【関連】特集:左派は復活できるか(2025年11月号)

2025年2月23日のドイツ連邦議会選挙で、左翼党は8.8%を獲得した。1月上旬の時点で、いわゆる「5%の壁」を越えるのが困難視されていたことを考えれば、この結果は「奇跡」とすら呼べるであろう。
なぜドイツの左翼党は、大方の予想を裏切って復活を遂げることができたのだろうか。まずは、ここ5年以上続いた同党の低落傾向の背景から探りたい。
党勢退潮の原因
左翼党は2007年6月17日、旧東独の支配政党だった社会主義統一党(SED)を刷新した民主社会主義党(PDS)と、旧西独で「赤緑」ゲアハルト・シュレーダー政権の福祉削減政策を拒否する社会民主党(SPD)離党組が立ち上げた「労働と社会的公正・選挙オルターナティヴ」(WASG)とが組織的に合同して誕生した*1。PDSのグレゴール・ギジ、WASGのオスカー・ラフォンテーヌ元SPD党首というスター政治家の存在もあって新党は旋風を巻き起こし、2009年9月27日の連邦議会選挙では11.9%を得票し、第4勢力に躍り出た。
1 詳細は、拙著『変容するドイツ政治社会と左翼党』耕文社、2015年。
もっとも、左翼党は当初より、プラグマティックな東独と原理原則志向の西独という肌合いの違いを含んでいた。また、州政権に参画することで政治的妥協を余儀なくされ、結果的に支持率を下げたり、「所詮は既成政党に過ぎない」と目されるジレンマも抱えていた。2012年6月2日、ゲッティンゲン党大会で、ギジ連邦議会議員団長は、「連邦議会の我々議員団を憎悪が覆っている」と強い警告を発している。
2021年9月26日の総選挙で、左翼党は得票率4.9%にとどまり、小政党の乱立を防ぐ「阻止条項」として知られる「5%の壁」を下回った。ただし、3小選挙区(ベルリン・トレプトウ=ケーペニク、ベルリン・リヒテンベルク、ライプツィヒII)の勝利により、かろうじて連邦議会議員団を保つことができた。
同日、家賃高騰が深刻化するベルリン市で、ドイツ住宅会社など3000軒を超えるアパートを持つ大手不動産会社から住宅物件を収用し、公営住宅として提供するよう市当局に求める住民投票で、賛成が57.6%に達した。左翼党はこの運動の重要な立役者であったが、その後も党勢は一向に上向かず、なかでも欧州議会選挙や東独ブランデンブルク州議会選挙での大不振など、政治的な「死のゾーン」が確実に迫っていた(別表参照)*2。
2 ドイツの欧州議会選挙では5%条項は適用されない。またザクセン州議会選挙で左翼党は、2つの小選挙区で勝ったため議員団を維持できた。

有権者が左翼党から離れていった最大の原因は、年来の内紛にある。その中心にいたのが、ザーラ・ヴァーゲンクネヒト元連邦議会議員団共同団長である。
異端児ヴァーゲンクネヒトの離党
ヴァーゲンクネヒトは、1969年イエーナ(現テューリンゲン州)の生まれ。幼少期から一匹狼的な存在で、その反抗的な態度ゆえに大学進学を許されなかった。それにもかかわらず、東独末期の1989年3月に、あえて社会主義統一党(SED)に入党、民主社会主義党(PDS)では、党内グループ「共産主義プラットフォーム」の顔となった。イラン人を父とし、エキゾチックでローザ・ルクセンブルクをほうふつとさせる風貌の彼女は、年配の男性政治家を前に堂々と資本主義批判を展開し、トークショーで引く手あまたになった。
いわば原理主義者のヴァーゲンクネヒトは、州連合政権への参加を批判、左翼党の結党にも反対していた。ところが、その後彼女は先述のラフォンテーヌと親密な関係になり、2014年に結婚することになる。
ヴァーゲンクネヒトは2015~19年、左翼党の連邦議会議員団共同団長を務めたが、2015年「難民危機」に際しては、「難民受け入れの上限を設けるべきだ」と党の方針に真っ向から反する主張を開陳し党内で物議を醸した。また、2017年10月には議員団に宛てて、ベルント・リークシンガーとカティア・キッピング両共同代表が自分を議員団長から追いやろうとしていると非難する書簡を送りつけた。このように強烈なエゴを発揮するヴァーゲンクネヒトは、2018年9月、党派の枠組みを越えた「結集運動 立ち上がれ」を始動させたが、さしたる反響を呼ぶことはできなかった。
2021年4月に出版した『独善者たち』(Die Selbstgerechten)で、気候正義や多様性にこだわる党内「意識高い系」の「ライフスタイル左翼」を強く批判した彼女は、夫のラフォンテーヌが2021年総選挙に臨んで、地元ザールラント州で左翼党に投票しないよう呼びかけ、翌年3月17日に離党に踏み切ると、2023年2月25日、党に無断で1万人規模の平和集会を組織するなど、ますます対決姿勢を先鋭化させた。
自ら繰り返し新党結成を示唆する一方、連邦議会で「我々は本当に欧州で最も愚かな政府を持っている」(2023年9月8日)と議会人として極めて不穏当な演説をしたことから、党内からはヴァーゲンクネヒトの除名を求める声が沸き起こった。結局彼女は10月23日、9人の連邦議会議員とともに離党、その名も「理性と公正のためのザーラ・ヴァーゲンクネヒト連合」(BSW)を立ち上げた。こうして12月6日、左翼党の連邦議会議員団は解体し、28人の「グループ」になった。
2024年1月8日、名実ともに個人政党として発足したBSWは、「ルードヴィヒ・エアハルト流の経済政策、左翼党のような社会政策、極右『ドイツのための選択肢』(AfD)ばりの難民・欧州政策のミックス」(ギジ)という新奇さから、欧州議会選挙で6.2%、ザクセン州議会選挙で11.8%、テューリンゲン州議会選挙で15.8%、ブランデンブルク州議会選挙で13.5%を獲得、テューリンゲンとブランデンブルクでは一気に州政権に名を連ねた。
だが、他党との妥協を嫌い、入党者の審査を一手に行なう党中央が、州支部と軋轢を引き起こしていることもあり、BSWは総選挙では5%に4981票足らず、メディアでの露出が激減した。党勢の立て直しを図って、BSWの略称は維持したまま党名を変更することが12月に予定されているが、個人政党の実態は変わりようがない。
左翼党再建への足掛かり
ヴァーゲンクネヒト離党後の2023年11月17~19日、アウグスブルクで党大会を開いた左翼党は、党のロゴを改め、欧州選挙の共同筆頭候補者に党共同代表のマルティン・シルデヴァンと難民救助船「シー・ウォッチ」の船長カローラ・ラケーテを選出した。移民・難民の流入を忌避する世論に抗う人選である。