再現された「軍都の夜」
広島平和記念資料館には、直視するのがつらい写真や現物が多く展示されている。被爆の実相を表すそれらの展示物。しかし、それとは別の意味で、目を背けたくなるような写真も展示されている。その一つが、1937年12月に広島市内で行なわれたの写真である。
「南京陥落を祝う提灯行列」と題されたそのパネルには、次のようなキャプションが付いている。
1937年(昭和12年)12月、日本軍は当時の中国の首都南京を占領した。この過程で多数の市民が虐殺され、南京事件や南京大虐殺などと呼ばれている。犠牲者数には様々な推計があり、中国では30万人余りとしている。広島では南京陥落を祝う提灯行列が行われた。
日本軍兵士が南京で、その近郊で、殺戮・略奪・放火・強姦などの暴虐行為を繰り返したことを、当時の広島市民は知らなかっただろう。そのことを含み置いてもなお、他国の首都に侵攻し、武力で占領、つまり暴力で奪い取ったことを臆面もなく祝う広島市民の姿を直視するのはつらい。なぜなら、この日に戦勝を祝っている人の多くが、1945年の原爆による大量殺戮で殺されたに違いないから。
寒い冬の夜、わざわざ提灯を手に持ち外出し、「皇軍」の戦勝を祝っている大勢の市民たちは、日本軍によって踏みにじられた人々のことを想像できていただろうか。そして、その7年8カ月後に、今度は自分たちが無残に殺されることを予想していただろうか。
『軍都廣島 「廣島」と「ヒロシマ」を考える』(清水章宏・橋本和正著、一粒の麦社)によると、広島における戦勝祝賀行事は日清戦争のときに始まったという。「大本営が広島に設置されたことにより、戦争の情報は広島にすぐ伝えられます。戦勝の報道が届くたびに、広島県や広島市は市民に国旗・提灯などの掲揚を指示し、祝賀行事に市民を動員しました」。戦前に全国各地で行なわれた戦勝祝賀行事は、まず広島市で始まり、「お手本」として波及したのである。
そのような苦々しい「提灯行列」の歴史を経験したはずの広島で、しかも原爆ドームに近いひろしまゲートパークで、今年6月19日、天皇・皇后の来訪を歓迎する「提灯奉迎」が行なわれた。約5000人が集まり、天皇・皇后は、宿泊するホテルの窓越しに手を振った。
どうしてそんなことを思いつけるのだろう。
今回の提灯奉迎の計画が報道されたとき、最初に抱いた疑問だ。この人たちは「提灯行列」にともなう苦々しい気持ちを共有していないのか。そもそも広島における「提灯行列」の歴史すら知らないのか。それとも知ったうえで、それを愚かしい歴史とは感じていないのか。
これが、「平和都市・広島」の現在の到達点なのか。
この提灯奉迎を企画した日本会議など極右勢力を、まず批判する必要がある。しかしそれで充分だろうか。このような行事が大きな反対運動も起こらず実施できてしまう土壌が、「平和都市・広島」にあるのではないか。
だとするならば、今からでも「平和都市・広島」の土壌を耕しなおさなければならない。戦勝を祝う提灯行列の歴史をはじめ、「8月5日までの広島」の歴史を深く共有し、「提灯奉迎」という発想を拒む歴史意識と共通理解が広島の内外で形成されなければならないはずだ。
被害だけの「継承」とわたし自身の責任
広島に住むわたしの友人は、4月にSNSで次のようにつぶやいた。
「ドイツでもし、ナチスについては中心テーマとせず、ドレスデン空爆被害をことさらに強調したら、周辺国もドイツも『ヤバい』と思うでしょうが、日本では平気でそれが『平和』の文脈でできますよね」
日本の平和運動はこの指摘に反論できるだろうか。大日本帝国の戦争・植民地主義の加害を中心テーマとせず、被害体験と被害感情をベースとしていたのではないか。その「被害者ナショナリズム」的運動に都合の良いモチーフ(素材)として、ヒロシマを利用してきたのではないか。
しかし、被爆3世であるわたしも、その責任の一端を負っている。
わたしが被爆3世であることを公にしてから、まだ10年経っていない。母方の祖父(母の父)は広島で入市被爆(原爆投下のあと、救援で爆心地近辺に入り放射線被ばく)し、5年後に病死したこと、祖父が呉市で創設され、海軍発注の工事を多く手がけた「水野組」というマリコン(港湾工事に特化したゼネコン)の社員として、朝鮮人労働者を使う立場にいたことを、私は14歳の頃、母から聞いた。
母は「父さん(=私の祖父)は、朝鮮の人たちには優しく接していたらしい」と語っていたが、本当のことはわからない。いずれにせよ原爆によって殺された祖父は、8月5日までは植民地主義の暴力に加担していた。しかし、わたしは長い間、被爆3世であることも、祖父の加害も、語らないできた。
今はそのことを強く後悔している。どうして、加害・被害ともに語らず、ではなく、ともに語る、という選択をしなかったのだろう? どうして、日本の加害の歴史と、広島・長崎の歴史を交差して考えることができなかったのだろう? どうして、祖父が加担していた植民地主義の暴力を「8月5日までの広島」の歴史の重要な要素として認識できなかったのだろう?
