皆さんは「1945ひろしまタイムライン」を、ご記憶か。1945年にもしSNSがあったら、との想定で、広島に実在する(した)被爆者たちが書き残した日記を題材に、現代を生きる市民が日々の暮らしを想像し、当時の日記の日付に合わせてツイッター(現在のX)で発信する。被爆75年となった2020年にNHK広島放送局が打ち上げた企画だった。
その中で作られた三つのツイッターアカウントの一つ、当時13歳の「軍国少年」という設定だった「シュン」が投稿した複数のツイートが「人種差別を助長している」として大炎上し、局が謝罪する展開となった。同年8月のことだ。
あれから5年。戦争の生々しい記憶を持つ人たちはさらに減りつづけ、戦争の記憶はいっそう遠のく一方で、SNS という言論ツールの影響力は強まっている。7月20日に投開票があった参院選では、「日本人ファースト」を掲げて露骨な排外主義の姿勢を示した新興政党が、SNSも巧みに活用しながら支持を広げていった様を見ることとなった。
そんな中、「タイムライン事件」は、2025年の現在も、広島の人たちの間に暗い影を落としつづけている。「タイムライン事件」が残したものとはいったい何だったのか。今なおそこにある課題とは何なのか。関係者に話を聞き、考えた。
ひろしまタイムライン問題とは
まず、企画概要と経緯を振り返っておく。
「1945ひろしまタイムライン」でモデルとなったのは、地元紙記者の大佐古一郎さんと、夫が出征中で妊娠中だった主婦の今井泰子さん(いずれも企画当時すでに故人)、そして、当時中学1年だった新井俊一郎さんの三人の実在の人物だった。それぞれ、「一郎」「やすこ」「シュン」というツイッターアカウントが設けられ、本人が当時実際に書いた日記や手記などをもとに、劇作家の監修も受けながら練られたツイートの投稿が始まったのは2020年3月。いずれも、最終的に十数万人のフォロワーがついた。
いわゆる「中の人」は、会社員や公務員、高校生など広島在住またはゆかりのある計11人の市民だった。参加者たちは、日記の記述をたどりつつ、書いた本人の心情などについてチームごとに議論をしながらつぶやいていったが、このプロセスで行なわれたワークショップの様子などはテレビ番組として放送された。ツイートに関しては、元になった日記が公式サイトなどで見られるような工夫がされたほか、投稿のたびに「#もし75年前にSNSがあったら」などとハッシュタグを付ける運用だった。
問題となったのは、高校生5人が担当した「シュン」による複数のツイートだった。
「朝鮮人の奴ら」
《朝鮮人の奴らは「この戦争はすぐに終わるヨ」「日本は負けるヨ」と平気で言い放つ。思わずかっとなり、怒りに任せて言い返そうとしたが、多勢に無勢。しかも相手が朝鮮人では返す言葉が見つからない。奥歯を噛みしめた》(6月16日)
《朝鮮人だ!!大阪駅で戦勝国となった朝鮮人の群衆が、列車に乗り込んでくる!》(8月20日)
《「俺たちは戦勝国民だ!敗戦国は出て行け!」圧倒的な威力と迫力。怒鳴りながら超満員の列車の窓という窓を割っていく そしてなんと座っていた先客を放り出し、割れた窓から仲間の全員がなだれ込んできた!》(同)
これらのツイートには、苛烈な憎悪に満ちたリプライがいくつもぶら下がり、文字通りの大炎上となった。運営側は、「シュンのモデルとなった人物の手記やインタビュー取材での実際の表現にならったものです」などとする釈明を投稿し、ツイートはそのままにしていたが、事態は収拾せず、後にツイートを企画の特設サイトに移設した上、削除。NHKの前田晃伸会長(当時)は、翌月の定例会見で、「公共放送、公共メディアとしてはあってはならないこと」「こういうことを繰り返さないように徹底して参りたい」と述べた。
最終的にNHKは2020年末までに特設サイトを閉鎖。現在では、一部のツイートのみが、局のブログに残るだけとなっている。
「若い世代に伝える」というミッション
