【連載】台湾・麗しの島だより——移行期正義の練習帳(第13回)「戦後130年」を考える

栖来ひかり(文筆家)
2025/06/05

移行期正義(Transitional Justice)〉……過去に大きな不正や人権侵害があった社会が、真実を追求して責任の所在を明確にすると共に、分断された社会の和解をめざし、より良い未来を築くために行なうプロセスのこと。

これまでの記事はこちら(連載:台湾・麗しの島〈ふぉるもさ〉だより)


乙未戦争――日本統治に対する民衆の抵抗

 今年は「戦後80年」ということで、日本では様々な取り組みが行なわれている。じつは台湾各地の文化施設でも、今年はとある「戦後」について展示や催しが開かれている。しかし、ここでいう戦争は、80年前のことではない。

 日本と清国のあいだで交わされた下関条約で、台湾が日本へ割譲されたのが1895年4月17日。それに対抗して台湾の官僚や商人らは「台湾民主国」という独立国の建国を宣言し、それに合わせて各地で民衆による義勇軍が組織された。その後、台湾に上陸して抵抗勢力を武力鎮圧した事件を日本側では「台湾平定」「台湾征討」などと言うが、台湾では圧倒的な武力差のもと凄惨な虐殺を受けて多くの犠牲者を出した経験をもって「乙未戦争」または「乙未之役」と呼んでおり、今年はそれから130周年にあたる。

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 ホーロー(福建)系や原住民族などエスニック集団を問わず「台湾民主国軍」として日本軍に抵抗したなかでも、とりわけ多く参加したのが客家の人々で、桃園・新竹・苗栗といった客家の多いエリアでは激烈な戦闘が繰り広げられた。今も犠牲者を追悼する寺廟があり、記憶継承について色々な試みが行なわれる。例えば、2022年には「一八九五乙未保台紀念公園」が桃園にオープンしたし、新竹には当時の状況の解説や抗日リーダーが書き残した「抗日詩」が壁いっぱいに描かれた民間のレストランもある。「親日」という面ばかりが取り上げられがちだが、こうした多層的な記憶もまた紛れもない台湾の一面であり、それが台湾の奥深さを醸し出している。

 客家とは、台湾人口の約10%を占めるエスニック集団である。清朝の時代に、現在の中国広東省東部や福建省西部から台湾をはじめ世界各地に移民した客家は、結束が強く多くの実業家や政治家を輩出しており、前総統の蔡英文も客家ルーツをもつ。実は、わたしの台湾人夫も母方が客家だが、義母が親戚らと話す客家語は、わたしにはチンプンカンプンだ。台湾の共用語である〝台湾華語〟とは方言の違いというより言語の系統が異なり、しかも更に7種類ほどに分かれるほど複雑なのだ。

 しかし、客家とはいったい何者で、客家文化とは何なのか? そう聞かれれば途端に歯切れが悪くなる。そもそも「客」という字が示す通り、よそ者を意味する他者視点の名称で、かつては差別的な意味を含むこともあった。「戦禍を逃れて南下した北の古い王族の末裔」といった貴種流離譚も流行したが、最近の研究では、中国大陸南方のミャオ/ヤオ族といった非漢族の先住民を基盤に、北方からの漢族が融合した説が有力だ。こうした先住民は丘陵に暮らしてきたので、漬物などの発酵食品や茶葉、藍などの植物染めが客家文化として引き継がれたのである。

 現在の台湾では、親が客家人でも子どもは客家語を話せない家庭が多い。わたしの夫も聴く/話すことはちょっとできても、普段の生活で使うことはなく、いわんや子どもにおいてをや、である。言葉=文化と考えれば台湾客家は消失の危機に瀕しているといっていい。そんな現状で、客家という存在を保っていく方法は何だろうか?

 まずは、客家ルーツを持つ人々が「自分が客家である」と自覚する、つまり客家アイデンティティーを再認識し、言葉を学んで伝えていくことだろう。それには生活文化を育んできた土地の記憶を掘り起こし、構成者が生態・産業・飲食・信仰といった多様な層のうえで文脈を共有していく必要がある。これは、度重なる被統治を経てきた「台湾」が抱える問題意識とも共通する。そうした意味で客家にとっても台湾にとっても、今年が「乙未戦争130周年」であることは非常に重要であるのを感じてもらえるのではないだろうか。

栖来ひかり

(すみき・ひかり)文筆家。1967年生まれ、山口県出身。京都市立芸術大学美術学部卒。2006年より台湾在住。著書に『台湾と山口をつなぐ旅』(西日本出版社)、『時をかける台湾Y字路』(図書出版ヘウレーカ)、『日台万華鏡』(書肆侃侃房)など。

2025年6月号(最新号)

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