「狭い平和」の枠の外に出よう
「ノーモア・ヒロシマ」をもっと広く、よりラジカル(根源的)に再定義したい。ただちに広範な支持が得られなくても、ここで提唱したい。80年の年月を経て大きく定型化・固定化してしまった「広島の平和の語り」を、核兵器反対だけの「狭い平和」から解き放ちたい。
まず、「ノーモア・ヒロシマ」の「ノーモア」を、核兵器に限定するのをやめよう。
8月6日に投下された原子爆弾はあくまで手段であり、目的は無差別の大量殺戮だったはずだ。私の祖父は原爆によって殺されたが、母は同年7月1日の呉市街空襲で九死に一生を得た。無差別に人を殺すという点では、焼夷弾も原子爆弾も違いはないのではないか。核兵器はノーモアだがその他の兵器はノーモアではない、それでいいのか。
機関銃や毒ガス、空爆用の飛行機などに始まり、現在の殺人ドローンに至る大量殺人兵器・大量殺戮戦術の歴史、その「線」の上に、核兵器を位置づけたい。そして焼夷弾でも、ナパーム弾でも、化学兵器でも、ミサイルでも、どんな兵器であっても、無差別大量殺戮に対して「ノーモア」を訴えていくべきではないだろうか。たとえば、今この瞬間にもガザで、ヨルダン川西岸で起きている無差別大量殺戮に即時停止と「ノーモア」を訴えよう。
その「ノーモア」に新たな意味づけと根拠を与えるためにこそ、大量殺人兵器・大量殺戮戦術の歴史の中に、「8月5日までの広島」の歴史を位置づけていく必要がある。1894年から1945年までの「軍都・広島」の約50年の歴史を「ノーモア」の文脈に位置づける。それはつまり、日本の帝国主義・植民地主義の暴力の歴史という文脈のもとに軍都・広島の歴史を認識していくことだ。
「広島の加害のこと『も』知ろう」と言いたいのではない。原爆を認識の中心に置き、日本の加害をオプションとして扱う発想には限界がある。複数の巨大な暴力が「交差」した空間として「軍都・広島」を立体的に把握すること。少なくとも四つの巨大な暴力が交差したという認識が必要だ。
(1)(1894年前後の)広島「への」暴力=国家意思が街を覆い、乗っ取り、人々の生活空間から軍事拠点(軍事植民地化)へと変貌させられた暴力
(2)広島「から」の暴力=軍都だった広島「から」海を渡り、多くの人びとを踏みにじりつづけた帝国主義・植民地主義、そして大量殺戮の暴力
(3)広島「での」暴力=朝鮮人、中国人などを強制労働動員し、過酷な労働を強いた暴力
(4)(1945年の)広島「への」暴力=原子爆弾による無差別大量殺戮
複数の「ノーモア」を同時に
この四つの暴力は現在も消滅していない。日本の内外で継続し、あるいは再現(反復)されて、多くの人を踏みにじりつづけている。
軍が街や地域を乗っ取っていく暴力は、現在進行形で繰り返されている。沖縄島で、与那国・宮古・石垣・奄美などの島々で、ミサイル基地建設計画が進む西日本の各地で、そして広島市の隣の呉市では、旧海軍工廠の跡地に複合軍事拠点計画が進められようとしている。
広島からの暴力、広島での暴力を生み出した帝国主義・植民地主義、そして大量殺戮の歴史は、その後も一瞬とも世界から消滅していない。大量殺戮の歴史は、核兵器以外の兵器によって1945年以降も繰り返され、そして今もガザで、ヨルダン川西岸で、あるいはウクライナで続けられている。新しい大量殺戮兵器も次々に開発され、実用化されている。
にもかかわらず日本はそれらの暴力とまったく決別できていない。アメリカと結合しながら力による支配に加担し、植民地主義国家イスラエルを間接的に支援しつづけている。イスラエル軍が殺戮に使用している殺人ドローンを非難するどころか、それを自衛隊で導入しようとすらしている。
そして核兵器。日本は「拡大核抑止」という名のもとにアメリカの核兵器によりかかり、アメリカからの核軍縮の動きを牽制し妨害する役割すら果たしている。今年6月、トランプ大統領はイランの核施設への「事実上の核攻撃」を「広島・長崎と同じようなもの」と言い放った。これは明らかに原爆による広島・長崎への大量殺戮を正当化した発言だったが、官房長官は「一般的に歴史的な事象に関する評価は専門家により議論されるべきものだ」と、抗議のそぶりさえ見せなかった。
先述の四つの暴力は今も継続し、清算されずにきている。そうであるならば、わたしたちはそれらすべてへの「ノーモア」を、「ノーモア・ヒロシマ」に込めても良いのではないか?
