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世界女性シェルター会議
今年9月、オーストラリアのシドニーで開催された「世界女性シェルター会議」に参加した。4年に1度開催され、シェルターの活動に関わる活動家や研究者、政治家等の女性が世界中から集まるこの会議に、1200名の女性が集まった。そこで、ミソジニーによる女性支援に対する攻撃は、日本に限ったことではなく、世界的な問題となっていることがわかった。
今年の会議では、過去の開催ではなかったミソジニー(女性蔑視)やナショナリズム、「インセル」による女性への攻撃と、テクノロジーによる過激主義の助長にどう対抗するかをテーマにした分科会が複数開催された。
女性と性的な関係や恋愛関係を持てないことを女性のせいにし、ミソジニーや女性憎悪を募らせる思想を持つ集団の構成員であるインセルが、フェミニストや女性支援、女性人権活動家に対して過激なネガティブキャンペーンやデマの拡散、暴力の煽動などを行ない、女性の人権活動が阻害されることは、オーストラリアやアメリカ、フランス、イギリス、カナダやケニア、ウクライナなどの女性たちからも報告された。
インセル文化とナショナリズムは植民地主義ともつながっており、植民地化の手段としてのジェンダーにもとづく暴力、男性中心社会における男らしさの押し付けから生まれた傾向であること、極右や排外主義ともつながり陰謀論を生み出していることが指摘された。

世界で過激化するインセルとオンライン空間
また、過激化したインセルなどのミソジニーを思想とした集団は、「我々 対 彼ら」という物語を作り出し、敵対行為を取ることを成功の一部と捉え、言葉による攻撃、軽蔑、差別的行為、暴力から大量虐殺にまで及ぶ可能性があることが指摘された。Colaboが2022年から受けつづけているデマや誹謗中傷による攻撃もまさにこれであり、暇空茜に対する名誉棄損訴訟で、裁判所は加害の動機を女性蔑視にもとづくものだと認定している。
銃社会ではインセルによる女性の大量殺人が相次いでおり、イギリス政府は2024年、ミソジニーを過激主義の一形態として取り扱うことを発表した。女性に対する憎悪を一つの思想として扱い、インセルを犯罪予備軍、テロリスト予備軍と認定している。
カナダでも、ミソジニーにもとづくフェミサイド(女性が性別を理由に殺害されること)が深刻化し、最高裁判所がミソジニーによる女性の殺害事件が起きた際、それをインセル思想によるテロ行為だと認定した。インセルがヘイトクライムとなる犯罪を生み出す可能性があること、女性蔑視の問題が政治的イデオロギーやヘイトとつながり、フェミサイドなどの女性に対する犯罪を引き起こすことを裁判所が認識しているのだ。
カナダの高校や大学などでは、若者がオンライン上の有害なコンテンツを認識し、疑問を持ち、実際に抵抗できるようにするためのメディアとデジタルリテラシーのトレーニングが行なわれている。
アメリカのデジタルヘイト対策センターでは、インセルや女性蔑視思想を持つ人々によるオンライン上の活動を監視し、調査報告書を作成している。法執行機関の職員は、インセルによる暴力や、世界で何が起きているのかを理解するための訓練を受けている。
なかでも興味深かったのが、オーストラリアのモナッシュ大学のアレクサンドラ・フェラン氏とナオミ・フィッツナー氏による報告だ。そこでは、ソーシャルメディアやテクノロジーは、アルゴリズムなどさまざまな方法で人々が過激化するプロセスを促進する重要な役割を果たしており、それが過激な思想を広め、個人に受け入れられ、その後の人々の行動に影響を与えていることが示された。ここでその内容を紹介する。