「なんとしても叶えたいテーマとして設定したのが、『若い世代に伝える』という命題。毎年広島から被爆の体験を伝える企画を制作してきたが、力を入れても視聴率は4パーセントほど。真摯に誠実に作った番組も若い世代に届かない事態に大きな危機感がある」。「シュン」のモデルとなった新井俊一郎さん(93)は、NHKの担当者から、企画背景についてそんな説明を受けた。若いディレクターの一人が提案したのが、当時の日記をもとに「若い人に響く言葉で」届けるこの企画だったとのことだった。
協力を打診されたのは前年秋。証言活動を10年以上続けてきた新井さんは趣旨に賛同した。ただ、自身がアカウントを持ったことがないツイッターの仕組みには疎く、職員からの丁寧な事前フォローもなかった。「今思えば、生半可な知識でOKをしたのがいけなかった」。
かつて民放局社員としてドラマ制作に携わった新井さんは、原作と創作の違い、演出の実際などを熟知している一方で、この企画はあくまで「テレビ番組」だと考えていた。だが次第に、違和感を抱くように。ツイートは大人が担当し、それを見た若者が学ぶという運用かと思いきや、ツイートは高校生が作成するという。日記の記述とツイート内容の違いや番組で紹介されたワークショップにも疑問を抱いた。軍人が引率する行軍が、お弁当を持った楽しい遠足のように描かれていた点などだ。「時代感覚を分かってくれているのだろうか」。
職員に問い合わせると、「日記をベースに、高校生たちが『創作』する」との説明を受けたが、理解できなかった。「書いた本人の気持ち、書いた意味、心、時代の感覚、すべて生かしてくれるなら、『原作』をもとにした『創作』はありえる。それを子どもたちがやるならば、大人がちゃんと責任を持ってやってください」。そう強く要請した。その後も何度も、苦言を呈する連絡をしてきた。その延長線上に、例の「炎上」は起きた。
当時はがんの手術で長期入院中だった。知人からの連絡で知ったが、炎上とはどういう状態なのかもわからない。結局、最後までツイッターは理解できなかった。
軍国主義と向き合ったか
「軍国少年だったという新井さんの言葉の重みを、参加者として私は理解していなかった。広島からの発信で見落とされているし、戦争の周りで起きた被害を本当に繰り返したくないなら、そこを学ばなければならなかった」
企画に参加したある女性はそうこぼす。この5年間、筆者はこの女性から、折に触れてペンを持たずに話を聞いてきたが、今回初めて、匿名を条件に取材として、話を聞かせてくれた。
「被爆体験を伝えるだけでなく、当時軍国主義で帝国主義だったことが被爆者の人生に影響しているということをつなげて理解しなければならないという認識がなかった」。そう振り返る。昨今、社会を覆う排外主義の空気感も相まって、なおさらそう感じるという。
女性によると、炎上後、企画の参加者たちが局に集められ、経緯説明があった。「戦争の時代に中学1年生が見聞きしたことを、十分な説明なしに発信することで、現代の視聴者の皆様がどのように受け止めるかについての配慮が不十分だった」とお詫びする内容をNHKが公式サイトに投稿した直後。ただ、朝鮮半島出身者に対する罵詈雑言がリプライとしてぶら下がったままのツイートは削除されなかった。女性は、「誰に対して謝罪しているのだろう」と腑に落ちなかった。以降、罪悪感に苛まれ、親しいコリアンの友人たちと接することに、躊躇を感じるようになった。吐き出したい思いはたくさんあったが、NHKからはこの件で個人での発信をしないように釘を刺された。
以前から平和教育にたずさわってきた女性は、戦時下の日本で一般市民がアジアの人たちを差別する価値観は現にあったと認識する。自らを軍国少年だと語る新井さんの日記にも、朝鮮人との表記は存在した。日記を改変することはナンセンスであり、原典が尊重されるべきだとは思っていたが、その内容をツイートする際には当然なんらかの配慮や工夫がされるものだと思っていた。
「日本社会がちゃんとしていたら、こういうことはもう二度とあってはならない、というようなリプライがつくはず。少なくとも、(ツイートを作成した)高校生はそう思っていた」。そう慮るが、一方でツイッターがとかくヘイトスピーチの温床になっている現実はこのとき以前からずっとあった。メディアの人間なら想定しえた展開であり、その点でNHKの見立てが甘かったと感じる。「差別の根深さを認識していたなら、ツイートには配慮があるべきだったが、そういうことは全然やっていない」。
