【連載】忘れられた未来へ(2)オルゴフ電波光学望遠鏡

星野 藍(写真家)
2026/07/05
Abandoned control room with vintage panels and chairs beneath a decorative ceiling and a mural through an arched opening.
オルゴフ村、アルメニア、2024年10月10日

 終わらない夏の日差しが延々と照りつく、10月のアルメニア。山間部や夕刻になると秋を感じるが、日中日向の気温はまだまだ落ち着かなかった。

 小さな地方都市の住宅街にあるゲストハウスに連泊していた私は、家主手作りの“アルメニア式朝食〟にマッシュポテト、トマトと卵の炒め煮、パン、ラバッシュ、ソーセージ、ゆで卵、ヨーグルト、チーズ、ジャム、コンポート、サラダ、紅茶……朝から1日分の食料を食べたのではないだろうかという大ボリュームの食事を平らげた。隣のテーブルで朝食をしていたフランス人夫婦が「よく食べるね!」と驚いていた。ちょっと恥ずかしい。アルメニアもご飯が美味しい国だが、一番美味しかったのはゲストハウスや民泊でのおうちご飯だったかもしれない。エネルギーチャージ、準備も万端、そしてこの旅での一番の目的地ROT‐54へと向かった。

 アルメニア西部、アラガツ山の南斜面、オルゴフ村の近郊に、ソビエト時代の巨大科学プロジェクトの遺産が残されている。それがROT‐54(POT‐54/2.6)、ヘルーニ鏡面電波光学望遠鏡(オルゴフ電波光学望遠鏡)と呼ばれる施設である。この望遠鏡は、アルメニア出身の物理学者及び技術者であるパリス・ヘルーニによって設計された。1970年代半ばに建設が始まり、1985年に完成。1986年から本格的な観測が開始された。

 ROT‐54最大の特徴は、世界初の電波光学望遠鏡として設計された点にある。従来の電波望遠鏡は、巨大なパラボラアンテナで宇宙からの電波を受信する。一方、ROT‐54は、固定式反射面と可動式副反射鏡を組み合わせる独自の構造を採用し、山岳地帯に設置されたことで、大気の影響を比較的受けにくく、高精度な観測が期待されていた。

 ROT‐54は、ソ連科学界における野心的な試みでもあった。1980年代のソ連は、宇宙開発や基礎科学に莫大な国家予算を投じており、アルメニア科学アカデミーの無線物理学研究所を中心に、この施設は建設された。巨大な制御室には当時最先端だったソビエト製コンピュータや計測装置が並び、アルメニアがソ連科学ネットワークの重要拠点であったことを物語っている。

 実際にROT‐54は天文学研究にも成果を残した。特に1985年には、赤色巨星η(イータ)ふたご座星から発せられた強力な電波フレアを観測し、この種の恒星活動の研究に新たな知見をもたらしたとされる。しかし1991年のソビエト連邦崩壊後、状況は一変する。独立後のアルメニアは経済危機とエネルギー不足に直面し、科学研究への国家支援は急速に縮小した。ROT‐54も十分な維持費を確保できなくなり、1990年代初頭には観測活動が停滞した。

 その後、1990年代後半から2000年代にかけて、ロシア天文学会やギリシャの研究機関との共同研究により、制御システムの更新や観測再開が試みられた。新型コンピュータの導入や受信装置の近代化も進められ、一時的に科学観測が復活している。

 だが2012年、可動式副反射鏡を支えるアーム機構に重大な故障が発生し、観測継続が困難となった。修理費用は莫大であり、国家予算だけでの復旧は難しい状況となる。以降、ROT‐54は実質的に観測を停止した。

 8年前、実は私はこの場所を訪れようとしていた。アゼルバイジャンの首都バクーを起点に、10日ほど陸路でコーカサス三国を周る旅の途中で、バクーからシェキ、シェキからジョージア入国後は真っ直ぐ、アルメニア北部のソビエト時代の銅鉱山が残る街アクタラへ向かい、そこからアルメニア第2の都市ギュムリへ向かった。ギュムリでタクシーを捕まえ、幾つか立ち寄りたい撮影箇所を交えながら首都エレバンまで一日がかりで運んでくれるよう交渉した。その撮影箇所のひとつがROT‐54だった(なお運転手にこの計画を話すと「ちょっと家族と相談したい」と、まず彼の家に連れて行かれることになった。妻子や祖父祖母、よく分からない近所のおじさんたちも交え、ルートを決定し「よし行こう!」、無事出発となった)。