オンライン空間は、コミュニケーションのスピード、規模、匿名性が、過激化への道を加速させる可能性があり、過激化コンテンツを国際的に拡散することを通じて、過激派イデオロギーの普及に重要な役割を果たしている。そのため、世界各地のグループが互いに交流し、経験を共有し、同様の考えを持つコミュニティを作成することができるようになっている。こうしたオンライン空間の特性が、彼らのミソジニーにもとづく敵対思想などの信念を標準化させるだけでなく、同じ考えを持つ人々の間で個々人の信念を強化するエコーチェンバーの再生産につながり、そうした人々がオンラインとオフラインを行き来しながら現実の暴力を引き起こしている。
こうした攻撃をのりこえるためには、市民が男社会の構造について知識を持っているかが重要である。オンラインコンテンツのすべてが女性蔑視的で有害というわけではなく、人々が帰属意識やサポートを見つけるのを助けるインフルエンサーやコミュニティも存在する。だからこそ、特に子どもや若者など、すべての人に批判的思考力を身につけさせることが重要だという。批判的思考力は人生に欠かせないスキルだからだ。
マノスフィア――無自覚な差別者
Colaboに対する攻撃がなぜ起き、なぜここまで拡大し、陰謀論や排外主義を煽動するまでに到ったのかを考えたとき、私たちが日々対峙している男社会の構造への認識を共有できる人や、批判的思考力を身につけた人が日本社会に少ないことが確実に影響している。
「マノスフィア」という学術的な概念がある。男性の権利に関する言説を中心に広く形成されたフォーラム、ウェブサイト、インフルエンサー、クリエイターなどが緩く結びついたグループのことを指す。マノスフィア内の多くの人々やグループは、自身がマノスフィアに属しているとも、影響力を持つ者とも自認しておらず、それらの用語をある程度拒否することが特徴とされる。これも、Colabo攻撃に加担した人々が自身に内面化されたミソジニーと向き合わない様子と共通する。彼らは自分たちを「ネトウヨだ」と堂々と認めながら、「女性差別はしていない」と言い張った。
「マノスフィア」は、少年や若い男性が日々の生活を送る上で役立つと考える情報やアドバイスを提供するように見せかけながら、実際には女性蔑視やジェンダーにもとづく差別を助長している。そして、その一部のグループや運動は、攻撃性や暴力を奨励したり、攻撃性や暴力を問題解決の手法や男性の自然な特性として推奨したりし、少女や女性に対する言葉による身体的な虐待や、性的虐待を肯定している。
こうした集団のなかには女性のインフルエンサーやコンテンツクリエイターのグループも存在しており、それは男社会の一部ということができる。こうした女性は、反フェミニズムや、少女や女性がどうあるべきか、特に男性との関係においてどう振る舞うべきかについて男社会の価値観にもとづいた強固な考え方を推進し、ジェンダーの不平等を支持する考えを推進する。これらもすべて、日本の状況やColabo攻撃の実際にもあてはまる。
被害者のすり替えと征服
マノスフィアに関して重要な点は、男性が被害者であるという主張を中心にコミュニティが構築されていることだという。彼らは今、自分たちを社会的弱者だと自称し、社会でもっとも疎外され、もっとも弱い立場にある被害者であり、その原因がフェミニズムや男女平等運動によるものだという考えを広めている。そのために彼らは不安を感じたり、不当な扱いを受けていると感じたりした少年や若い男性の不満を吐き出し、表明できる場を提供しており、それは実際に効果的な手法となっている。彼らは自分たちの権利が侵害されていると信じて、男性と少年に権利を取り戻すことを主張している。
また、マノスフィアとその他の憎悪にもとづく運動との間にはつながりがあり、トランスフォビア、同性愛嫌悪、白人至上主義、人種差別、外国人嫌悪との関連が世界で確認されていることが報告された。これもColabo攻撃を煽動した者たちが、現在、外国人差別を煽動し、極右政党を支持する日本の現状と重なる。
欧米では、学者だけでなく、政策立案者からも、男性優位社会が少年や男性を過激化させ、彼らが暴力行為に至る可能性について多くの懸念が提起されており、報告者のアレクサンドラ氏の調査でも、女性蔑視的な態度や価値観と暴力行為との間には直接的な関連があることが示されたという。日本ではそのような問題意識にもとづく政策提言はまだ見たことがない。