あなたは悪くない、そんな慰めが内外から寄せられたことにも違和感を抱く。「根幹的にこの社会が戦争の時代から変わってこなかった。社会に蔓延っているものと戦争・原爆を結びつけて語ることをヒロシマの大人としてきちんとしてきただろうか」と自問する。そして、「平和」を学ぶために広島にやってきた学生たちから少なからず言われてきた言葉が耳にこだまする。「広島って原爆のことしかやってない。全然『平和』を作っていないですよね」――。
「この企画は、戦争の時代と地続きの社会を顕在化させ、重たい問いを投げかけた。今でも状況は変わってないし、むしろ酷くなっている。でも、その問いを広島は受け止めてきたでしょうか」。
NHKの関係者に対しては、言いたいことが山ほどある。「75年前のことを扱った結果、現代社会に潜むものが顕在化した。当初の意図とは違うものだったとしても、いったんそうなってしまったのだから、その結果に対して真摯に向き合うべきだった」。今からでもそれは遅くないと思っている。
原爆を伝えるという仕事に携わる報道関係者にはこう言いたい。
「報道の人たちからしたら、『ヒロシマ』は全国ニュースにできるネタでしかないかもしれない。だけど、この広島の地でこの先もずっと生きていく私たちにとっては『生き方』そのもの。それを理解して報道してほしい」
関係者によると、この企画に際し、NHKが外部から招聘した専門家は劇作家のみで、SNSの専門家の助言は受けていなかった。現場の担当者からは、その必要性を訴える声が上がったというが、最終的に実現しなかった。
SNSの危険性に想像力が及ばなかったのか
ツイッター草創期の2007年からアカウントを使い、143万人以上のフォロワーがいるジャーナリスト・メディアアクティビストの津田大介さん(51)は、NHKというメディアが、自らコントロールの及ばないツイッターを扱うことを選んだのが、そもそものミスだったと指摘する。「ツイッターは、文脈が寸断され、意図と違う形で流れていくプラットフォーム。だから、必要以上に慎重に議論を重ねてやるべきだった。ツイッターでバズることと、誤解が誤解のまま拡散していくのは表裏一体だが、NHKはその危険性について、想像力が及んでいなかったのではないだろうか」。
あれから5年、ツイッターは「X」という名前に変わり、従来の140字以上の投稿や、投稿後のツイート修正が可能な仕様となった。他方、津田さんによると、モデレーションのチームが解散し、かつて以上にヘイトスピーチが野放しの状態だという。「言論空間としてますますひどいものになっている。2025年の今、同じようなことをテレビ局がやろうとしたら『やめとけ』とアドバイスする」。
津田さんは、新しい報道の形に挑戦したNHKの姿勢は評価している。NHKは、視聴者が寄せるツイートを紹介するスタイルの生放送の報道番組を、2012年度とかなり早い時期に放送しており、津田さんはその番組に出演していた。「戦争報道が型にはまって形骸化する中、同じことを繰り返していくだけでいいのだろうか、という危機感が現場にはある。新しい取り組みを始める必要性を担当者は感じていたはずだ」。若い世代に届けるための新しい挑戦に積極的に取り組んできたメディアであるだけに、タイムラインの事件を受け、元来持ってきたチャレンジする精神が消えてしまわないかと憂う。
「官僚的なメディアではトラブルが起きると、次はやめようとなる。それは残念だ」
広島市のNPO法人「共生フォーラム」は、炎上発生直後、局に対して抗議文を送り、関係者に対して話し合いの場を求めたが断られつづけてきた。5年経つ今でも問題提起を続けている。理事長の李周鎬さん(74)は、今年5月、「NHKタイムライン」差別事件・中間報告としてA4用紙で104ページの資料をまとめた。その中で李さんは「『タイムライン』の炎上は起こるべくして起きた」と断じた。
祖父の代で朝鮮半島から日本に移ってきた在日三世で、1945年8月6日の原爆投下により一家全員が被爆。戦後に広島で生まれた李さんは、朝鮮半島出身者が多い地区で暮らす中で、幾度も地域に潜む差別意識を垣間見てきた。