「ノーモア・ヒロシマ」という言葉の宛先を複数化しよう。原爆被害者への応答=誓いだけではなく、「広島からの暴力」の被害者、「広島での暴力」の被害者にも応答を試みるべきではないだろうか。
「ノーモア・ヒロシマ」の対象を複数化しよう。大量殺戮に、侵略、植民地主義、強制労働動員などの国家暴力に、軍が街/地域を乗っ取っていく暴力に、そして核兵器による暴力に「ノーモア」と訴えよう。
沼田鈴子という先駆者に学ぶ
これらは、実際の被爆を知らない世代による荒唐無稽な提案だろうか。そうではないだろう。なぜなら、自ら被爆しながらも、核兵器以外の暴力の歴史とも向き合った人たちが少なからずいるからだ。その中で、広く知られている一人が沼田鈴子さん(1923~2011年)である。
沼田さんは、勤務先の広島逓信省で被爆し左足を失い、戦後は身体障害者として差別や偏見に遭う。さらにいくつもの苦難を経験したのち、1985年から原爆体験者として語りはじめる。やがて豊永恵三郎さんたちとともに、韓国人被爆者の救済活動にも深く関わり、ピースボートに乗船して東南アジアを訪れるなかで、「8月5日までに存在した暴力」の存在を知り、その暴力の被害者と向き合っていく。
そして1988年にはマレーシアを訪れ、広島を拠点とする陸軍歩兵第11連隊が住民を虐殺した現地で、次のように住民たちに謝罪した。
私が戦争中に働いていた広島逓信局のそばに、歩兵第十一連隊がありました。当時は兵隊さん、かっこいいなとか、きびきびしているなとか、そうした一面しか見ていませんでした。まさか、この悲しいゴム園で、こんなひどいことをしているとは、夢にも思いませんでした。私は何にも知りませんでした。知らなかったことに罪をおぼえます。皆さまはどんなに苦しかっただろうと思うと、非常に心が痛みます。私は虐殺した日本人ではありませんが、同じ広島の日本軍が行ったことを、深く深くお詫びいたします」
(『被爆アオギリと生きる』広岩近広著、岩波ジュニア新書より)
しかし8月5日までの沼田さんもまた、日本軍の活躍を無邪気に喜んでいた一人だったという。
1937年には「南京陥落」を祝う提灯行列で沼田さんは「バンザイ」を叫んでいた。1939年に女学校の勤労動員で兵器支廠に行き大砲の弾を磨いた時は「お国のために役立っている」と思い誇らしかった。軍隊が宇品港から出ていくときはいつも「どうか手柄を立ててほしい」と祈った。
(同書)
そのような沼田さんが、どうして大きく変わっていったのか。歴史学者の米山リサ氏は著書『広島 記憶のポリティクス』の中で、沼田さんについて次のように述べる。
彼女は暴力の存在した、あるいは存在しつづける場所に旅を続けた。戦争や虐殺、もしくは核の惨劇の場にとどまらず、貧困、差別、抑圧が存在する場へと足を運んだ。当初は広島の惨劇のストーリーを語るための旅だったものが、しだいにより広い出会いへと。そして話を聞くための機会へと変わっていった。
広島の外に存在する暴力と出会うなかで、広島「から」の暴力の痕跡にも出会い、そのことを通じて「8月5日までの広島」を捉え直し、その中でバンザイを叫んでいた自分自身をも捉え直す……そのようなプロセスを経て沼田さんは、さまざまな他者と痛みを分有する人へと自らを編み直していった。そこに至るまでに、どれだけ深い葛藤と自問自答があっただろう。
「当初は広島の惨劇のストーリーを語るため」だった旅が、「話を聞くための機会」に変わっていったプロセス、「広島」を読みなおし、自らを編みなおしていったプロセス、「ヒロシマ」を脱中心化し、複数の暴力を交差させ、そのすべてに「ノー」(ノーモア)を訴えるに至った沼田さんの歩みを、私は「継承」していきたい。その苦闘を、葛藤を、願いや誓いを「継承」していきたい。そして同じように感じ、「継承」し、行動しはじめる人が少しでも増えてほしいと思う。
戦前を再現するような「提灯奉迎」が行なわれるようになった。そのような今だからこそ、「ノーモア・ヒロシマ」をよりラジカル(根源的)に再定義していきたい。次の「提灯奉迎」を食い止めるためにも、「ノーモア・ヒロシマ」をアップデートしていこう。葛藤や自問自答も引き受けて、前に進んでいこう。