学校現場に求められる取り組み
「マノスフィア」によるSNSの発信などを通してこうした価値観が広がり、世界中で多くの子どもたちが、学校において性的嫌がらせ、強姦、身体的暴行の脅迫を経験している。子どもたちは、同年代の女性への暴力だけでなく、教師や学校職員に対するものも(目撃するなどして)経験する。
これをのりこえるために、オーストラリアではカリキュラム内でのジェンダー教育以外にも、職員とのやり取り、指導的立場になる人物の人事、採用の段階など、日常的なやり取りの中でジェンダー平等を基盤とし、他者への敬意を払うことのできる安全な学校をどう作るかを学校全体で考える取り組みを行なっている。
また、オーストラリアでは、2025年12月から16歳未満のSNS利用を禁止する法律が施行される。TikTok、Instagram、X、YouTubeなども、政府が有害コンテンツの問題を認めて対象になった。これらのSNSはColabo攻撃にも中心的に活用されている。
この分科会では、「マノスフィア」やミソジニーにもとづく女性への攻撃に対抗するためには、男社会の構造ややり口を見抜くために、筋トレのようにトレーニングをして鍛える必要があり、それを若いうちから始める必要があることが示された。つまり、実際に若い人たちにこうした問題について批判的に考えさせ、反省させ、学校教育全体を通して発達段階に応じた関わりをし、生徒たちと対話していくことが必要だ。その訓練を大人たちがしてこなかったからこそ、Colabo攻撃は止めることができなかったのだろう。
男性のインセル化をどう止めるか
世界シェルター会議では、男性のインセル化をどのように予防するか、という議論も多くなされた。
カナダからは、若い男性や暴力を振るった男性が健全な方法で感情を表現し、健康的な精神と関係性を構築するためにトレーニングをする団体が紹介された。インセル文化と、インセルの増加に対抗するためには、特に若い人たちと直接コミュニケーションをとることが重要な役割を果たすと報告された。
アメリカからは、男性がカウンセリングやセラピーを受けることを恥だとする考えを変えていくことの重要性が示された。孤立に苦しんでいる若い男性が、女性蔑視などの有害な考えに異議を唱えられるようになるためのステップとしてセラピーがある。教室で行なわれる講義だけでなく、音楽や芸術などを用いた創造的な表現を行なうことを通して、男性自身がアイデンティティーを探求し、自信を築き、コミュニティの中での人間関係を経験し、帰属意識を育むためのプロセスを提供しているという。
カナダでも、オンライン上の憎悪や女性蔑視の増長をさせないことを目的としたプラットフォーム規制や、オンラインでの行動を規制する新しい法律の検討が議論されている。政策レベルでの変化と同様に、それらの政策を実効性のあるものにするための資金とプログラムも必要だ。さらに、政府以外にも、企業がその技術や専門知識を使って、暴力の被害者や女性が必要な支援を確実に受けられるように支援するといった役割を果たすことの必要性が示され、社会全体で議論が始まっているという。
すべての国に、ジェンダーにもとづく暴力に関する、実情に合わせた独自の国家行動計画が必要であるはずだが、日本ではこのような政策的な議論や、企業の社会的責任としての技術や専門性の提供についても、ほとんど行なわれていない。
ケアの優先と矛先
世界シェルター会議では、若い男性がマノスフィアに取り込まれ、インセル化することをどのように抑止するのかという議論に対して、その責任を女性が負わされていることに明確に反対する女性たちがいた。「男性の教育」という仕事を女性に負わせる考え方や、女性のケアより先に男性のケアを考えることに反対し、「女性たちは男性たちのことではなく、もっと女性たちのことを話すべきだ。女性たちが抱えさせられている問題に力を割くべきだ」と彼女たちは主張した。その女性たちの意見に私も共感し、励まされたが、そうした主張を強く行なったのは、貧困問題が深刻なアフリカや戦時中のウクライナの女性たちなど、女性が極限状態に置かれた国の女性たちであった。