「韓国人のことだから」という切り捨て
2022年夏、8月6日の平和記念式典開始前に会場で配信するビデオメッセージを寄せた在日韓国人被爆者が、被爆者援護から朝鮮半島出身者たちが「切り捨てられた」と訴えた部分の文言を原稿から削るよう広島市から要請されたことが明らかになった。これを受け李さんらは、市に対して抗議行動を起こし、民族系団体も含めて被爆者団体に同調を求めたが、広島に二つある「広島県原爆被害者団体協議会」からはいずれも拒否された。人づてに「あれは韓国人のことだから」と言われたと聞いた。
2024年秋、日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)にノーベル平和賞が贈られることが決まった。それを受け、広島の7つの被爆者団体が合同で記者会見を開いた。その際、長崎や広島で被爆し、終戦後、朝鮮半島に戻った被爆者たちが現在に至っても救済されていない問題について、ある新聞記者が質問した。韓国原爆被害者対策特別委員会の委員長は、ノーベル委員会の授賞理由の中で朝鮮半島出身の被爆者に関する言及がなかった点が「非常に心寂しい」と述べたが、県被団協のあるリーダーからは、「それほど深く考えなかった」などという言葉が飛び出し、問題の認識すら乏しい様子があらわになった。
犠牲者意識ナショナリズムに覆われた広島
李さんは「タイムラインはこうした『ヒロシマ』の土壌から発生した差別事件」と言う。ヒロシマの問題、それはまさに「犠牲者意識ナショナリズム」であり、日本の加害の問題や戦後の被爆者援護に厳然と存在してきた差別の認識に乏しい広島の現実を批判する。そして、「炎上」そのもののみならず、その後の対応がまずかったと指摘する。「NHKは、この件を差別問題の教材にすればよかったのに、しなかった」
関係者によると、担当していたディレクターらは皆、転勤などで広島放送局を去った。この件が残した教訓とは何か、この5年間、NHKとしてどんな検証をしてきたかについて取材を申し入れると、文書で回答が寄せられた。
「ご質問の件については、広島放送局で勉強会を重ねるなどして経緯や注意点を共有し差別に関する意識向上に努めています。『1945ひろしまタイムライン』の企画趣旨である被爆体験の継承については、放送などを通じて継続的に取り組んでおります。また、SNS等で情報発信する際には事前に複数で表現を確認するなど再発防止に取り組んでいますが、引き続き、SNS利用に伴うリスクや人権の問題について職員一人ひとりが意識を高め、誤解を招くことがないよう努めてまいります」
原爆さえ扱えば「ヒロシマ報道」か
終わりに、この件についての筆者自身の個人的な思いを、余談ではあるが記したい。
当時、筆者は朝日新聞広島総局に勤務する記者だった。広島に赴任した2005年以降、広島を離れた後も断続的に原爆関連の報道に携わってきたが、2021年春に退社した筆者にとって、戦後75年となった2020年は、新聞記者として最後の「夏」、その夏に起きたのがこの事件だった。担当者として、発生以降、他部署の記者とも連携しつつこの件を報じてきたが、退社によってその営みが中途半端な形で終わったことが心残りだった。何より、自分が暮らすまちの足もとの問題提起が、きちんとできないままだった。以来、ある種の消化不良感を抱えてきた。
フリーランスとして引き続き広島で取材活動を続ける日々の中で、「ヒロシマ」を伝えるとはどういうことか、ひいては「ヒロシマ」とは何かを考えつづけている。昨年の『地平』9月号に寄せた「ルポ・広島市 平和都市に足りない「何か」を見つめて」において筆者は、ここ数年の広島市政をめぐる問題に触れつつ、ヒロシマのありようを問う姿勢の欠如や、原爆報道の「テンプレ化」を指摘した。
原爆さえ扱えば、それは「ヒロシマ」報道なのか。若者に届けるという目的のために、現実にそこにあるザラザラしたものを見ぬふりをする、あるいは避けて通るのはジャーナリズムなのか。「タイムライン」事件は、5年経つ今でも、そのことを問いつづけているように思う。