【連載】台湾・移行期正義の練習帳(番外編)民主の花咲く台北観光ガイド──中正紀念堂と殷海光旧宅

栖来ひかり(文筆家)
2026/07/30
Large circular wall display resembling an eye with a blue-green center, timeline labels around the edge in a dark museum gallery with text panels nearby.
正記念堂の常設展「自由花蕊」

これまでの記事はこちら(連載:台湾・麗しの島〈ふぉるもさ〉だより)


中正紀念堂という空間

 中正紀念堂は、台北観光の定番スポットとして、必ずといってよいほど名前が挙がる場所である。だが、台湾の知人に「中正紀念堂を見てきたよ」と何気なく話せば、相手は思わず顔を曇らせるかもしれない。なぜなら「中正」とは、ほかでもない蔣介石の名であるからだ。台湾における蔣介石の評価は、いまなお大きく分かれている。「国を救った偉大な指導者」と敬う人がいる一方で、「多くの市民に血を流させた独裁者」と厳しく批判する人もいる。

 蔣介石の死後、1980年に完成した中正紀念堂だが、約25万平方メートルに及ぶその広大な敷地には、複雑な履歴が刻まれている。日本統治下では陸軍基地として利用され、戦後には中華民国陸軍総司令部が置かれた。つまりここは、観光名所となる以前から軍事と国家権力の記憶を背負ってきた「場所」なのだ。北方宮殿様式の巨大な空間には、権力を誇示するかのように巨大な蔣介石像が鎮座する。批判的な人々は、この場所を神を祀る廟になぞらえ、皮肉を込めて「中正廟」と呼ぶ。

 一方でこの広場は、独裁者の足元でただ沈黙してきたわけではない。1990年の「野百合学生運動」の舞台となり、天安門事件を追悼する灯をともし続けるなど、台湾の自由と民主主義に関わる重要な公共空間として機能すると共に、歴史記憶をめぐる政治的な綱引きの舞台でもある。名称は一度「国立台湾民主記念館」に改められ、その後ふたたび「中正紀念堂」へと戻された。このように、台湾社会が進める移行期正義の取り組みが及ぶなか、その変化が近年もっとも著しいのが、巨大な蔣介石像のしたに位置する一階の常設展である。

「偉人見学」のルートに置かれた処刑命令

 常設展示室の左側の空間には、蔣介石の従来どおりの「英雄伝」が並んでいる。生まれ故郷である浙江省のセピア色の風景から、孫文のもとで頭角を顕していった若き日の姿、そして軍事指導者として威風堂々と立つ写真の数々。その向かいには、巨大な霊柩車のようにも見えるロールスロイスが、恭しく黒光りする。次の部屋に進むと、蔣介石・宋美齢夫妻が愛用したスリッパなどの日用品が並び、団体客たちはガイドの説明を従順に聞きながら、ガラスケースに空ろな目を落としている。最後には、豪華な執務室の中央で柔和な笑みを浮かべる蔣介石の蝋人形が現れる。これが、長らくつづいてきた「偉人見学」のお決まりルートだった。

 だが、その空間にいま変化が起きている。かつて蔣介石体制によって徹底的に弾圧された政治犯に関する資料が、同じ展示空間の中に置かれているのだ。なかでも強い衝撃を受けるのが、黄温恭(こうおんきょう)(1920~1953)に関する記録だろう。黄温恭は日本統治下に日本で学び、戦後の台湾で歯科医を開業していた。だが、台湾を接収した国民党政権の腐敗、そして2・28事件の惨状を目の当たりにし、深い絶望と怒りを抱くようになる。新しい時代を求めた彼は省工委(中国共産党系の地下組織)に関わり、やがて秘密警察に捕えられる。

 当初、軍事法廷が下した判決は「懲役15年」だった。ところが、その判決文が最高権力者の机に届けられると、蔣介石は筆でこう書き込んだ。「死刑に処すべし」。その一筆によって黄温恭の運命は決まり、1953年、黄は33歳の若さで銃殺刑に処される。蔣介石による直接の処刑命令が書き込まれたこの公文書はいま、蔣介石を顕彰するための遺品に囲まれた展示空間の中心に置かれている。

