土曜の朝[2026年2月28日]、イスラエル全土にサイレンが鳴り響いた。市民に避難を促すためのものではない。それはまるで勝利のファンファーレのように、戦争勃発そのものを告げる合図だった。それまでの1週間以上は、神経をすり減らすような不安な日々だった。避けられないと繰り返し告げられた戦争への緊張、とはいえ外交がまだ勝利するかもしれないというかすかな希望、その間で揺れ動いていた。でもこの日、ついにその時が来たのだ。
古代ギリシャの哲学者ヘラクレイトスは「同じ川に二度足を踏み入れることはできない」と言った。しかし、一度滅ぼしたと宣言した敵を滅ぼすことはできるらしい。わずか8カ月前のイランとの停戦合意後[12日間戦争]、イスラエルのネタニヤフ首相は「ライジング・ライオン作戦の12日間で、我々は後世に語り継がれる歴史的な勝利を収めた」と宣言した。しかし、彼の言う「歴史的な勝利」は、後世どころか、たった1年も持たなかった。
今回の攻撃には、イラン国民をアヤトラ[最高指導者。ハメネイ師のこと]による抑圧的支配から解放するという新たな目的が加わった。イスラエルが中東地域で果たす中心的役割の一つが、戦闘機や爆撃機を使って地域の人々に自由をもたらすことであることはよく知られている。
突如として、イラン国民の命はイスラエル人の感情のなかで非常に大切なものとなった。だから彼らは、自分たちのパイロットが「自由」という朗報、あるいはイラン指導部の暗殺や革命防衛隊のインフラや核施設の破壊をもたらすためなら、長い夜を防空壕で過ごすこともいとわない。
「我々の作戦は、勇敢なイラン国民が自らの運命を自らの手で切り開くための基盤を築くことになる」と、ネタニヤフは攻撃開始直後に自身のXにポストした。「イランのあらゆる民族は、専制政治のくびきを断ち、自由で平和を求めるイランを実現する時が来たのだ」、と。
イスラエル史上、誰よりも国民同士を対立させ、煽り立て、前例のない憎悪を煽り立てることにたゆまぬ努力をつづけてきた男。人道に対する罪で国際逮捕状が出ている男――その男が今、イラン国民の団結と専制政治との闘いを気にかけているなどと表明している。これほど多くの人命がかかっていなければ、これほど滑稽な話はないだろう。
おなじみの合唱
しかし、[イラン国民との]連帯を叫ぶ美辞麗句は、現れたのと同時に消えていった。民間人の犠牲者、特にミナブの女子小学校でイスラエル軍の空爆とみられる攻撃で約150人の児童が死亡したという報道が出始めると[その後米軍が自軍のトマホーク・ミサイルであったことを認めた]、イラン国民への配慮などと称されていたものは、紙のように薄っぺらなものだったことが露呈した。
小学校への空爆に衝撃を受けた私は、学校の映像を自分のFacebookページにアップした。その後に寄せられたものは、まったく予想外の憎悪の嵐だった。
私はすでに、ごく一部の例外を除けば、イスラエルのユダヤ人社会の圧倒的多数が、いかなる状況下でもパレスチナ人の死を悼むどころか、公然と喜んでいることを知っている。しかし、制服を着た幼い少女たちが殺されたことに対しても、これほどまでに血への渇望が向けられるとは想像していなかった。ましてや、多くのイスラエル人が「敵はイラン国民ではなく、イラン政権だ」と声を上げた、その舌の根も乾かぬうちに。ポストからわずか5時間で、私の投稿には数百件の憎悪のコメントが寄せられ、脅迫や罵詈雑言がメールの受信箱に殺到し始めた(これはいつものことだ)。中には、事件自体を否定したり、イラン政権が自国の学校を爆撃したと主張したりする者もいた。殺害された少女たちの運命を喜ぶ者も大勢いた。
ある者は笑いの絵文字を並べ、ある者は「素晴らしい。喜びと感動に満ちている。このような事例がもっと増え、左派の間でも起きることを願う」と書き込んだ。
永続的な戦争こそが団結のための儀式
もう一つ憂鬱で、しかし予想通りだったことは、ユダヤ人の野党指導者らがネタニヤフを支持し、戦争を熱心かつ反射的に支持したことだ。「このような時こそ、我々は共に立ち上がり、共に勝利する。連立政権も野党もない。あるのは一つの国民と一つのイスラエル国防軍だけであり、我々はみな彼らを支持している」と、ヤイル・ラピドはポストした。民主党党首としてシオニスト陣営の最左派のはずのヤイル・ゴランでさえ、控えめな態度で国防軍と戦争への全面的な支持を表明した。次の総選挙でネタニヤフの次の首相として最有力視されるナフタリ・ベネットも、安息日が終わるとすぐに戦争への支持を表明した。
これら三氏にとって、ネタニヤフ氏の血塗られたカハニズム(宗教的シオニズム)政権を打倒すること以上に差し迫った任務はないはずだ。彼らはネタニヤフの危険性を理解しているし、彼が再選した時に起きる壊滅的な事態も承知している。
しかし、戦争の臭いが空気に満ちるやいなや、そんな洞察はすべて消え去り、イスラエルの戦争機械に対する無条件な崇拝に取って代わられる。まるで、戦争に反対するという発想そのものが存在しないかのようだ。
そして、この仕組みをネタニヤフほどよく理解している人物はいない。自身の政治的立場がいかに危うくとも、シオニスト陣営のもっとも手強いライバルたちさえも、簡単に団結させられることを彼は知っている。「戦時下には連立も野党もない」というなら、永続的な戦争こそが彼にとってもっとも信頼できる政治戦略となる――そして彼は、それをますます頻繁に駆使する術を身につけたのだ。
ネタニヤフは冷酷で危険な戦争犯罪者だ。しかし、一つだけ否定できないことがある。イスラエルの指導者の中で、ユダヤ系イスラエル社会の集団心理をこれほど深く理解している者はいないということだ。その社会は、戦争と破壊の中にあってのみ自らの鼓動を感じ取れるかのようであり、攻撃し、破壊し、殺戮していない限り自らが存在していることさえ確信できない。そういう意味で、ネタニヤフはまさにその社会にうってつけの人物なのだ。
※この原稿は、+972magazine 3月1日配信記事 “We are at war, therefore we are”の抄訳です。