 オルゴフ村までやってきたのはいいものの「あそこは軍に管理されていて、行くと銃で撃たれるぞ」と地元の爺さまに静止され、結局、その時は行くことが叶わなかった。今となっては爺さまの言っていたことが本当かどうか不明だが、まぁそんな時もあるだろう。ここはいつか行けるタイミングがやってくる、そんな予感がしていた。そしてついに、その時がやってきたのだ。

 ROT‐54は現在、アルメニア政府系の研究機関によって管理されている。ただし一般的な天文台のように常時観測を行なっているわけではなく、保存・維持・再活用を模索している状態というのが正しい。立ち入り禁止の体を取っており、入り口には警備員がいるが、どうやら賄賂を渡すと中に通してくれるらしい。が、そこは個人の裁量によるものがあるらしく、賄賂を受け付けず頑なに拒む警備員もいると聞いたので、研究機関の正式な許可をきちんと取った上で撮影に挑むことにした。

 海抜1700メートルの山の上は、秋晴れの高い空が何処までも続いていた。美しい空と煤けた廃墟の対比が、物悲しさをより一層際立たせる。風もなく穏やかな天気に恵まれた。立ち入り禁止のROT‐54だが、牛や豚や野良犬の出入りは自由で、何処から入ったかは知らないが、それらの動物の牧歌的な姿を見かけ、緊張もすっかり解(ほぐ)れた。

 車を木陰に駐車し、まずは電波光学望遠鏡の周りをぐるりと歩く。カンカンカン……と階段を登る音だけがあたりに響く。8年越しの悲願達成の瞬間だった。電波光学望遠鏡のパネルは銅、マグネシウム、マンガンを含むアルミニウムの高強度合金で作られている。

 コントロールルームもまた溜め息が出るほど美しい。特に象徴的な壁画だが、残念ながら作者名や制作意図を解説した学術的・公式な記録は見つけることができなかった。

 ソ連では1960~80年代にかけて、公共施設や研究所、工場、文化会館などにモザイクや壁画を施すことが一般的だった。その目的は単なる装飾ではなく、科学・労働・宇宙開発への理想を視覚化することにもあった。宇宙空間や天体を思わせるモチーフ、山岳風景や自然を連想させる要素、科学技術への希望、抽象化された放射状のデザイン。人類の進歩を象徴するものとして描かれるこれらは、ソ連後期のモニュメンタル・アート的な様式とも言えるが、今まで見てきた中でも色彩が独特だと感じた。ROT‐54の模型や書籍、電子オルガンと楽譜、望遠鏡の大量の未使用パネルなども、施設内に残されていた。

 ここでなんとゲストハウスで出会っていたフランス人夫婦と再会した。書店経営の夫とキュレーターの妻という、芸術や建築に興味関心のあるふたりで、今回はジョージアやアルメニアのソビエト建築を巡る旅をしているとのことだった。SNSの連絡先を交換し、「いつかまた、何処かで!」。旧ソ連構成国の何処かで再会できるだろうか。

 ROT‐54は、ソ連が科学という名の未来を信じていた時代の遺物だ。アルメニアの山中に築かれたこの巨大望遠鏡は、国家という枠組みを超え、宇宙という未知なる世界へ視線を向けていた。しかし、そのソ連はすでに存在しない。かつてモスクワを中心に結びついていた共和国は、それぞれ異なる歴史を歩み始めた。欧州政治共同体の首脳会合で、アルメニアがウクライナのゼレンスキー大統領に演説の場を設けたことに対し、ロシアが抗議したという報道に触れた時、私はこの山中の巨大な望遠鏡を思い出した。

 かつては同じ未来を見上げていたはずの人々が、今では互いに異なる方向を見つめている。その足元には、ソ連という巨大な国家が遺した廃墟が静かに横たわっている。ROT‐54は、宇宙を観測するための装置でありながら、地上の歴史の移ろいを映し出す鏡でもあるのかもしれない。

星野 藍

写真家、福島県出身。従姉の死、軍艦島に渡ったことをきっかけに廃墟を被写体とし撮影を始める。旧共産圏、ソビエト、未承認国家に強く惹かれ、縦横無尽に徘徊する。著書は、『幽幻廃墟』『旧共産遺産』『旧ソビエト連邦を歩く』ほか。受賞歴は、APAアワード2024 金丸重嶺賞、第一九回名取洋之助写真賞奨励賞。

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