2018年12月28日。私はソチ国際空港からクリミア半島へ向かった。ロシアの冬とは言っても黒海に面したソチ及びクリミアは比較的温暖で、雪国出身の私にはさほど苦にならない寒さだった。ソチへ赴いた理由は2014年に開催されたソチ五輪跡地を見に行くことだったが、平和の祭典である五輪閉幕からクリミアでの軍事的行動開始までわずか4日しかなかったことも、忘れてはいけない。
2013年末、ウクライナでは親ロシア派と親EU派の対立が激化し、大規模抗議運動ユーロマイダンが発生する(私の初のウクライナ渡航から3週間後の出来事だった)。翌2014年2月、親ロシア派のヤヌコーヴィチ大統領が首都キエフから亡命、政権が崩壊した。その直後、クリミアでは武装した部隊が政府施設や空港などを占拠する。ロシア軍は事実上、クリミア全域を掌握し、ウクライナ軍基地も包囲された。
2014年3月、クリミアではロシア編入の是非を問う住民投票が実施された。ロシア側発表では圧倒的多数が編入支持だったとされ、その後ロシアはクリミアを正式に編入すると宣言した。
しかしこの住民投票について、ウクライナ政府はロシア軍支配下で行なわれた違法投票であるとして無効を主張。また国際連合総会でも、クリミアはひきつづきウクライナ領であるとする決議が採択され、国際社会の多くはロシアによる編入を承認していない。
一方、ロシア側は、住民の自己決定権、ロシア系住民保護、歴史的にロシアと結びつきが深い地域であることなどを理由に、編入の正当性を主張している。
そのため現在のクリミアは、ロシアが事実上、統治・行政運営している実効支配地域、国際法上は多くの国がウクライナ領とみなしている地域、という二重性を抱えている。
2022年のロシアによるウクライナ全面侵攻以降、クリミアはロシア軍の重要拠点となり、軍事的緊張はさらに高まった。現在もこの地域の帰属問題は解決しておらず、現代ヨーロッパにおける最も重大な領土・国際法問題のひとつとなっている。
ソチ国際空港からクリミアのシンフェローポリ国際空港まで、およそ1時間10分の短い空の旅の間、クリミアはいったい今どうなっているのか、正直、不安の方が頭の中を占めていた。「クリミアの状況は以前に比べ、観光客も激減してさびれつつあるみたいだよ。食料もウクライナから入らなくなったから、ロシアから半分腐った野菜が届くって声があったし。現地のクリミア・タタールも殺され、学校では教師たちが煽動的な教育を始めて、北朝鮮みたいな独裁国家のようになっていっている感じかな……。というか日本の某放送局が、クリミアにロシア経由で入ってウクライナで刑事事件になって、モスクワから支局長が呼び出されて検察の事情聴取を受ける事態が起きたけど、行って大丈夫なの?」とキエフ在住の知人談。クリミアは法的にはウクライナ領、ロシア本土側から直接クリミアへ入る行為は、ウクライナ側から見ると不法な国境越えとなる。
しかしクリミア到着後、拍子抜けした。2018年4月に完成したばかりの国際空港新ターミナルは余りにも美しく、暗鬱な不安など感じさせないものがあった。空港内のモバイルショップで500ルーブルでSIMカードを購入することも出来た。その向かい側に今回世話になるレンタカー業者が店舗を構えていた。英語は一切出来ずロシア語のみでのコミュニケーションだが、笑顔が絶えないフレンドリーなスタッフたちだった。当てがわれた車はKIAの軽自動車で、高校時代所属していたバドミントン部で使っていたラケットのグリップの色にそっくりな、目に眩しいライトグリーンの車体だった。
スタッフたちに送り出され空港の敷地の外へ出る。景色が一気に灰色になった。ガソリンが1/2しか入っていなかったので、地図で出てきた空港最寄りのガソリンスタンドへまず向かうも、まさかの廃墟と化していた。仕方ない、次の最寄りのガソリンスタンドに向かうも、そこも廃業しており、3軒目で漸(ようや)く、生きたガソリンスタンドに立ち寄ることが出来た。水とエナジードリンクを購入し、4時間半のドライブへといよいよ繰り出す。
雨がちらつく鉛色の空の下、ソフホーズのモニュメント、ソ連時代の不思議な形のバス停、冬枯れの穀倉地帯、ウクライナの田舎景色を横目に車を走らせていく。途中から舗装された道が完全になくなり、オフロードとなった。剝き出しの泥濘(ぬかるみ)、降りつづく雨のせいか巨大な水溜まりが至る所にあった。どうしても避けられず意を決して車を突っ込み波を被るような形となった。ライトグリーンの車体は忽(たちま)ち土気色に染まってしまった。そしてこんな辺鄙(へんぴ)な場所にも村があり、人々の暮らしは脈々と続いていた。
この日は廃原発近くに移動するだけで日が暮れてしまったので、本格的な撮影は翌日、行なうことになった。辺鄙な場所での撮影時、私は度々車中泊をするが、冬場の車中泊は人には全くもってお勧めしない。
朝の8時頃になり漸く夜も明けた。眼鏡を装着し撮影機材を背負う。この先は徒歩だ。昨日に続き鉛色の空の下、遠くで大型犬の咆哮が聞こえる、道は舗装などされていない、草に覆われ瓦礫が被さる道なき道を、無機質な灰色の建造物をただただ目指し、黙々と歩いて行く。そして廃原発の目の前に辿り着くと、改めてその大きさに恐れ慄(おのの)いた。
クリミア半島東部、カザンティップ岬近郊のショールキノに建設されていたクリミア原子力発電所は、ソビエト連邦末期を象徴する未完の巨大計画のひとつである。
建設計画が始まったのは1970年代。ソ連政府は急速に発展するクリミア半島と黒海沿岸地域の電力需要を補うため、新たな原子力発電所建設を決定した。原発建設と同時に、技術者や労働者のための計画都市ショールキノも造成された。原発は加圧水型原子炉VVER-1000を2基備える計画で、当時のソ連における標準的大規模原発として設計されていた。
1975年頃から本格建設が進み、1980年代半ばには1号機の完成が近づいていたとされる。しかし1986年、チェルノブイリ原発事故が発生する。この事故はソ連全体の原子力政策を大きく揺るがせ、安全性への懸念が急速に高まり、各地で建設中だった原発計画にも見直しが入った。
ここで問題視されたのが地盤だった。建設地周辺については地震リスクや地盤安定性への懸念が以前から指摘されており、チェルノブイリ事故後、それらの問題がより深刻に扱われるようになった。加えて1980年代末にはソ連経済そのものが悪化し、国家財政も限界に達しつつあった。
その結果、1989年、ソ連政府はクリミア原発建設の中止を正式決定する。発電所は一度も稼働することなく放棄された。
廃原発をぐるりと一周してみたが入り口という入り口はない。丸い大きな穴があった場所から内部へ入っていけそうだったので、そこから侵入した(こうした廃墟は現地に赴き守衛に交渉し、敷地内への立ち入りの許可を取ることが多い。そしてその後は自己責任だ)。ヘッドライトを装着し、真っ暗なコンクリートと鉄骨の塊の中、狭い階段を見つけ、上を目指し駆け上がっていった。
そこには、ソ連が未来へ向けて描いた巨大な理想と共に、チェルノブイリ事故による恐怖、国家崩壊による放棄、そして“約束された未来〟が突然停止した時代の空気が、そのまま閉じ込められていた。
巨大なタービンホールに吹き込む風の音だけが、嘗(かつ)てこの場所が未来であったことを、静かに伝えていた。