台湾の民主化を世界史のなかに置く

 その光景を網膜に焼き付けたまま、今度は入り口に向かって右側の展示、《自由花蕊》(自由の花芯)へと歩を進めてみよう。大きなスクリーンには、花や鳥と人々をモチーフにした美しいアニメーションが映し出され、静かな歌声も聞こえてくる。白色テロの犠牲となったツォウ族のリーダーであり音楽家、高一生(こういっせい)が遺した歌「長春花」を、同じく政治受難者として10年間投獄された蔡焜霖(さいこんりん)(1930~2023)が歌っているのだ。

 しかし、展示の奥へ足を踏み入れると空気は一変する。国家が個人の自由を奪い、思想を管理し、さらには「過去の記録」までも支配し、改ざんしていくジョージ・オーウェルの『1984年』の世界。見上げると、丸いスクリーンに巨大な目「ビッグ・ブラザー」が映し出されこちらを見据えている。

 その下には、第二次世界大戦後、世界各地で起きた抵抗と人権運動の歴史が時系列で刻まれる。韓国の済州島4・3事件、チェコスロバキアのプラハの春、マレーシアの5・13事件、ポルトガルのカーネーション革命、アルゼンチンの5月広場の母親たちの運動、そして中国の天安門事件――。《自由花蕊》は台湾の民主化の歩みを、そうした世界史的な流れのなかに置き直そうと試みる。

焼け焦げた部屋――鄭南榕の抵抗

 台湾民主化をめぐる年表の裏へ進むと、突然、焼け焦げたアパートの一室が現れて思わず息をのむ。これは台湾の言論の自由と台湾独立を命がけで訴えた社会運動家・鄭南榕(ていなんよう)(1947~1989)のオフィスの再現である。

 戒厳令下の重苦しい空気のなかで鄭南榕は『自由時代周刊』を創刊し、言論の自由を掲げた。そして1989年4月7日、完全武装の機動隊が彼のオフィスに突入しようとした直前に、自らの小さな城に火を放った。焼身自殺というあまりに壮絶なその最期は、当時の台湾社会に強烈な衝撃を与え、のちの民主化運動の精神的支柱の一つとなった。先ほど見てきた荘厳な蔣介石の執務室と、この焼け焦げた鄭南榕のオフィスの対比はあまりにも鮮烈で、強烈な皮肉に満ち満ちている。

 さらに行くと、戒厳令という名の透明な檻が、人びとの生活の隅々にまで張り巡らされていた展示がならぶ。禁歌や禁書。徹底的に管理された海岸線。髪型の規制。夜間外出の禁止。出入国の制限。言語活動への介入。白色テロ期の冷酷な取り調べ室。実際に獄中につながれた画家の油絵。そして最後の部屋では、台湾が民主と自由を勝ち取るプロセスに生を投じた人びとと遺族に、光が当てられる。

 ここで再び立ち上がってくるのが、先ほど蔣介石の展示空間に現れた歯科医師・黄温恭の記憶である。展示では黄が逮捕されたあとに生まれた次女・春蘭に向けて書かれた遺書を観ることが出来る。黄は処刑の前夜、妻と子どもたち一人ひとりに宛てて遺書を書いた。しかし当時の国民党政府は、その遺書を家族にわたすことなく国家の機密文書の中に封印した。残された家族は、彼が最期に何を伝えようとしたのかも知らぬまま、政治犯の家族として厳しい監視と差別のなかを生き抜く。処刑から50年以上が過ぎた2008年、民主化が進み過去の公文書の整理と公開が行なわれるなか、遺書は眠りから覚めた。そして2011年、長い歳月を経てようやく家族の手に届けられたのである。

「外省人」対「本省人」では語りきれない民主化の道

 ところで、この《自由花蕊》展には、もうひとつ見落としてはならない視座がある。それは、国民党とともに台湾へ渡ってきたいわゆる「外省人」のなかにも、台湾の民主化のために力を尽くし白色テロの犠牲となった人びとが存在した事実だ。しばしば日本において、台湾現代史は「外省人」対「本省人」という二項対立で語られがちだが、それほど単純なものではないことがわかる。

