【第1回】差別と排除のなかで置き去りにされる少女たち
【第2回】「少女を守る」と胸を張るおじさんたちが守りたいもの
【第3回】「家族の助け合い」という言葉が隠すもの
【第4回】メディアはどっちを見てる?
女性たちを追い払う警察
歌舞伎町で、路上で過ごす少女たちを探し、つながるために声をかけたり、必要なものを手わたしたりするアウトリーチの活動を行なっていた8月末の深夜23時半頃、背後から男性の怒鳴り声がして、身構えた。この街で、男に活動を邪魔されたり、女性が暴行されたりすることはよくあることだからだ。振り返ると、そこにいたのは3人の警察官だった。
「おい! ここに立つなって言ってるだろう! 何してるんだ! どけ!」と怒鳴り声をあげながら、ホテル街に立つ少女や女性たちを追い払っていく。私たちの存在に気づいてから、警察官たちは口調を変え、「ダメだよ! ダメ! 言ったでしょう! こんなことやったらダメだよ! ダメだよ、絶対に! 自分のことしっかり考えなさい! ダメ! 帰んなさい」と叫びながら女性たちを追い回し、その様子を撮影していた私に「やめてください、そういうの!」と興奮ぎみに言ってきた。
こうした警察の対応は、性売買の実態を踏まえておらず、まったく問題解決になっていない。
女性たちが路上に立ち、体を売るのには理由がある。生活のため、子育てのため、家族と不仲で帰れる家がないためだったり、ホストやメンズコンカフェなどでグルーミングされ多額の支払いを求められていたり、借金を背負わされていたり、障害があり就労ができない状態の人も多い。組織に囲われて逃げられない状況で体を売り、得たお金を元締めに回収されている女性も少なくない。
野放しにされてきた買春者
日本では、そうした背景と実態、性売買に女性を誘導する社会構造を問題視することなく、性売買の問題はいつも、体を売る女性の問題とされてきた。そして、女性を売り物にする業者や、女性を消費の対象とする買春者の存在は透明化されつづけてきた。
児童に対する性搾取ですら、30年以上「援助交際」という言葉で語られてきた。この言葉は1996年に流行語大賞のトップ10入りした。支配と暴力の関係の上に成り立つ児童買春が、あたかも少女に対する「援助」であるかのように、そして、対等な関係性をイメージさせる「交際」であるかのように語られつづけてきたのだ。そんな国は他にない。
2016年にColaboが児童買春の実態を伝える「私たちは『買われた』展」を開催するまで、メディアの報道でも、研究の世界でも、児童買春は児童に対する性搾取としてではなく、「援助交際」として語られていた。それは、少女たちが自分たちの性的価値に気づいて主体的に体を売り始めたというストーリーで、少女たちが男をだまして金儲けをしているとするものだった。
ドラマや漫画でも、体を売る少女たちは男を手玉に取る存在として描かれ、性売買のなかにいる少女や女性たちへの差別や偏見は強化されつづけた。日本の女性たちは体を売る女と、そうでない女に分断され、性売買のなかにいる女性たちがそこでどのような経験をしているかについて、ほとんどの人が知ろうともしなかった。
一方で、著名人や議員が買春しても、それも「男らしさ」の一つとして、仕方のないことであるかのように扱われてきた。
そんな日本社会では、買春者や性売買業者らが隠語として使ってきた言葉や考え方が市民に広がってきた。
2000年代には、インターネット上で買春者たちが女子高生を買うための隠語として使っていた「JK」という言葉が広がった。私も当時、高校生だった自分のことを「JK」と呼んでいた。日本では、女子中高生が性的に価値の高いものと認識されている。そのことを刷り込まれた少女たちは、「今が一番いいときだ」「今が一番価値がある」と思い込まされている。高校3年生になると、もうすぐ高校生でなくなることを惜しんで少女たちは自らのことを「ラストJK」と呼ぶ。
2010年代後半からは、「パパ活」という言葉が広がった。「パパ活」は、少女や若い女性が男性と食事やホテルに行き、その対価として「お手当」をもらうことを指し、女性の主体的な選択として報じられている。しかし、その権力構造を見てみれば、実際には「パパ活」とは、強い立場にある男性による性搾取である。だが、それを問題視する声はあがらず、主語がいつも女性にずらされる。そして、「パパ」になった中年男性の多くは、自身の買春を女性への支援だと思っている。
この「パパ活」もまた、売春を前提とした男女の出会いを斡旋する「交際クラブ」という性売買業者が、男性客を引き寄せるために使い始めた言葉だった。「若い女性が、その対価として性行為をする前提で、自分を援助してくれる男性を探している」という男たちの幻想が、問題とされることのないまま、社会に受け入れられている。