それらの国では、女性の基本的な人権保障がなされておらず、だからこそ、男性のことが優先される。女性に対するケアの話をしている最中でも、女性のことは置き去りにされ、いつの間にか男性の話にすり替えられてしまう。そうした経験をしているからこそ、それらの国の女性たちは抵抗したのだ。
ジェンダー平等教育が当然のことと認識され、公的資金でシェルターが多数運営されている欧米の女性たちの余裕と、そうではない国の人たちの余裕のなさには明らかに違いがあった。日本も女性の人権が極限状態に置かれた国なのだと、あらためて実感した。
日本国内でも、女性の被害について語るとき、被害女性のケアを真剣に考えるのではなく、まず加害者男性のケアについて話したがる人が、女性にも多くいる。世界シェルター会議で議論されていた「男性のケア」は、日本でのそうした議論とは違うと感じた。なぜなら前提として女性の人権保障があるからだ。
日本では、男性のことを優先するという男社会の価値観を内面化し、女性の被害について考えるときにも、男性を優先して考えてしまう人や、「女性の人権の実現のためには男性にも理解できる言葉や議論が必要」などとして、結局女性のことを後回しにしてしまう人たちが、このような発言をすることが多い。そして、後回しにされるのは、そういう発言をする女性たちよりも苦しい状況に置かれた最下層の少女や女性たちだ。
階層が高い女性たちも、女性の被害をなくすために必要なことを考えているつもりで、そのような発言をしているのだろうが、そうした考えを口に出せるのは、男社会で生き抜いてきた人や、うまくやれている女性たちである。それが可能となったのは男社会の一部となったから、そうせざるを得なかったからでもある。
そのような発言を聞くたびに、私は、男社会の中で痛めつけられ、暴力にさらされ、そこから抜け出すことができずにないものとされている女性の現状を知らないんだな、と理解する。目の前で日々女性たちが殺されていく現状を知っていたら、のん気なことは言っていられないはずだからだ。
世界シェルター会議では、男性登壇者による講演もあった。性暴力や女性差別をなくすために男性が運動に積極的に関与する必要性を訴えるジャクソン・カッツ氏が、ポルノや男性中心社会が男性へ植えつける女性蔑視の問題を含めて、男性が自身の特権性や内面化された価値観を自覚し、ジェンダー平等社会の実現に向けた問題解決の一員として当事者意識を持って運動に加わることが重要だと述べた。また、男性が自身の男性性に罪悪感を抱くのではなく、責任へ意識を変える必要があることを訴えた。
しかし、その後のパネルディスカッションでは、女性から「どうしたら男性に特権を放棄する必要があることを説得できますか」と聞かれたり、加害者支援プログラムに多額の資金が付けられる一方で性暴力被害者支援センターが閉鎖されたりしているなど、男性を中心に戻すような形で取り上げられ、女性の役に立たない結果を引き起こしていることについてどう考えるか質問されたのに対して、「批評はありがたいけど、それは必ずしも常に意識すべきことだとは思わない」と述べた。そして、ジェンダー平等のためには男性を関与させる必要があり、男性が声をあげられるようにするためにどうするかが重要だと繰り返した。女性の意見や懸念、批判に対して「確かにそうだ」と一言いいながら、二言目には感情的に持論を強い口調で主張するばかりで、対等なコミュニケーションができない様子だった。とても自身の権威性を意識した振る舞いとは思えず、冷静に対応する女性たちとの差が歴然だった。
男性が女性の人権に関して発言すると、それだけで褒められることの問題をスピーチしていた男性でも、自身の暴力性に向き合うことは簡単ではないのだ。
だからこそ、そうした男性と議論すること以上に、女性がつながり、痛みを分かち合える関係性を築いていくことが重要なのだろう。








