母も早くに亡くなったので、私たち兄弟は祖父も祖母も顔を知りません。

 私の父は運が良くて、特に持病があるわけでもなかったのに、なぜか徴兵名簿に名前が漏れていたのです。一九四四年、ちょうど私が生まれた年になって、「太郎さんは、あんなに体もいいのにおかしいじゃないか」ということで役場が再調査して、召集令状が来たのです。戦争末期、父は朝鮮へ送られました。当時の朝鮮には、もう武器も十分にない。結局、命じられていたのは、爆弾を抱えて戦車に飛び込むという、玉砕前提の訓練をしていたようです。

 父としては、ようやく結婚して家庭を持ち、私が生まれたばかりの時期です。もう自分は生きて帰れないかもしれないと覚悟したのでしょう。出征の前に、高い金を出して写真館に行き、家族写真を撮ってきた。そこには、父なりの思いが込められていたのだと思います。父は幸いにして無事に帰国してくることができました。

 帰還した父は郷里の小学校分校に教員として復帰することができました。

 父が勤めることになった分教場は、群馬県多野郡中里村字橋倉という、家が一六軒ほどしかない集落にありました。父はその分教場に職を得て、母も同じ分教場で働きました。自動車など通っておらず、いちばん近い車道からも四キロほど離れていて、山道を歩かなければならない場所でした。分教場では、母が一、二年生、父が三、四年生を教え、五、六年生は神ヶ原にあった本校の中里村小学校へ六キロの道を通ったのでした。

 とにかく貧しくて、同級生七名の記念写真の一枚も残っていません。

 私は干支が申だったので、本当に山猿のように跳びまわっていた生活でしたね(笑)。私の家族は分教場の建物に住んでいたので、学校が終わると私はカバンを置いて、「行ってまいります」と言って飛び出して、山道を歩いて友だちの住んでいる集落を回り、夜になって帰ってくる。そんな毎日でした。ただ、そういう山の中の暮らしのなかにも、戦争の影響ははっきりとあり、マッカーサー率いる米軍が日本の女性を強姦する、という噂が伝わってきました。これは、明らかに日本軍がアジアで行なってきた行為の裏返しで、米軍が来たら女性は髪を丸刈りにして男のような姿にならなければならない、などという話があんな山奥の集落にまで伝わっていた。

 独学で教員免許を得た父は、師範学校を出た教員との間の厳然とした差別に苦しんだようで、自分の子どもたちにはきちんとした教育を受けさせたいという強い思いを抱いていました。長男の兄が中学三年生になり、高校受験を控えた一〇月、父は前橋で産休補助教員の口があると聞いて、山の中の生活をたたみ、家族を連れていきなり前橋へ引っ越しました。ちょうど引揚者住宅が空いていて、そこに一家で転がり込んだのです。ただそこも、二軒長屋が並ぶ、本当に貧しい環境でした。

 宮本輝の小説が原作となった『泥の河』という映画がありますね。舞台は大阪ですが、戦後の貧困のなかで生きる人びとの姿は、当時の私の体験と重なります。監督の小栗康平は、私の前橋高校の一年後輩になります。

 引揚者住宅には、満州から引き揚げてきた家族も多く住んでいました。仕事もなく、生活のめども立たないなかで、私たち兄弟と仲良く遊んでいた一家が、数日間、雨戸が閉まったままになっていたことがありました。不審に思った近所の人が雨戸を開けると、一家心中をしていた。子どもたちはよそ行きの服を着て両親に挟まれて寝た姿でした。あの幼な友だちの姿はいまもありありと浮かびます。強烈な衝撃でした。

 また、陸軍士官学校を出た将校の家族のことも忘れられません。戦前は「エリート」とされた階層の人びとが、敗戦によって一転して社会の底辺に突き落とされてしまった。美しい奥さんと二人の娘さんがいましたが、生活が成り立たず、内職で現金封筒を一〇〇枚貼って一〇円ほどのわずかな金を稼ぐ。ところが、その金を夫が酒や賭け事に使ってしまい、暴力も絶えなかった。寒い夜に、母親と娘たちが、夫が眠るまで外をさまよっていた姿を私は覚えています。これもまた、戦争が残した傷跡でしたね。

戦争の残響のなかの民主教育

『地平』編集部

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