 その象徴的な人物の一人が、雑誌『自由中国』を創刊したリベラリスト、雷震(れい しん)だろう。「反共」の旗印のもとで蔣介石と国民党政権に近い立場にいた雷震だが、蔣介石が独裁色を強めるにつれて両者の距離はしだいに広がっていく。やがて複数政党制や政治改革を求める立場を鮮明にした雷震は、1960年、ついに逮捕されて懲役10年を宣告され、雑誌は廃刊となった(雷震事件)。しかし、雷が蒔いた自由・民主・人権、そして民族アイデンティティを超えた「連帯」を希求するタネは、今日の台湾社会の重要な土台を支えている。雷震研究の第一人者である薛化元(せつかげん)は、『台湾民主化の先駆者 雷震伝』(深串徹・訳、三元社、2025)のなかで、1950年代の『自由中国』が掲げた改革の主張や努力が、のちの1970年代の民主化運動(党外運動)に参加した知識人やエリートたちにも少なからぬ影響を与え、台湾民主化の重要な養分になったと指摘している。

 ところで、この『自由中国』の主要執筆者として筆をふるっていた重要人物がもうひとり、1950~60年代の台湾を代表する自由主義の学者、殷海光(いんかいこう)である。中正紀念堂から2駅、MRT台電大楼駅から徒歩10分ほどの路地の奥にある「殷海光故居」には、権力の恫喝を恐れず、思想と言論の自由のために抗いつづけたある哲学者の体温を感じることができる。

殷海光故居

哲学者の小さな庭

 1949年、殷海光が国民党政権とともに台湾へ渡った当初は、彼もまた「反共」の知識人であった。しかし、戒厳令が敷かれ一党支配が牙をむくなか、殷海光の思想の羅針盤は「国家」から「人の尊厳」へと大きく方向を変えていく。『自由中国』を通じて蔣介石の違憲的な総統連任を批判し、複数政党制の必要性を論じた殷は、次第に国家権力にとって排除すべき存在とみなされるようになる。そして、雷震事件によって『自由中国』は潰され、殷海光も台湾大学の教壇から追われた。

 彼を慕う学生たちは殷の自宅を訪れたが、周囲には常に特務のジープが停まり、家族や友人に至るまで監視の網が張り巡らされていた。いつ誰に背中を突き飛ばされるかわからない恐怖は日常のなかにあった。殷は学生たちに「横断歩道では不審な車に気をつけなさい」とたびたび注意を促したという。監視のストレスに身体を蝕まれ、経済的にも追い込まれ、殷海光は1969年に胃がんにより亡くなった。49歳だった。

 室内に展示されているアインシュタインやバートランド・ラッセルとの書簡は、殷海光が東アジアの島の片隅で孤立しながらも、世界の知性と響き合おうとしたことを物語る。とりわけ饒舌なのが、ちいさな丘と池をもつ裏庭である。入居当初は荒れ果てていたのを、殷海光は土を掘って小道を通し、丘を築き、娘のために水池をつくった。それは監視下に置かれた知識人が泥にまみれて「生きる場」を再構築し、「語る場」を創造する営みであった。小さな丘のうえで友人や学生と向き合えば、不審な人物が近づいてきてもいち早く察知し、すぐに話題を変えられる。自由な言葉を交わすために築かれたこの小さな丘を、彼は「孤鳳山」と名付けて愛したという。

栖来ひかり

(すみき・ひかり)文筆家。1976年生まれ、山口県出身。京都市立芸術大学美術学部卒。2006年より台湾在住。著書に『台湾と山口をつなぐ旅』(西日本出版社)、『時をかける台湾Y字路』(図書出版ヘウレーカ)、『日台万華鏡』(書肆侃侃房)など。

2026年8月号(最新号)

Magazine cover with a white koi fish swimming left against a blue-purple background and large pink vertical Japanese title text on the right side.

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